14/07/27 20:42:36.82 ID3c5Ffu
>>77の続きだけど、角度を変えてもう一度考察してみると。
>どうして無観念でそれが記憶できるんだ?って話だわなww
>従って無観念で自分は悟ってるって思う記憶は出来上がらないって話だし
つまり、悟り体験は無観念(無思考)の中で行なわれるもの。
でも、無観念(無記憶)では悟り体験を表現できない。
だから、悟り自体が嘘っぱちの可能性も無きにしあらずで。
とまぁこう言う事だと思う。
我々は個我としてこの世に現れ、そして生まれてこの方、そこにドップリと浸かっている。
本当の我々は、ハイヤーセルフとか真我とか全我とか云われていて、
個我と二人三脚とか、或いは一心同体とか、又は二人羽織とか云われて、常に重なって生きて来た。
最初からそうで、少しでも互いにズレていれば分かるけれど、ぴったり重なってるのでまったく気づかない。
つまり、全我がこの世に生まれ堕ちた時に、個我が生じてそれと重なってしまったと言う事に成るかと。
でも全我は、この世に生きるには個我として生きねば成らず、
けど全我は、個我の裏側(あの世?)に重なってしまっていて、自分にまったく気付けない始末。
けど、何らかの作用で思考(個我)が停止すると、全我は自分の姿を嫌が応にも感知する事になる。
そして、重なってると言う事が判ってしまえば、もうそれを忘れることは無いだろうと思う。
それからは、個我の記憶(思考)を、全我の立場からも見る事が出来るようになる。
これがいわゆる、自己観察とか自己観照とか云われてるもの(瞑想?)と同じで、
まぁ普通は瞑想の方が先で、悟りはあとに成るんだと思うけどね。
とまぁ、こう言う事じゃないでしょうか!? (^m^)v
でもこれもまた科学等と同じく、元々空なるものを脳が我々に判りやすく見せてくれる概念であり、
本来一切空とか諸行無常とかで、絶対は無いと言う事になるわけで。
つまりエゴが納得すりゃ、それでいいのではないかと言う事 (^m^;)オシマイ