14/01/22 06:52:20.62 LjF49ycs
> 「『一切皆空』ということが第一義悉檀であれば」、それは説かれることはないですよね
> 説かれてしまえば、(そして、それが消えずに残れば)第一義悉檀とは言えないです
> 「空性とは、一切の見解からの出離である」と説かれます
> 「一切皆空」は、口に出したらパラドックスに陥ります
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当時のインド人にとって全く新しい仏教を理解せしめるためには世間的な真理を一応認めて
さらにその理解のうえで
仏教自身が自信をもって説く仏教の真理を人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
龍樹が『中論』で
仏は二諦によって、衆生のために法を説く
一には世俗諦、二つには第一義諦なり
といったのは、この趣旨をうけたものである
この二諦を教理や教学の体系として説いたのが部派仏教教学の中では大衆部の末派の説仮部の真仮分別であり
真を真諦、仮(け)を俗諦というのである
このような傾向の中で
大衆部と逆に保守的な立場の上座部でも苦集滅道の四諦の組織付けという形の二諦説が説かれた
それが『大毘娑沙論』に説かれる真俗二諦であり
苦集二諦を俗諦、滅道二諦を真諦、苦集滅は俗諦、道諦は真諦などと
四種に四諦を配当して二諦説をなすのである。さらに、このような方向で
因縁和合の現象法を等諦、五薀の法を第一義諦
とする法救(ほっく)の『雑阿毘曇心論』があり、世親は『倶舎論』で次のように二諦説を説明している