14/08/14 07:59:14.26 gULvYMhe0
1981年、巨人のアメリカキャンプに初参加した鹿取は、目を疑うような光景を目にした。
同じ敷地内で練習していたメジャーリーガーが、肩を氷で冷やしていたのだ。
現在でこそアイシングは少年年代も取り入れるような常識となっているが、当時の日本では「肩は絶対に冷やすな」とされていた。
その教えと反対のことをするアメリカ人を、鹿取は冷ややかな視線で見ていた。
だが80年代半ば、その常識は180度変わる。アメリカで故ジョーブ博士にヒジの手術を受けた村田兆治が帰国後、アイシングを始めたのだ。
「えっ? アイシングってやっていいんだ?」
それが鹿取の偽らざる心境だった。以降、日本で非常識とされていたアイシングは急速に広まっていく。
同時に、科学的トレーニングがアメリカから輸入された。
鹿取によると、そうしたトレーニングは「やってはいけない」ものとされ、ダンベルくらいしか使用していい器具はなかった。しかも、目的はケガの防止だった。
常識とは、極端に変化するもの
しかし村田の復活とともに、アメリカが誇る最先端のメソッドがケアやトレーニングに導入される。
鹿取は「アメリカで『何をやっているんだ』と思ったことが、後に『正解だった』と気づいた」。
常識とは、それほど極端に変化するものだ。同時に枠に捉われない発想をすることで、未来の常識を作り出すこともできる。
現役時代、巨人や西武の守護神として実働19年で91勝46敗131セーブの成績を残した鹿取は、速いストレートを投げられるわけではなかった。
そんなサイドスロー投手が球史に名を残すことができたのは、打者を抑える術を突き詰めたことにある。
日本では右投手が右打者にシュートを投げる場合、内角に投げて詰まらせるのが長らくセオリーとされてきた。
しかし、鹿取の飽くなき探究心は、思考をその枠にとどまらせなかった。
外角からストライクゾーンにシュートを曲げたら、打者はどんな反応をするだろうかと考えた。