14/01/24 14:18:39.23 REqUT+Xx
昨晩のクロ現、離婚夫婦の父親の子供への会いたさ会わせ方。
或る父親がこういう台詞を言っていた。
(話合い(謝罪含)の爲に訪ねたのだが)、妻を責めてしまった、と。
お前(の○○)が悪いんじゃないのか、と。なぜ、俺が子供と会うことを制限されなきゃならんのか、と。
ナレも本人も助言も、相手を責めてはいけない・その方向を取ってはいけない、というものだが、
それを踏まえて父は言う。
「妻を責めてしまった。(自分にとってそう思われる)相手の悪い所をあげつらって責めてしまった」と。
そして振り返って言う。(そのときの“自分”は)「“自分”が《自分》でなかったように相手を責めてしまった」と。
けど、これこそが、『世俗の常識、勝義の顛倒』なのよね・・。
自分でなかったどころか、寧ろ丸っとまんま、《自分》そのものだったわけで・・。
自分そのものだったからこそ、相手の瑕疵を攻撃し、自分そのものの正当化が生じたわけで・・。
個人主義、個人の尊厳、個人の自由、権利を高らかと掲げるのは良いが、
両刃の剣である留意はあっていいし、
仏教は、これと真逆のベクトルなわけで・・。
隠居のような薄っぺらい自己肯定や世俗肯定世俗常識遵守が反仏教的であるのは明らかなんだがな・・。
(勿論、宝珠や在家のような有我思想が仏教的でないことも・・)