12/02/25 11:43:53.40
例えば、草がある。
その草は「草」としてそこに存在している訳だが、我々がそれを草と認識するには、草がまず草であるという理解が必要となる。
何か分からないものに対して、その「もの」に自分の少しの理解が加われば、そこに存在しているものの見方も変わってくる。
汚い話になるが、うんこが目の前の道に落ちている。
殆どの人はうんこから遠ざかり、逃げるだろう。その状況下で「なぜ、うんこがそこに落ちているか」を考える人はそう少ない。「うんこ」に対する理解の仕方が一方的であるために、殆どの人は同じ行動をとってしまう。
ある問題に出会ったときに、いわゆる「答え」までの考える過程は人それぞれ。
ただ数学は答えが1つである。
その1つの答えを求めて、論理的に思考するのである。
論理的に思考することは、我々に行動の自信を与える。
自分が次に何をすればよいのか、どのような反応をとればよいのか。
人間が進化していく過程の中で、「考える」という時間があったはずだ。
考えることは、人間に与えられた楽しみであり、またそれは同時に喜びである。
数学の「緻密な論理性」はまさに、我々人間が持つ「最高の思考力」なのである。