14/02/15 01:30:04.46 +3LgY/b7
>>941
それは通らない。日本語では世間と世界は違う。
中村氏は原文を正確に日本語にしたが、原文が変だったということだ。
たぶん改ざんされていると思う。
945:神も仏も名無しさん
14/02/15 01:31:18.08 MjZQ22SG
色、受、想、行、識の五蘊の働きは、色、受、想、行、識であって
そこに私というものの実体があるわけではない。
そこにあるのは、あくまで色、受、想、行、識であり
観ずる作用というのは、想であり、行であり、識。
ということらしい。
というか、まず「有身見」、「十結」あたりのキーワードでググってみると
参考になる情報拾えると思うよ。
946:神も仏も名無しさん
14/02/15 01:59:59.81 MjZQ22SG
いつになっても、仏教の中身をバラモン教に書き換えようとする人たちが後を絶たない。
947:神も仏も名無しさん
14/02/15 02:04:19.16 MjZQ22SG
瞑想体験がある、神秘体験をした、おれの話を聞け。
釈迦はヴェーダの達人だ。
アートマンはある。
全部このパターンだろ。
何回目だ。
948:神も仏も名無しさん
14/02/15 02:10:33.85 c9VmrV8Q
>>942
>わたしは基本、引用文には典拠を示すようにしている。
>キミもそうしてくれたらいいのに。
Attānudiṭṭhiṃ…がSn.1119で、Mulaṃ…がSn.916だよ
>主体が空なら、主体は何も観じることはできないw
主体はなくとも受・想・行・識によって、観察される
>自我に関する「見解」を除去して、とある「見解」と何か。
「私がいる」という見解だろう
949:神も仏も名無しさん
14/02/15 02:27:59.09 c9VmrV8Q
>>944
>日本語では世間と世界は違う。
伝統的な漢訳語では区別がない
lokaだけで世間とも世界とも訳し分けられる
たとえばsahālokaは娑婆世界と訳されるが、『金剛頂大教王經私記』では娑婆世間とあることから、
日本人にとっても本来、世間と世界に違いはなかったことが分かる
950:神も仏も名無しさん
14/02/15 02:44:29.96 c9VmrV8Q
>>944
続き
有名なsattvalokaは『優婆塞戒経』では衆生世界と訳され、『大方等大集経』では衆生世間と訳されてる
『金剛頂大教王經私記』も参照すると、漢・日に渡って世間と世界に区別がなかったと知られる
ちなみに「原文か改ざんされてる」のに、中村元氏はどうやって正確な日本語を導き出したんだろうね?
サンスクリット(パーリも?)の知識がない君になぜそんな判断が下せるのか疑問だ
951:神も仏も名無しさん
14/02/15 10:33:21.95 DdYwD15P
>>949-950
パーリーもサンスクリットもまったく知らない。
世間の原語ローカは世界のことでもある、ということも知らなかった。
しかし日本語では、世間と世界を区別している。辞書的には
世間・・・世の中。人々の住む社会。また、そこでの活動の範囲。
世界・・・①地球上で人間が占めるすべての空間。②世の中。社会。
③同じ子供の集まり。④ある限られた範囲。
世界は空間的な概念であり、世間は人間同士の社会関係を意味している。
②は世間と似ているようだが、空間にウエイトがあり微妙に違う。
952:神も仏も名無しさん
14/02/15 11:15:52.96 DdYwD15P
仰るように、原語ローカは世界と世間の両方を意味するのでしょう。
しかし日本語では微妙に使い分ける。その違いを無視、
その場の都合で交互に翻訳されたら、読者は誤解し混乱してしまう。
「世界を空なりと観ぜよ」と「世間を空なりと観ぜよ」では意味が違う。
世界にすれば、人間の身体も、自然的な宇宙も空になる。
世間にすれば、人間の社会関係だけが空になる。聖徳太子の世間虚仮。
釈迦がどっちで語ったかは、Snの他の個所と比較すれば明らか。
たとえば、Sn.1033に「世間は無明によって覆われている」とあるが、
この無明がなければ世間は輝く。釈迦は無明の空を説いている。
953:神も仏も名無しさん
14/02/15 12:50:10.53 DdYwD15P
>>940
>>釈迦は暗黙だが、実体(霊魂、我、アートマン)を想定しているよね。
>(自我に関する見解を除去して)とあるから自我を想定してる証拠がない
意識の流れは脳ミソに記憶される。
意識とこの記憶が関係することで自我が生じる。自我それ自身は空だね。
釈迦が想定しているのは、実体としての霊魂、我、アートマン。
自我を想定しているわけじゃない。
954:神も仏も名無しさん
14/02/15 13:04:34.66 DdYwD15P
>>940
>>空なりと観じるのはいったい誰?
