14/08/08 19:12:23.21 OIsK57+N
>>504
>> その<真のユー>を観ているものがあるのじゃよ。
ども、なかなかに勉強されてるね。
言わせて貰っちゃうけど、真のユー(無)こそ真我なのよ(笑)
けど、OSHOの言ってることもまた正しいんだよね。
これはどういう事かと言うと、ミーの場合は「いまここ」というスペース(無)を指してしているのに対して、
OSHOのは悟りを意味しているんだよな。
前にも言ったと思うけど、悟りの状態(いまここ)と悟り(悟った自覚)は違うんだよね。
「いまここ」とは、あくまで悟りの現れるスペース(場)であり、真我(無・全我)なんだ。
その真我がこの場で自らに気がつくという事が悟りなんだな。
それをOSHOは、“<真のユー>を見ているもの”、と言ってる分けなんよね。
そうでないと可笑しいだろ? <真のユー>を見ている者が居ると気がつけば、
それに気づいた者が他にまだ居ることになり、そしてその者が主となる。
そうなれば、その主に気づいた者がまた現れ、際限なく主が現れて来ることに成るのね。
考えて見れば判るはずで、そこには単に最初の思考の連鎖があるだけだろ !?
実は主などは居ないのに・・・・・そこには次々と思考が生み出す連想イメージ(主)が現れてるだけよ。
単にこの思考を見てればそれでいいんで、余計なこと考えるから主(思考イメージ)が現れて来るんだな。
だからね、真我を見ている者が他に居るんじゃなくて、
真我が自らに気づいてこそ、真我は己が基盤(主)だと言えるんだよね。