14/01/28 11:07:57.24 o/WPltp9
>>924
>仏教というのは、自分の生き方を見出すための羅針盤なんじゃないのかね?
大乗である禅宗は、生きるための羅針盤になりうるが、小乗の釈迦の支離滅裂
な思考は、羅針盤などにはなりえない。煩悩とは、「状況に応じて肉体を維持
するために発動される」不可欠な心的作用。煩悩をなくしたら、死ぬしかない
だろ。
釈迦は、即今即所(今ここの生命)などには、全く思い至れていない。なにしろ
「無我(無生命)」なのだからw。
生きるためにあらゆる分別(煩悩)を働かせたからこそ、人類も、その他の
全ての生物も、数億年間以上、営々として生存を続けている。釈迦は、生物の
歴史に、全く無知蒙昧であった。
イエスは、「空の鳥や野の花は、労せずして生きている」などと言ったが、
これも完全な誤り。彼等も、一刻の休みも無く「生きる努力」を多続けている
ことに、全く思い至っていない。
座禅とは、只管打座という「肉体の行為」による、「生存努力の擬制」である
と解する。選択不能な生存努力こそ、擬制に優る本物の修行なのである。
修行しろ、修行しろのオウムは、座禅で一体何を悟ったのかねw。
すべてのカルトの元凶である釈迦とイエスを批判できなければ、カルトバスター
失格ですよw。
「信教の無制限自由」は、戦勝国がキリスト教の宣教のために押し付けたもの
であることを、忘れてはならない。カルトは、この「信教の自由」のみを、常に
唯一の武器としているのだから。信教の自由など信奉している限り、カルト
の撲滅は、絶対に不可能。