12/02/20 15:51:14.31 6rK1s7un
茂木健一郎氏の、『脳とクオリア』・第9章6節での自由意志否定の論拠は、
アメリカ軽薄哲学界の著名人であるジョン ・ サール氏の自由意志否定論拠の引用で始まる。
茂木健一郎 『脳とクオリア』・第9章6節 アンサンブル限定のついた自由意志
→ URLリンク(anond.hatelabo.jp)
たとえ量子力学が自由意志の起源になり得たとしても、その自由意志は、本当の意味では「自由」ではない。
何故ならば、量子力学は個々の選択機会の結果は予想できないが、集合のレベルでは完全に決定論的な法則だ。
. *** 自由意志を量子的不確実性と仮定しても、説明不足では意味が無い ***
それでは一人の人間の意志決定に、その量子力学的不確実性が “ どのように作用する “ のか。
サール氏と茂木氏の自由意志否定論拠の説明には、この最も重要な核心部分が抜け落ちている。
これは量子力学の自然の内奥に存在する、決定論とは対極にあるような挙動運動が、
人間の自由意志を仮定するのに都合が良いからと、実に安易に説明されたのではないか。
茂木健一郎氏の自由意志否定の説明にも、 ↓
一人一人が何歳で結婚するかという問題を考えて見よう。 私たち一人一人は何歳で結婚するかを、自由意志に
基づいて決定していると思っている。 確かに、ある人が何歳で結婚するかは完全に予想することは不可能である。
だが、社会での人々の集合 ( 集団動向 ) をとってくると、人々が確率的に何歳で結婚するかについては、
厳密な社会科学的な法則が成立するように思われる。 つまり、個々人の選択機会は
自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集団傾向では、その振る舞いは決定論的で自由はないのである。
↑ それはそうだろう。 人間個々人は自然的なものとして、老化や結婚適齢期を “ 前もって知っている “、
さらに “ 人間個々人の自由意志 “ を語るには、そのうえでの自由意志を語らねばならないのに、
人間集団の統計分布のある年齢層にピークが有るからその集団動向は決定論的というが、しかしそれを理由に
人間個々人の自由意志は否定できるだろうか。 それは “ 自由意志を含めた “ 自然の動向ではないか。
224:マクロ系の動態は果たして “ 決定性だけで “ 推移するか
12/02/20 15:57:09.09 6rK1s7un
. *** マクロ系の動態は決定論的というが、果たして “ 決定性だけで “ 推移するのか ***
人間個々人の自由意志成立の起源あるいはその動因とは、無秩序奔放な偶発性がその原因ではなく、そして自然外界
からの被影響だけでもない。 そこにはマクロ系の物質作用では不可能な、外界他物と人間の思考内界とが分かち難い
ような汎連続的実体性が、生物一般の活動原則として
生物内界に出現するために、生物一般の特徴である自律性が “ 生物の内側 “ から発生するのだと考えられる。
人間の生命活動は、食物摂取し胃で分解し腸で吸収し肝臓で代謝してエネルギー変換するという、その活動源の
ほとんどは外部供給である。 内部供給としては人間の組成構造の内奥からの物理的基本作用もあるだろう。
この内奥からの物理的基本作用なら人工知能も同じである。
さらに人工知能の活動エネルギーのほとんどは外部供給という点も人間と同じである。
その人工知能に人間よりも優れた、手や足や感覚器官に相当する装置を加えてもなぜ人工知能には、
生物一般に見られる原始的な自律性やそれ以前の兆候すら出現しないのか。
その答えは実に簡単だ。 その理由は “ 内的自発意志を個体内界から “ 発生し得ないからだ。
人工知能もそれを操る人間とセットにしたら、人工知能が自由意志をもったように見える。 しかし人工知能単体
では自発活動ができない。 先ほど、人間など生物一般の生命活動エネルギーのほとんど全部は外部供給と記した。
しかし人間や生物一般あるいは人工知能に、外部供給からの活動エネルギーがどのように生じたとしても、
その活動力を利用し制御する能力がその “ 個体の内界から “
出現しなければ、個有な自律性は発現しない。 それは人工知能の思考部位が自己発達しない原因でもある。
225:唯物科学はこれらの疑問に答えられない、1
12/02/20 16:02:27.36 6rK1s7un
これから提示する物理学あるいは脳科学での疑問点について、唯物科学はどのように答えるだろうか。
外国文献ばかり引用している丸暗記猿真似科学者は、解答の糸口さえ掴めないことだろう。
*** 私という主体感覚の、連続的同一性についての疑問 ***
物質的脳が行為立案を行う場合、例として “ 水を飲むためにコップを取る “ という行為を物質脳が行なう場合、
“ 脳の物質的属性として意識が成立する “ のであれば、脳内では立案から実行に至るまで物質的な変化によるから
、その変化によって生じる主体意識も “ そのつどの主体 “ が成立していることになる。
物質的属性とした場合の主体意識の “ 連続性と同一性 “ は、変化しない記憶と独立した身体性によって成立すると
主張するなら、固定維持された記憶がそれを担うのであれば、回想される記憶は類似した内容であっても
そこに 時間・空間の “ 差異 “ を認め得るのだから、その時点で成立した主体も当然 “ 差異 “ が生じる筈だ。
意識は脳の物質的属性であるなら、成長による身体変化でも、属性としての主体の同一性が維持されるのは、“ 記憶 “
が変化しないからだ、と主張するなら、物質的な脳の記憶領域及び記憶担体は、全ての “ 決定論的被影響 “ から、
不完全でも独立している必要があるのではないか。
例えば有名観光地の同じ風景を年月を変えて記憶する場合など、それを想起する時に時間差異が認識されるのなら、
その時点でその “ 風景全般 “ を記憶した主体と、現在の主体とには “ 差異 “ が生じている筈だ。