14/09/14 19:37:45.18
>>457 補足つづき
どうもスレ主です
「男子三日会わざれば刮目して見よ」(下記)だな
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呂蒙(りょ もう、178年 - 219年)は、中国後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。字は子明(しめい)。
汝南郡富陂(安徽省阜南県)の人。『三国志』呉志に伝がある。
呉下の阿蒙に非ず
呂蒙は黄祖討伐を始め、赤壁の戦い、その後の荊州を巡る一連の戦いでも常に大将を務め戦功を上げる一方、教養は全くといってよいほど無かった。
しかし、主君の孫権から教養の大切さを諭されて勉学に励んだ。『江表伝』によると、孫権からは「別に博士になれというのではない、ただ過去のことを多く知っていてもらいたいだけだ」と言われたのだが、呂蒙は結局儒学者にも勝るほどの量の学問を身につけたという。
魯粛が周瑜の後任として陸口に赴く途中、呂蒙の軍営の前を通った。
呂蒙に対し、魯粛があれこれ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙は何でもスラスラと答えてしまったという。
魯粛は関羽対策について、逆に呂蒙から5つの策略を与えられることになった。魯粛は感心し、呂蒙の母に目通りをして友達になることを約して別れた。
『江表伝』では、魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」(「阿」は“~ちゃん”のニュアンスで、「呉にいた頃の蒙ちゃんではない」の意になる)と評し、
それに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっているということ。転じて、いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よという意味)と、言ったといわれている。
孫権は成人してから学問に励んだ武将として、呂蒙と蒋欽を挙げている。またこの事から、進歩のない人間のことを「呉下の阿蒙(呉の呂蒙ちゃん)」と呼ぶようになった。
故事成語
士別れて三日なれば、即ち更に刮目(かつもく)して相待す(あいたい・す)べし - 日本では「男子三日会わざれば刮目して見よ」という形に変化している。