14/07/13 08:36:14.04
>>377 つづき 6 of 7
付言 : 実社会/生活の問題において演繹的思考様式のみで答えを出すのは、「凡庸」もしくは「保守的」であることの表れである。
例えば「反原発デモ」や「集団的自衛権反対デモ」のように、「これまで長い間、集団による示威行動が有効に機能してきたからまたやれば上手くいく」とか、
「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」などで、むやみに他者を見下し、侮蔑しまくる行為、さらには小保方氏が不正行為をした動機なども、多分、
「皆がやるから自分もやる」「これまでの習慣だからまたやる」という「演繹的思考様式のみによる判断」であろう。
本文で述べたように演繹的思考様式とは、「思考」というよりは既に頭の中で公式化されたテンプレートによる事務処理であり、個々の判断には一貫した整合性もなく、
注意/観察からの創造性とか、論理性を保つといった、言わば「頭脳労働の産物」ではない、「極めて条件反射的な判断法」である。
そして一方で、帰納的思考様式で真剣に物事を考えるということは、一人一人が全て異なる結論に到達することを意味するから、
「他者と異なることを実行できる主体性/勇気/度胸」がなければ”絵に描いた餅”同然である。
批判されたり、馬鹿にされたり、スルーされたりすることが怖くて、独自の主張を一貫できないのであれば、考えるだけ時間の無駄である。
こうした事柄とも関連するが、社会の支配的な慣習や価値観に対して真っ向から問題意識を持てるような者とは、全人類という大集団の中でも極めて希な存在である。
(この点に関する更に詳しい理由については、後の理論で明らかにする)ここでは一つの引用をするだけに止めておく。
「優れた信仰と慣習には、機械的なものに堕していく強い傾向がある。このため、独創性を絶えず発揮する人物が次々に現れて、優れた信仰と慣習の根拠が伝統以外になくなるのを防がない限り,
信仰も慣習も生命力を失っていき、本当に生きている信仰や慣行から、ごく小さな衝撃を受けただけでも抵抗出来なくなるだろう。その結果、文明が死滅する可能性も否定できない。」
(J.S.ミル 「自由論」 山岡洋一/訳より)
つづく