14/01/28 03:15:40.38 D32SZwHL
>>893
>>命こそが神だと日本人は直感している
>これを書いてしまったなら、せっかくの良き見解も我見となってしまいます。
>命とは「私」という執着、つまり我執が生み出している煩悩に過ぎません。
釈迦の「初歩的論理矛盾」「滑稽な勘違い」であることは、前レスで述べた
通り。釈迦が、「生命の根源性」に思い至れなかっただけ。
釈迦が「無我」を説けたのは、己の生命(我)の機能。煩悩は、状況に応じて
生命(肉体)を維持するための不可欠な機能であることにも、思い至っていない。
煩悩こそ、「生きていることの証(あかし)」。「煩悩を去れ」とは、「死ね」と
いうこと。
「無我」「無我」と叫ぶのは、我を過度に意識する余りの、「我」への執着に
過ぎない。それはむしろ、「我見」の塊。
「無我」は、「我(生命)」の指示のみに従い、「我を忘れて」それを精一杯
生きることによってのみ、初めて達成される。「無我」を「意識し、意図的に
求める」限り、「無我」は絶対に達成されない。
釈迦が、人間を「五蘊の仮和合」などとロボット化してしまえば、人間に対する
慈悲の生じる余地は無い。
釈迦のこれらの論理矛盾、誤り、勘違いを、抜本的に是正したのが、竜樹の類い稀な
知性であった。
「如来の本性であるもの、それがそのまま生類の本性(即ち、生命)である」
(中論22:16)。