14/08/03 11:00:11.76 y1M3Yfk1
>>745
今日、問われるべきこととは、
この経文が指摘していることの重大性を如何に認識してるかどうか?
です。
たとえば一代のように、
普段は原始経典に信をおきながらも、こういう肝心な経文については無視して素通りしようとする。
大乗に洗脳された弊害によって、いつも大天才と持ち上げて賛美する石飛氏からも重要だと
取り上げられている経文にも関わらずです。
『比丘らよ。未来世に比丘どもは次のようになるであろう。
如来の説かれたこれらの諸経典は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応して
いるものであるが、それらが説かれる時には、彼らはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、
了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを受持すべくよく熟達すべきものであるとは
考えないであろう。
これに反して文芸人によって創られ、詩文調であり、文辞麗しい諸経典は、外道に由来するもので
あり、弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれる時には、彼らはよく聞こうとし、耳を傾けよ
うとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものである
と考えるであろう。
かくの如くにして、如来の説かれた、深遠にして意義が深く、出世間のものであり、空と相応してい
る諸経典は消滅してしまうであろう。
比丘らよ、それ故にここでこのように学ぶべきである。――[如来の説かれた、深遠にして意義
が深く、出世間のものであり、空と相応している諸経典が説かれる時に、我らはよく聞くことにしよう。
耳を傾け、了解しようという心を起こそう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると
考えることにしよう]と。』(『サンユッタ・ニカーヤ』20.7.4-5)