12/12/08 16:04:08.00 WBKjgQoL
URLリンク(www.youtube.com)
(動画は、1~8まであるので少々長いです。)
この人の言ってる仏教は話しとしては、面白いですけど正しいんですか?
肩書きは、天台宗の僧侶みたいです。、筋は通ってる気がしますが胡散臭さがすごいです。
57:神も仏も名無しさん
12/12/08 16:37:45.50 lA6LRfnJ
>>56
長いんで見てないけど、以前見たり読んだりした限り
全く信用できないハッタリ屋だよ
仏教を知りたいなら、そんなん見ないでね
58:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/08 17:56:25.32 t5P45YO9
>56
最初だけ見たが、随分いい加減な事を言っている。
仏教とは縁起を説く教えであり、阿含から一貫した共通認識。
大乗は空を説くが、縁起も説く。
釈迦はバラモンになろうとはしてない。
むしろ反バラモン教的立場。
当時は既にバラモン教衰退期であり、バラモンになろうとしても殺されない。
天台の僧云々は資格だけ金で買ったのでしょう。
スッタニパタも真面目に読んでない素人ですね。
59:神も仏も名無しさん
12/12/08 18:13:06.93 jngHHh1n
誰かと思ったら苫米地(劣)の方かよwww
話にならん。 知識を寄せ集めてモザイク上にしただけで、
「自身としての一貫性」すら怪しい。
ましてや「伝統解釈」「通仏教的解釈」には掠りもしてないでしょ。
かといって「新しい研究成果」への触れ方も、ムー読者のベクトルだし。
仏教以外(たとえば心理学的側面とか)では聡明なんだろうけど、
その聡明さが仇となって、仏教関係は「(整理のついてない)単なる知識の寄せ集め」でしかないと思うよ。 >>56
60:神も仏も名無しさん
12/12/08 18:19:18.65 jngHHh1n
>>55
ま、同一でしょ。
でも、 >マハーバーラタの時間軸と釈尊在世の時間軸を同一と捉えていた かどうかは
ハテナマークw
名称として(同種のものとして)採用されてるだけかもしれない。
つまり、相似した内容(≒質)を持つものを同じ記号で呼んでいる、と。
たとえば、「民兵」という言葉を考えてみたとき、
A時代のイ地域で起きた革命運動の際に見られた兵隊と、
B時代のロ地域で起きた対侵略戦争で見られた兵隊と、
同じではないし、同じものとして「民兵」という呼称(自称)が用いられるわけではない。
あくまでも、そこにあるのは、カテゴリ、記号としての「民兵」。
同じように、記号、呼び名、ラベル、通称等等としての「羅刹」ってことでしょ。
61:神も仏も名無しさん
12/12/08 18:31:19.93 WBKjgQoL
>>57>>58>>59
そうですね。面白いのでころっと言ってしまいそうですが、話半分に聞いておくことにします。
>>57
私が擁護するのもなんだかおかしいですが、一応
動画では、釈迦の説いた教えと実際の悟りの違い、上座部と大乗の縁起と空の概念の違いを言っていますので前半の批判は成り立たないと思います。
また、バラモンになろうとしたというのは、ダンマパダにあるような理想の修行者というか人物像の事を言っているのではないでしょうか。
それに反バラモン教的立場だからこそ、バラモンになろうとしたのではないですか。
バラモン教を信じる人であればあるほど、バラモンでない人がバラモンになろうなどと考えるはずが有りませんから。
あと最後に一つだけ。釈迦が生きている時代に弟子たちが毒殺されたなんて話は、実際残っているのでしょうか?
62:61
12/12/08 18:34:37.16 WBKjgQoL
無意味な連投すいません。
後半の反論(笑)は、57さんでなくて>>58さんへです。失礼しました。
63:神も仏も名無しさん
12/12/08 18:47:46.07 MsH05GJh
すみません、質問の仕方がおかしかったです。
ラーヴァナを羅刹と呼称したつもりだったのですが、羅刹と調べてみたら色々種類があり、
自分が質問したかったのは羅刹の中のラーヴァナについてです。
それとマハーバーラタじゃなくてラーマーヤナでした。
せっかく答えて下さったのにすみませんでした。
しっかり調べ直したのでもう一度質問させてもらいます。
楞伽経に登場するラーヴァナ王はラーマーヤナのラーヴァナ王と同一なのでしょうか。
もし同一だとしたら
ラーマーヤナでランカーを根城としているラーヴァナが出てきますが後にそいつは退治されてしまいます。
けれども釈尊は楞伽経でスリランカを占拠したラーヴァナと対話しています。
つまり楞伽経の執筆集団はラーマーヤナにおいてラーヴァナ王がランカーを占拠してからラーマに討たれる間に釈尊と会ったと考えていることになります。
それとも記号として、ランカーを占拠して他の神様に意地悪をして王室からシーター姫を盗む悪魔を総称としてラーヴァナと呼称して
ラーマーヤナ登場の本人のそっくりさんをわかりやすく説明するがためにラーヴァナと呼称したに過ぎないのでしょうか。
また、仏典において叙事詩にのみ登場するような登場人物との共演は他にもあるのでしょうか?
64:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/08 18:57:06.71 t5P45YO9
>61
毒殺云々は私は知りません。
また、20年ほど前に習った話では、
古代インドでは老後に出家者(ヨガ行者)となるのがステータスであり、釈迦は若くしてヨガ行者となった。
バラモン教の知識はクシャトリア期の教養として習得したとする説が有力。
と聞いています。
バラモン教衰退期にバラモン教以前からのヨガという行法があり、ブッダとはバラモン教ではなくヨガの理想像です。
具にはご自身でお調べ下さい。
65:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/08 19:03:23.65 t5P45YO9
>63
インドの神話には正統というものは存在せず、実に様々なヴァリエーションが継承されています。
時系列も生死もムチャクチャですが、それぞれの精神は共有されている、まぁそーゆーものだと割り切って下さい。
66:神も仏も名無しさん
12/12/08 19:30:06.08 jngHHh1n
>毒殺
チュンダの供養のことでしょ。
その可能性もゼロではない、って程度の話。
67:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/08 19:41:59.04 t5P45YO9
>66
あー。そりゃあアタマおかしいわ。(笑)
68:神も仏も名無しさん
12/12/08 19:53:34.17 jngHHh1n
>>67
けど、可能性として面白いやら?w
で、閻魔じゃないがw、教線の拡大スピードからすれば怨みを買って当然でしょw
実際、奸計が逸話として伝承されてるわけだし。
69:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(3+1:3)
12/12/08 20:08:06.78 UXcUsAXp BE:410613023-2BP(333)
690 :記憶喪失した男 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(1+0:3) :2012/12/08(土) 20:03:56.12 ID:nOarh/+30 ?2BP(333)
仏教で反体制の書となると、何があるかなあ?
70:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/08 20:12:54.62 t5P45YO9
>68
BLネタを隠れてやるのは何故か知ってるか?
>69
立川とかか?
71:神も仏も名無しさん
12/12/08 20:16:11.86 lA6LRfnJ
>>61
>動画では、釈迦の説いた教えと実際の悟りの違い、上座部と大乗の縁起と空の概念の違いを言っていますので前半の批判は成り立たないと思います。
学会の通説では違うとされてますが、同じですよ。
少なくとも龍樹菩薩や、中観派の王道はそうです。
>それに反バラモン教的立場だからこそ、バラモンになろうとしたのではないですか。
釈尊は反バラモンではありません。かといってバラモン信奉者でもありません。
それが中道です。世間はあるがままです。
72:神も仏も名無しさん
12/12/08 20:30:42.94 U/Z8Y8M6
あるがまま?それさえもねーよwというのが釈迦
73:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(1+1:3)
12/12/08 20:33:14.94 UXcUsAXp BE:821225243-2BP(333)
>>70
立川神道のどこが反体制なんだね?
74:神も仏も名無しさん
12/12/08 21:02:23.57 WBKjgQoL
>>71
最後と言いましたが、気になったので。
>学会の通説では違うとされてますが、同じですよ。
この人も、(上座部は認めないかもしれないけど)空も縁起も結局同じこと。
ただ、概念としては、縁起のほうが先に説かれているみたいな事を言ってます。
>少なくとも龍樹菩薩や、中観派の王道はそうです。
これって、動画でもありましたが、ツォンカパやゲルグ派と言われている宗派のことですか?
動画でいうと2の6分~7分30秒の辺りですね。URLリンク(www.youtube.com)
75:神も仏も名無しさん
12/12/08 21:11:22.26 lA6LRfnJ
>>72
ちがうちがう。世間の習わしはそれぞれあるがままに認めるのが釈尊
それは幻のようなものだけど、
>>74
>これって、動画でもありましたが、ツォンカパやゲルグ派と言われている宗派のことですか?
