14/01/26 11:38:32.06 8OdO2eSQ
>>638(オカルト宝珠)
>仏教がいうところの「一切」とは「無為」のことです。
>涅槃(有為)ではないもののすべてが一切であるので
?? 支離滅裂。
趣旨に対しては既に全面論破済み。
・そーゆー戯論でないのが<一切煩悩経(中部2)⇒如理作意>(>>542)←熟読&如理作意で一切外のガラクタを放逐しませう。
縁起の知覚間接現実=時空事実(因果)関係の撥無は、仏法にあらず。
・『以上のように、生と住と滅とが成立しないがゆえに有為は成立しない。
また有為が成立しないがゆえに、どうして無為が成立するだろうか(成立しない)』(龍樹・中論7-33)
★『およそ戯論(形而上的議論)を超越していて不壊なるブッダ(如来)を、いろいろと戯論する人々は、
すべてその戯論に害されて、如来(そのもの)を見ることがない。』(同上22-15)
・あくまで悟り→涅槃とやらは、世俗において本懐(実存苦の根本的超克)から逆算推測するしかない。
<こころ(無我)とこころの作用(涅槃:慶安:達磨安心)>(相応部35-23)だ。 (>>511)
悟りそのものはありえない。悟りも「想い」(Sn.1072)に他ならないからだ。
⇒非煩悩非菩提の如く(勝義)、即煩悩即菩提(還滅)
これが二相の相即的実践(閻魔)=修証一等(道元)の趣旨。
お経も単なる筏でしかないんだから、如理作意のうえ、使えるもんは使い倒してなんぼのもんですよw
当然、一切外ガラクタは、途中【一切門】で即捨てる。