14/01/26 01:28:16.76 gjunKwSV
>>623-624
正直いって、自分の好きな事柄に専念できるという意味では、どれだけ仏教僧侶のほうが羨ましいと思ったこともあります。
当時、まだ若い頃の私だったならば、とても普通の社会生活と活動には興味が湧かなかったので、出家について思いを巡らし
たりもしましたから、確かにもし、あのままであれば近くそうなっていただろうことは時間の問題でした(ただし、普通の大
乗僧侶の道は選択しなかったかもしれない)。けれど、その私を変えたのが神智学との出会いだった。
神智学の歩みには、基本的に出家(出家と在家という概念がない)の推奨がない。この前も、仏教の歩みは非生産的で非社
会的なもの。すべての人々が仏教を本格的に歩めば人類は滅亡してしまうだろう、というような意味合いの意見があったもの
と思う。やはり、仏教は出家中心の出家主義であることは間違いがない。
であるから、一代のいうように政治には関わることをせず、また興味もなくなる。つまり、必然的に社会的な事柄のすべて
からの関心がなくなっていく・・・。
けれど、神智学は全く異なる。神智学は人間とは何か?その生存と人生の意味を教えるもの。つまり、神智学の教えをこの
社会生活の普通の中で如何に実践して、それを社会の中に反映していくかということになる。
この社会を唯物主義から霊的な真理に沿ったものへと変えていく必要があり、ロゴスの御意志と御計画に沿ったものへと変
革すべく、戦争の放棄、国家と人種民族間の紛争の終焉と平和、飢餓貧困を根絶した分かち合いの世界を創造すべく、その中
へと、自分が如何に参加参与していくかが課題となります。要するに、自己の霊的向上と社会変革(人類の進化への貢献)を
同時にリンクした生活が求められます。私などは全然ですけれど・・・。
まっ、この辺りについてはある意味では、大乗の社会救済的な菩薩道の教えや在家生活での教えは重なるところがあります。