18/04/05 08:06:29.20 gafxrvRDM
>>829
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)阪神教育事件
阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)[1][2][3]は、GHQの指令を受けた日本政府が「朝鮮人学校閉鎖令」を発令し、日本全国の朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、
1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人[4]と日本共産党による民族教育闘争[5]で、日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告された。
朝鮮人学校事件[6]、大阪での事件は大阪朝鮮人騒擾事件[7]、また神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件[8]とも呼ばれる(その他の呼称については本項で記す)。
大阪で当時16歳の金太一が警官隊の発砲で死去。また当時の朝鮮総連兵庫県本部委員長だった朴柱範が有罪判決を受け、神戸刑務所に服役。1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが、4時間後に死亡した[5]。
この事件の呼称は以下のように様々なものがある。
朝鮮人学校事件[6]、在日朝鮮人学校事件[9]、 四・二四阪神教育事件[10][11]とも呼ばれる。
大阪事件
大阪府での騒乱事件は大阪朝鮮人騒擾事件[7]、 朝鮮人府庁乱入事件[12]、または大阪事件[13]とも呼ばれる。
1956年の『大阪市警察誌』では、「朝鮮人学校の閉鎖をめぐる騒じょう事件」[14]と表記された。
神戸朝鮮人学校事件
神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件[8][15][7][16][17][18]、または神戸事件[19][20][21][22]とも呼ばれる。
◆事件の発端
当時の民族教育
1947年(昭和22年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。
1948年1月24日、文部省学校局長は各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し、朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した(朝鮮学校閉鎖令)。
同年1月27日、朝連は第13回中央委員会を開催し、朝鮮学校閉鎖令に対し反対を表明した。さらに、「三・一独立運動闘争記念日」に合わせて、「民族教育を守る闘争」を全国で展開するように訴えた。
大阪府と兵庫県ではこの通達に基づき、朝鮮学校の閉鎖を命じた。阪神地区では、朝連の宋性澈が闘争の指導に当たった。在日朝鮮人で当時16歳であった金太一(キム・テイル)が闘争中に警官に射殺されている。
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他国民が暴力、脅迫で日本を従わせようとするなどはあってはならない事です
再び暴動などは、日本にとっても他国民にとっても幸せではありません
愛する祖国に帰りましょう。韓国へ、北朝鮮へ帰って幸せに暮らしましょう。