10/01/14 20:39:35 k+U+pDMj
その地方から娘を"仕入れ"各宿場やその他遊郭への供給を行ってたのが
女街と呼ばれる連中で、哀れ寒村の口減らしとなれば親元に出向いて
金を払い、親にすがりつく娘を引っ張って置屋や各遊郭などに連れて行いき
その親に払った金額+手間賃をその遊郭の亭主から貰い、ここで初めて俗に言う
証文なるものが亭主の手によって娘に課せられる。その金額を返すまでを期間を
年季と呼び平均して7~8年の期間だったそうな
ただ上で出ていた方言というのもこのシステムを見ると発生した可能性がある
江戸後期まで女街は基本徒歩だったのでどうやっても娘を連れて歩ける距離は
限られるから必然的に同地方の哀れな娘御が集まる宿場や置屋は決まってくる
ただ明治以降は写真にも残ってるとおり汽車や馬車などの交通手段を
使えたのでこの限りじゃない
閑話休題、( ゚∀゚)o彡°モフモフ!モフモフ!