13/11/12 15:13:14.41 5nTcrcZ4
12巻本に収録されていることから、道元禅師が「三時業」に見るような、因果論に行き着いたのは比較的晩年ではないかという見解がある。
道元禅師がそれまでの著作等で全く三時業について触れなかったわけではない。
懐弉禅師との問答を収録したとされる『正法眼蔵随聞記』では、次のような言葉がある。
道元「また冥機冥応、顕機顕応等の四句有る事を思フベシ。また現生後報等の三時業の事も有り。此等の道理能々学スベキなり。」 巻2-15
822:アホの一在家
13/11/12 15:13:48.26 5nTcrcZ4
>>821 続き
また、中国で如浄禅師と問答した道元禅師が、そのノートとしてまとめている『宝慶記』では、
「三時業」巻で、道元禅師も批判した長沙景岑の業報観について、如浄禅師もまた、同様に批判していたことが知られる。
道元「仏法、若し長沙の道の如くんば、何ぞ諸仏の出世・祖師の西来有らんや。堂頭和尚老師大禅師示して曰く『長沙の道、終に不是なり。長沙、未だ三時業を明らめざるなり』と。」 第16問答
これらから分かることは、やはり何か必要に応じて、因果歴然としての諸仏出世・祖師西来を説かれたのだろう。
参考:URLリンク(wiki.livedoor.jp)
道元禅師が「三時業」を説いたのは最晩年と力説された住人がおられましたが、もう一度調べてみるとそうでもないようです。
正法眼蔵随聞記:嘉禎年中(1235年~1238年)に道元禅師(30代)が仏道修行に於ける用心を説示された内容を懐弉禅師が記した語録とされる。
宝慶記:道元が如浄禅師に就いて学んでいた頃の記録であり、道元は20代。
輪廻を否定する禅者が曹洞宗だとすると、20代、30代、晩年の祖師の教えを知らない人達になりますから、臨済宗の方々かも知れませんね。 (^0^)/
823:神も仏も名無しさん
13/11/12 15:17:44.37 jJwKxzsq
>体験(ゴータマの実体験)によって語られた
瞑想体験は死の体験ではない。
体験したならば語れない、なぜなら死者は説けないから。
824:神も仏も名無しさん
13/11/12 15:27:10.25 5nTcrcZ4
>>823
>瞑想体験は死の体験ではない。
>体験したならば語れない、なぜなら死者は説けないから。
何百、何千もの臨死体験者の語りは記録されております。
心停止していた期間の病室訪問者の名前と会話内容まで語っております。
更に脳死からの生還者も時々おります。
この辺りのデータは神智学が詳しいかも。。
825:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
13/11/12 15:29:06.04 l0wO/Uf2
>>823
ブッダの瞑想を凡人のものと一緒にしないように。
信じられないなら、
信奉しなければそれでいいこと。
826:神も仏も名無しさん
13/11/12 15:29:16.03 jJwKxzsq
臨死体験は死の体験ではない。
死の入り口の体験に過ぎない。
死を体験してそれを語る事は出来ない。
何故なら死者は語れないから。
業報輪廻転生を説くものは全て偽者である。
827:神も仏も名無しさん
13/11/12 17:35:37.87 5nTcrcZ4
>>826
>業報輪廻転生を説くものは全て偽者である。
唯物論を説くものは全て本者である。
828:神も仏も名無しさん
13/11/12 18:36:46.82 lZoQb3ML
>>669
>この感情を捨断する練習をしましょう。
貴方は、仏教を信じておられるし、私は宗教全般に疑義を
持っていますから、スタンスが異なります。
欲愛(よくあい)・・・肉体の快楽を求める欲望
有愛(うあい)・・・生きることへの執着
無有愛(むうあい)・・・平穏に生きたいという欲望
↑
これらを何故捨断する必要があるのか教えて下さい。
829:神も仏も名無しさん
13/11/12 18:41:31.81 GtSneh1o
トリッキーな問い方だなw >>828
830:神も仏も名無しさん
13/11/12 19:01:56.33 lZoQb3ML
>>829
いえ、ただ、宗教は人の能力以上、限度以上の努力を求め、
高すぎる境地を唱えるので大変だなと思うことがあるので・・
理想が高すぎるというかぶっ飛んでいるというか・・
それと宗教の勉強はしていないので素朴な質問です。
いつも恥を晒してますょ。。。(笑
831:神も仏も名無しさん
13/11/12 19:03:02.33 jJwKxzsq
>>828
渇愛とは喉が渇いたときに水を欲するようなものと言いましたが、喉が渇けば
水を飲むのは当然です。水を飲むな~と言っているのではなくむさぼるなという
事でしょう。欲望や執着は精神の束縛で苦の原因です。
欲望や執着を無くす事が苦からの解放という事です。
それと仏教は禁欲を強いるものではないと思います。出家修行者が欲望丸出しでは
修行にならないでしょうが、仏陀も在家の人間にセックスする事は欲望に溺れることで止めよ~
なんて言わなかったでしょう。つまりむさぼるように溺れることはいけないという程度に考えれば
良いのだと思いますよ。
832:神も仏も名無しさん
13/11/12 19:09:31.87 GtSneh1o
