08/03/17 02:50:30 RZCiN4Zy0
椅子に三行半しようと思ってきたら、もう大量の三行半があってなんかショックだった。
そしてショックを受けた自分に更にショックだ。
一億冊とか看板連載ワッショイ的な集A社の持ち上げに踊らされて
椅子にはどこでも盤石な地位があるのだと刷り込まれているのに違いない。
そんなのないことくらいアニメ枠の悲惨な移動で思い知らされてるじゃないか。
飛翔のカラーページを切り抜いていた頃が懐かしい。
水曜日の七時半を楽しみにしていた頃が懐かしい。
デッドエンドの公開日を指折り数えていた頃が懐かしい。
底抜けにまっすぐで、どんな絶望にも背筋を伸ばして進んでいく仲間たち。
けれど彼らの関係が気持ち良いのは馴れ合いではないから、
あくまでひとりひとりとして夢を見ているからで、
彼らの目指す方向は物理的には同じでも心理的には同じじゃない。
そういう本質的にはばらばらな人間が仲間という形式の下に集まって
「いつかたどり着く夢の終わり」という別離と終焉に向かって進んでいる。
彼らはそういうものをいつも気にもとめず航海し、または過去とともに乗り越えてゆくけれど
夢半ばでの死をも含んだ「夢を見ることの愚かしさ」が
この明るい物語の根底にあるのだと勝手に思って、勝手に惹かれていた。
東海での緊迫した戦闘、綿密な過去編は素晴らしかった。
だからこそそういう反目するテーマを作品の根底に感じ続けて水7までは読み続けた。
しかし誰も死なずにご都合主義の大団円ばかり続き、
戦闘も記号的なスラップスティックにしか見えなくなったのはいつからか。
だからついにフィルターがかけられなくなって、
水7編での剣士の必殺技に吹いてしまったんだと思う。
いつの間にか主人公たちの年齢を追い越すくらいの長い年月の海を
自家発電で乗り越えてきましたが、私の船はもう進めません。
勝手に一人で沈んでいくので、どうか今のファンたちと明るい旅を。
航海の安全と無事を祈って。好きだった。さようなら。