14/01/16 09:53:06.38 q/xriUBw
>>482
エサ投入!
>輪廻を否定することは断見で邪見。
>肯定は邪見には当たらず、常見ではないという事にはならないだろうか?
>常見の定義を考え直した方がいい。
ある経文の定義ではなりません。
『・(現世で)行為をする者と、(来世で)カルマを受ける者とは、同じであるとするのが、
カッサパよ・・・これは常住であるという見解に到達する。 *常見
・(現世で)行為をする者と、(来世で)カルマを受ける者とは、違うものであるとするのが、
カッサパよ・・・断滅するという見解に到達する。 *断見
カッサパよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を説くのである。』
(相応部12-17 :石飛道子著「ブッダと龍樹の論理学」の訳を使用)
この相応部12-17の如来さんも、おかしな定義をする奴だなw
(現世で)行為をする者と、(来世で)カルマを受ける者という<業報輪廻転生の“主体者”>を明確に設定した上で、
▼そもそも業報輪廻転生が有るという見解を前提とする論の内部論争<常見⇔断滅>を示している▼。
しかし、そもそも『業報輪廻転生が有るという見解』と『業報輪廻転生が無いという見解』の『これら二つの極端に近づくことなく』、
☆業報輪廻転生論は検証不能の一切外の説話物語的妄想として無記(無視)☆というのが、相応部35-23&70の趣旨からの当然の結論だろう。
この経文にいう『中道』とは二つの極端を想定する二項相対対象化思考(世俗諦)であって、
矛盾なき様相(勝義)の示唆(空=中道=時空際断の如く)ではない。
まさに<混ぜるな!危険>を犯しているのである。
如来さん、ヘンですよーw