15/02/03 14:56:40.31 rzZL+iQz
ああ、良くないと思います。
一般著書にかかれている事は遠慮なくレスするけど
リンポチェから教えられた密教の事は書かないよ。一般的な事しか書かない。
その法話、灌頂を受けた者だけに教えられたモノだからね。
サマヤに反する事はしないよ。
とにかくリンポチェからは師を尊敬しなさいと言われている。
570:神も仏も名無しさん
15/02/03 15:07:48.34 lLGyZnq7
例えば、カーラチャクラタントラについて説かれた法王の著書がありますが
手に取って読んだ人は、それを他言することも、
サマヤに反するからよろしくないという解釈でよろしいでしょうか。
571:神も仏も名無しさん
15/02/03 15:14:55.54 rzZL+iQz
僕はカンリン、ダマル、等々チューの法具はあるけれど
他にも色々やる事があってチューはたまにしか出来ない
只、心は半分チベット人(笑)見たいな者です。
572:神も仏も名無しさん
15/02/03 15:24:19.23 rzZL+iQz
インドでカーラチャクラの灌頂があって言葉は西蔵語
イヤホンで英語通訳でしたが、本になっているならサマヤに反しない
のではないでしょうか?
573:神も仏も名無しさん
15/02/03 15:34:37.82 liI/Reqb
>>554
法王が総括して管理すると考えるのは仏教的ではないと思います
各師がそれぞれの信頼関係の中で行うものと思われます
あくまでそれぞれの信頼関係なので、誰かがやってるから私も同じようにやっていいというような普遍的ものでなく、
各自の能力や状況に応じて、それぞれに行われるものと思われます
574:神も仏も名無しさん
15/02/03 15:53:18.10 AJeNgNBS
何故サマヤがあるのか考えずに「サマヤだから言わない」と意味も考えずにただ頑ななタイプって釈迦が一番嫌うタイプだから
自灯明ってのは臨機応変に柔軟であれって事だから
575:神も仏も名無しさん
15/02/03 17:24:17.58 rzZL+iQz
釈迦の時代に密教はなかったのでは?
師匠やその弟子によっておっしゃる事は少し違います。
ただ、ネット上であまりしゃべるのはどうかな?と思います。
576:神も仏も名無しさん
15/02/03 18:11:17.73 rzZL+iQz
ただ、功徳を積むのに8供養、水2杯花香灯明塗香トルマ音
護法尊ようの2段杯の供養は欠かさない
余裕があれば7器の水供養かな
577:神も仏も名無しさん
15/02/04 02:56:54.76 IG/jIuuQ
>>550
その通りですね。私もそう思います。
ところで、あなたの知る仏教と私の知る仏教は、果たして同じものなのでしょうか。
キリスト教と仏教は一緒だという人の知る仏教は、私の知る仏教またはキリスト教とは多分違うと思いますが、
それはそのように見えている、現れているだけなのかもしれません。果たしてどのように証明すれば良いのでしょうか。
578:神も仏も名無しさん
15/02/04 06:09:07.62 xYklsdbx
仏教とキリシタンは全く別でしょ
仏教にソウゾウ神なんてない。そんなバカバカしいモノを説くのは
キリシタンと仏教に近いモノとしてはヒンドゥのブラフマンとかかな?
579:神も仏も名無しさん
15/02/04 06:27:01.26 JJOCO63K
>>563
それは仏教の伝統通り経証と理証によってなすしかないでしょう。
違うものは違うと説くのは、釈尊以来の伝統と思われます。
少なくとも私が知る限り仏教で聖者と認められる人で仏教とキリスト教が同じだと言う方は居ません。
経典も論書もないと思われます。
580:神も仏も名無しさん
15/02/04 08:15:19.02 in6NExas
>>564
ブラフマンを単なる創造神だと思ってるのは無知過ぎる
581:神も仏も名無しさん
15/02/07 09:36:51.47 eIGO2+r5
>>565
そうですね、私も仏教とキリスト教が同じだと力説するラマには会った事がありません。
ただ、仏教徒であるならば、キリスト教であっても違いはない、同じだと言う事も
不可能ではないのではありませんか?誤解を生むから言わないだけで。
例えその答えに至るまでの論理が破綻していて、偶然に同じ事を言っているだけの人がいたとしても、
運良くくびきに嵌った盲目の亀である私達と彼等にどんな違いがあるのでしょう?
