14/01/16 11:24:28.97 tMqzqbsO
(真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺 仏教の世界観)
『最初は信じられなくとも良く、それが現代ではむしろ当然だと思いますが、最後まで信じられないというのでしたら、
その人の仏教理解は、大変中途半端な理解に留まったものに過ぎなくなるでしょう。
何故か。それは冒頭少し触れたように、仏教の修道法の根幹である、八正道の第一の正見ならびに
十善業道(十善戒)の第十の不邪見に関わることであるからです。
ここは現代の個人がどう思おうが、どのように否定を試みようが変わるもの、動くものではありません。
仏教というものはその初めから、仏陀の説法を直に聞き、また自ら励んで悟りの境地に至った仏陀の直弟子たちより、
たといその流れの途上で様々に広がりを見せたとはいえ、連綿として業報・輪廻を自明の前提として今にまで伝えられて来たものです。
現代的な意味で「輪廻を否定した者」など、仏教の伝統には多くの学派が起こってそれぞれ独自の見解を立てているとはいえ、
そのいずれの派においても一人としてありはしません。
そもそも、輪廻など無い、死んでしまえば全て終わりであるならば、
人は悟りや解脱などというモノを求めて修行などする必要性など無いでしょう。
もし人が、「嗚呼、人生は苦しい」・「生きることは苦しい」などと思い、
そのような思いが決定的となって打つ手がなくなったならば、たちまち自殺してしまえば済む話です。
しかし、仏教はそのようには考えない。』