>>830
そうかw
いや、上の渇愛三種の定義の仕方が、定番語義とズレてたんでね。
悪かった。 (活躍期待してるから)続けてくれw
>>831
>出家修行者が欲望丸出しでは修行にならないでしょうが
ほうw
瞑想全否定の貴方が、出家者の修行(プラクティス・エクササイズ)に言及し、
尚且つ好評価するとは思いませんでしたwww
いや、意外過ぎてビックリですわ。 (´・ω・`)
833:神も仏も名無しさん
13/11/12 20:16:56.59 YeMgdu5p
>>831
欲望は、人間が生存するために不可欠。必要な欲望が満たされれば、欲望はなくなる。
釈迦から教えて貰ういわれはない。子に対する渇愛がなければ、子は育たない。
釈迦の教えは、すべて人間と人生の洞察に欠けた誤り。贅沢三昧の生い立ちの結果と
しての「世間知らず」「常識外れ」「叡智の欠如」。つまり「人生の悟りが足りない」
ということ。「生存努力」という「選択不能な大修行」を怠ったからである。
834:神も仏も名無しさん
13/11/12 20:31:42.57 LKEv8jwG
欲望は人類進化科学の発展の原動力
なんとすばらしいことか
835:エロにゃん♪
13/11/12 22:38:43.10 dWlbccI4
アソコ イジイジ♪(///∇///)
836:パーピマン ◆hVgvvzQ7pw
13/11/12 22:58:46.16 GBBqlZ6a
>道元禅師が「三時業」を説いたのは最晩年と力説された住人がおられましたが、もう一度調べてみるとそうでもないようです。
wwwwwwwwww
どこが「そうでもない」なんだ??wwwww アホかwwwwwwww
正法眼蔵随聞記では、「僧侶への布施について説く過程において言及しただけ」
宝慶記では、道元の問いに対しての「師匠の回答を書き留めておいただけww」
一体、どこに20代、30代に道元が、自己の教説の重要部分として「輪廻業報」
を説いた資料があるわけ????wwwwwww
837:エロにゃん♪
13/11/12 23:13:53.08 dWlbccI4
アソコ ヌルヌル♪(///∇///)
838:?
13/11/12 23:47:53.64 9R0iJUY8
>>831 ID:jJwKxzsq さんへ
> 渇愛とは喉が渇いたときに水を欲するようなものと言いましたが
> 喉が渇けば水を飲むのは当然です
> 水を飲むな~と言っているのではなくむさぼるなという事でしょう
> 欲望や執着は精神の束縛で苦の原因です
喉が渇いて水を飲みたい、と欲する 「 心の働きを滅させる 」
想受を滅させる
と言う意味かも
URLリンク(www.ne.jp)
想受滅においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅する
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち:受・想・行:が滅している
839:パーピマン ◆hVgvvzQ7pw
13/11/13 00:30:34.07 EdUf7G0b
> 以前、「人は親を選んで生まれてくる」という馬鹿げた説教を聞いたことがあるが、
>もしそうなら、大概の人間はもっとマシな親を選んで生まれてくるだろうし(ちなみに、
>「選ぶ」とは選んだ自覚がある場合にしか意味のない言葉である)、だいたい同じ説教を
>虐待されて育った子に面と向かって言えるのか? それは「前世の因果だ」、「自業自得だ」
>とでも言うつもりか?(ちなみに、「因果」の言説が有効なのは、当の「因果」関係を
>承認する者においてのみである
上記は、南直哉という現役の曹洞宗の坊さんの最新のブログの一節・・・・
誠に然りですなww
840:神も仏も名無しさん
13/11/13 00:44:51.67 wyTrYgnq
>>839
外野の批評的に言うなら、道徳的(人道的)に?マズイだろうなw
が、だがしかし、だw
例えば、障碍を持って生まれた子の親が、もし、
「この子は、私たち夫婦に優しくあることとは何か、命とは何か、
ということを教えるために私たちのもとに来たのだ・・」
と想ったとき、(二人の関係が、以前にはギクシャクしていたなら尚のこと・・)
それを、馬鹿馬鹿しい、或いは差別的思考だとツッコミを入れ得るだろうか?
或は又、
不遇な家庭環境に育った子が、両親の嫌な面、欠点を多く見ながらも、
或は、両親が避け得ぬ苦労を背負っており、日々悲嘆苦悩していたとして、
それでも、自分の言動の一つ一つが、二人を笑顔にしたりひと時の穏やかさを生じさせていると感じたとき、
その子が、「私は、お父さんとお母さんに仲良くなって貰う為に、
或は、お父さんお母さんを支える為に、(或は兄弟姉妹を支えるために)、
ここに生を受けたのだ」と想ったとき、
その想いを否定する権利が、いったい誰にあるだろうか?
そこに、過去世でできなかったこと、過去世でミスったことの挽回だと受け止めたとき、
その想いを否定する権利が、いったい誰にあるだろうか?
という問題でもあるんだよね。
841:神も仏も名無しさん
13/11/13 00:47:24.24 wyTrYgnq
裏表・二枚舌・どっちつかず・優柔不断の卑怯な態度を嫌う紐無記君は、
ナンセンス!と、こうした家族の考え方を一蹴するかもしれんけどw