582:神も仏も名無しさん
15/02/07 09:49:48.34 uM2UjEvS
>>567
>ただ、仏教徒であるならば、キリスト教であっても違いはない、同じだと言う事も
>不可能ではないのではありませんか?誤解を生むから言わないだけで。
私は不可能だと思います。可能だと言うなら、釈尊以来、ヒンドゥーやボン、儒教、道教、神道、キリスト教と違うと言ってきた聖者がたを否定することになるでしょう。
そして何より説いている内容が違う。縁起・空性と創造主の摂理は全く違うし、
神の命に従うことを、仏教では輪廻する神に従っても解脱・涅槃は無いと一貫して説いてきましたから。
そうでないというなら、誰がそのようなことを言っているか教えてください。
583:神も仏も名無しさん
15/02/07 10:58:18.58 gjq+fm0u
神の定義が杓子定規過ぎだろ
あれはスコラ哲学の追求によって法身と同様の定義であることが透けて見えている
どんだけキリスト教適当に理解してんだよ
584:神も仏も名無しさん
15/02/07 12:13:39.92 eIGO2+r5
>>568
確かに世俗的な見方で物事を見た時、仏教とキリスト教は確かに様々な違いがあります。
しかしそれはそういう要因によってそのように現れているだけで、
究極的な見方をすれば違いは存在しないのではないでしょうか。
さらに、世俗的な見方と究極的な見方は矛盾しないというのが大乗仏教の価値観です。
究極的な見方をした場合、仏教もまた本質はないのではないでしょうか。
お釈迦様は仏教の無い世界に生まれ仏教を説いた偉大な方ですが、それは何故でしょうか。
仏教があって初めて究極的な見方が出来るわけではなく、仏教があろうと無かろうと
究極的な見方というものはあるのではないでしょうか。
そうなると、仏教とキリスト教の違いを説明する事は究極的なものの見方、
空性を理解する上において、果たしてそんなに重要な事なのでしょうか。
むしろ空性への理解を深めるため、本質的には違いがないと考える方が
このスレッドにとっても有意義ではありませんか?
585:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
15/02/07 13:05:27.78 P1v0SATb
酔っ払い「酒なんか何でも一緒、細かい事言わずにパーッとね?パーッと!」
杜氏「今、何っつった?」(怒)
ソムリエ「キミ、そこに座りなさい。」(怒)
ドイツ人「ビール以外はな。」(怒)
ロシア人「一理ある。」(ウォッカラッパ飲みして)
ムスリム「全部悪魔の水です。」(真顔)
朝鮮人「トンスルが起源ニダ!」(火病)
586:神も仏も名無しさん
15/02/07 13:17:56.09 uM2UjEvS
>>570
>しかしそれはそういう要因によってそのように現れているだけで、
>究極的な見方をすれば違いは存在しないのではないでしょうか。
そのように言う仏教の伝統聖者は誰もいないでしょう?
いれば教えてください。
>さらに、世俗的な見方と究極的な見方は矛盾しないというのが大乗仏教の価値観です。
>究極的な見方をした場合、仏教もまた本質はないのではないでしょうか。
キリスト教では本質がないと言うでしょうか?
>お釈迦様は仏教の無い世界に生まれ仏教を説いた偉大な方ですが、それは何故でしょうか。
それは過去の因縁と誓願によると仏教では捉えられます。
キリスト教では因縁を認めないと思いますが、違いますか?
>仏教があって初めて究極的な見方が出来るわけではなく、仏教があろうと無かろうと
>究極的な見方というものはあるのではないでしょうか。
仏教では、ブッダ以外究極的な見方ができないとします。
>そうなると、仏教とキリスト教の違いを説明する事は究極的なものの見方、
>空性を理解する上において、果たしてそんなに重要な事なのでしょうか。
ですから、伝統的に重要ですし、逆にキリスト教と仏教が同じという不当前提から話し合うと色々、問題がでるでしょう。
>むしろ空性への理解を深めるため、本質的には違いがないと考える方が
>このスレッドにとっても有意義ではありませんか?
ですから、そういう不当前提は逆に有害です。
587:神も仏も名無しさん
15/02/07 13:18:39.08 uM2UjEvS
そういった見方を取る人は、近代ヒンディーやニューエイジがいますが、チベットやビルマといった現在でも聖者を出している活きた伝統では全く認められていません。
例えばヒンドゥーやネオ・プラトニズム、その影響を受けたキリスト教神学では不変で非創造者などとされます。
これを一部の学者は如来蔵や法身などと捉えますが、それが誤りであることは釈尊以来、そのように説くヒンドゥーとは違うと一貫して仏教の聖者が言い続けているところに明瞭に見られます。
このような見方を抜け出さないと良くて天界に生まれるだけで、本質的には何も良くならないと仏教の諸経・諸論は説きます。
588:神も仏も名無しさん
15/02/07 13:25:58.66 gjq+fm0u
>>572
お前仏教のテキストにしか興味が無さそうだな
589:神も仏も名無しさん
15/02/07 13:57:02.49 uM2UjEvS
仏教は行じなければ、意味ないでしょう
そして行じたと言っても、相手に優しい言葉ですら語れないようでは、行じてるとはいえません。
しばしば、正誤を話し合う中、経典・論書と矛盾があった場合に行や体験を語る人は、逃げ道として語ります。
教えは自らの無明を示す鏡。せっかく、自らの無明を写しだしても、それを認めないのではどうしようもないでしょう。
まるで自分の醜い姿を映し出す鏡を正視できない狂人のように
自分の見方や体験を無謬であるとしてしまっては、話し合いにはなりません。