>(世尊が答えた)<考える私が存在する>という、<戯論の根本>を
>すべて破壊せよ。これによって「行為する主体」という邪見は否定される
同じ個所の中村訳では、<われは考えて、有る>
もっともらしいが、その「われ」の正体が明らかになっていない。
だからこそ<迷わせる不当な思惟>になる。
では、考えることができても、考える行為主体がいないことになるのか。
キミはそう主張するが、この主張はいっそう不当な思惟だろう。
釈迦の真意は「われ」の正体を体験しろということだ。
955:神も仏も名無しさん
14/02/15 13:21:37.27 DdYwD15P
>>948
>>主体が空なら、主体は何も観じることはできないw
>主体はなくとも受・想・行・識によって、観察される
わたしという、統一的に把握し、判断する主体がないと観察できない。
意味のない、バラバラの受・想・行・識では観察が成立しない。
>>自我に関する「見解」を除去して、とある「見解」と何か。
>「私がいる」という見解だろう
見解の中身ではなく、見解それ自体の意味を聞いたつもりだった。
見解とは、あるものごとについての見かたや考えかたをいう。
だから、「私がいる」「私がいない」というのはどちらも見解に過ぎない。
956:神も仏も名無しさん
14/02/15 13:51:37.75 c9VmrV8Q
>>952
>世間にすれば、人間の社会関係だけが空になる。聖徳太子の世間虚仮。
聖徳太子はまさに現代日本語における「世界」の意味で「世間」と言ってるんだよ そのあとに唯仏是真とあるだろ
「この世界は虚しい仮そめの物であり、仏(の教え)だけが真実である」ってこと
>Sn.1033に「世間は無明によって覆われている」とある
無明に覆われているのは社会だけじゃなくて、生命全般だから、世間を「社会」の意味にとるのは間違い
>その「われ」の正体が明らかになっていない。
だから「われがいる」というのが<迷わせる不当な思惟>だって
>>954
>この主張はいっそう不当な思惟だろう。
我々の常識では不当と思えることを説くのが仏教
つまり君は悟ったと言いながら、凡夫とまったく同じ思惟にもとづいてるって事さ
957:神も仏も名無しさん
14/02/15 14:04:56.91 c9VmrV8Q
>>955
>わたしという、統一的に把握し、判断する主体がないと観察できない。
それが妄想だね
脳にすべてを統率する主体となる部分が存在するかい?
バラバラの神経細胞の組み合わせでしょ
>「私がいる」「私がいない」というのはどちらも見解に過ぎない。
「私がいる」「私がいない」というのはどちらも見解というのはその通り
958:神も仏も名無しさん
14/02/15 17:07:47.92 MjZQ22SG
仏教の特筆すべき特徴に三宝印がある。
無常、苦、無我だ。
仏教以外の多くの宗教は、真我などの永遠不滅、恒常不変、
絶対的な存在を想定し、それを崇め、あるいは最終到達地点とする。
仏教はそうは考えていない。
それも無常であり、苦であり、無我だと言っている。
ここが仏教と他宗教との違い。
959:神も仏も名無しさん
14/02/15 17:11:35.08 MjZQ22SG
三宝印 ×
三法印 ○
960:神も仏も名無しさん
14/02/15 19:06:50.15 mfpY5XIF
哲学的なのもいいげど、技術的な方向でのプロレスも読みたいなぁ。
961:神も仏も名無しさん
14/02/15 19:29:17.36 rTc4WzNu
仏陀への敬意
仏法僧への帰依
これがまず土台にないと、瞑想で気持ちよい体験をして慢心に陥った時に
軌道修正する術がない。
962:神も仏も名無しさん
14/02/16 08:11:08.91 E2r7h70D
悪いニュースを見ると報いを受けてしまえと
思ってしまう。引き換えに慈悲の瞑想で自分のエゴを
帳消しにしようとしている。こんな悪知恵はどうやったら
消えるのだろう?
963:神も仏も名無しさん
14/02/16 09:07:48.19 X8V/Sfk2
>>960
Sn.1119をめぐる話では、釈迦はどんな空を説いたのか、
これに関連して、世間と世界の使い方に問題はないのかと指摘した。
Sn.1119「世界を空なりと観ぜよ」という表現では、
釈迦は世界(人間も宇宙)を空にするように読める余地がある。
ここは止観を左右する重要個所だ。そこで、
世間と世界の使い方を問題にした。日本語はこのふたつを区別する。
世間知らず→×世界知らず、世界平和→×世間地図
インドでは区別しないから、日本語でも区別しないでは通用しない。
964:神も仏も名無しさん
14/02/16 09:28:59.88 X8V/Sfk2
釈迦の説いた空とはいったい何か。Snの他の個所を参考にしよう。
Sn.1053「伝承によるのではなく、いま眼のあたり体得されるこの理法を、
わたしはそなたに説き明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて
行い、世間の執著を乗り超えよ。」・・・体得・行い・世間の執著
Sn.1078「世の中で、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、
伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を
撃破して、苦悩なく望むことなく行う人々、ーーかれらこそ聖者である、
とわたしは言う。」・・・Sn1082 にも同様趣旨あり