14/08/31 20:36:28.49
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【なにはさておき量子論 第7章 EPR論文をめぐって】
(抜粋)つづき
「EPR相関」がパラドックスである、という事をボーアは認めなかった。ボーアは、AとBを含む観測系自体がひとつの系である、と主張したのである。
そして無数の粒子が相互作用した結果としての宇宙が存在する。すなわちひとつの系は、系の全体に依存しないような部分へと分解できない。
つまり、宇宙とはもはや分離できない全体である、ということになる。
長くこの議論には終止符が打たれなかったが、驚くべき事に、フランスのアスペおよび、スコットランドのクラインポッペンが、この「EPR相関」を実験で確かめたという。
その結果「量子テレポーテーション」を利用した「量子コンピュータ」などへの応用が研究されているそうだ(事実はSFよりも奇なり)。
さて、ここまでをまとめよう。
量子論においては、EPR相関が正しい。よって、
宇宙空間のある一点からたった一個の光子が放出されたとする。波動関数などと面倒なことを言わなくとも、この宇宙のあらゆる場所で、その光子を「観る」可能性がある、のは自明である。
ところが、特定の人がその光を「観てしまった」その瞬間に、他の全ての人はその光子を観る可能性がゼロになる。それは、他の全ての人の意思には関係がない。
だから、「我観測す故に粒子あり」なのである。
「シュレーディンガーの猫」の結論
だれかが先に猫の生死を見てしまえば、その瞬間に猫の生死は決まる。あとから見る人の意思には関係なく。
本当にこの結論でよいのだろうか? みなさん、どう思います...