違います。ゲルクは中観の特殊説です。
むしろ、ほとんどゲルクだけが特殊な中観です。
他は、インド、シナ、日本、チベットで細かい違いはあっても基本的に一致しています。
ですが、文献学でゲルク説が19世紀以来、権威ある情報源とされてきたので、
最近まで中観研究は倒錯してきました。
現在は、過渡期です。
76:神も仏も名無しさん
12/12/08 21:20:04.87 WBKjgQoL
>>75
>違います。ゲルクは中観の特殊説です。
ゲルクは、現在チベットで最大の宗派であり、ダライ・ラマや中国との問題などで
メティアへの露出も多いので思想的にも主流だと思ってんですけど違うんですか。
では、特殊でない中観(あなたの言う他)というと具体的になんですか?(何度もすいません)
77:神も仏も名無しさん
12/12/08 21:53:20.41 jngHHh1n
URLリンク(www.amazon.co.jp)
URLリンク(www.amazon.co.jp)
URLリンク(www.amazon.co.jp)
78:神も仏も名無しさん
12/12/08 22:03:25.12 lA6LRfnJ
>>76
>ゲルクは、現在チベットで最大の宗派であり、ダライ・ラマや中国との問題などで
>メティアへの露出も多いので思想的にも主流だと思ってんですけど違うんですか。
そうです。最大宗派です。ですが、信者が多いことと、正統であることは関係ないでしょう。
例えば、日本では日蓮系は多いですが、それが正統仏教ではないようにです。
>では、特殊でない中観(あなたの言う他)というと具体的になんですか?(何度もすいません)
インドの中観、龍樹菩薩、提婆菩薩、月称菩薩、寂天菩薩など。
チベット、サキャ、カギュ、ニンマなど。
シナ・日本、三論、華厳などです。
以上は、基本的に戯論寂滅を目指し、あらゆる見解を遮断するという意味で同じです。
79:神も仏も名無しさん
12/12/09 01:03:27.43 S2i4Svqv
>>75
世間の習わし何でもかんでもてわけじゃねーぞ
そこんとこ勘違いするなよ
80:神も仏も名無しさん
12/12/09 06:48:58.48 W+I7vCak
>>79
それは言葉や世界認識のあり方をあるがまま認めるという意味ね
ウィトゲンシュタインの諸言語ゲームや、ソシュールの恣意的なラングみたいなもん。
それらはそれぞれのままに認める。
ただし、教えのなかで取捨選択を示すけど、本質的、勝義としては何も認めない。
これは否定するわけではなく、戯論寂滅しているから。
81:神も仏も名無しさん
12/12/09 07:59:39.21 GXv5XIyh
「世界の有り様をあるがままに受け容れる」ことを
「空」とかの方向から説明しようとすると矛盾が出る。
悪事であっても「すべて空だから」オッケー、みたいに。
怒りがない(=慈しみ)という面から説明すればスッキリする。
仏は悪を止めなさいと教えるが、相手が悪人でも慈しむのだ、と。
82:神も仏も名無しさん
12/12/09 08:36:18.21 W+I7vCak
>>81
そりゃ理解が浅すぎる。
空性は間違いない。善悪というのは仮設の因果のなかで成立する。
世俗の中で、道を説く。教えだ。教えも仮設、空性に他ならないが、
因果という対象作用を持つ。
世俗の中で凡夫はこの対象作用の中で道を歩む。
空性というのは、凡夫に対してこの因果、対象作用を否定するわけではない。
単純な話、空性だからなんでもいいみたいなことをいうヤツは何も分かってない。
単なるスローガンの観念論か、多少禅定体験のある野狐禅かのどちらかでしょう。
83:神も仏も名無しさん
12/12/09 14:19:45.37 S2i4Svqv
一つだけ重要な点が見える。
お前は自分を凡夫と思っているか否かである。
不遜な仮設、空性は何もわかっていないことを示す。
84:神も仏も名無しさん
12/12/09 19:39:45.61 68lPdvFT
>>81
ごめん、「空」と「あるがまま」どういう点で矛盾が起こると考えたの?
ここは質問スレなので、「私は何を誤解してるの?」という質問として受け取るよ。
85:神も仏も名無しさん
12/12/09 21:26:38.71 W+I7vCak
>>83
エロオヤヂだよ~
何故、分かってないか示せないなら、そういうこと言っちゃあ、ダメよ
86:神も仏も名無しさん
12/12/09 21:56:23.58 S2i4Svqv
>>85
おごり ・ うぬぼれ ・ 慢心 ・ 傲慢 ・ 高慢 ・ 自信過剰
・ 不遜な(態度) ・ 尊大な(態度) ・ 謙虚でない ・ 自己中心的な(考え)
こういったもので縁起観を掴めると思うか?
思うのであれば勝手にするがいい
87:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:04:11.21 NKWZIavp
>>86
w
何に苛ついてるのかしらんが、力抜けよw
88:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:11:40.30 S2i4Svqv
相互依存性というものは頭で理解できるもんじゃない
頭が無明であると知れ
わからんと言うヤツに教えてやってるだけだよ
89:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:15:11.10 68lPdvFT
>>86
言ってることはわかるけど、掲示板の上では文字のやりとりしかできないから、
あくまで見解や解釈の正しさを巡る議論が限界だと思うよ。
つまり、態度についてとやかく言っても、どうしようもない
90:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:15:34.48 NKWZIavp
>>88
お前も時間排除厨かw
だから竜樹(中論)とは距離をおきたいのさw >>85
91:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:27:09.19 S2i4Svqv
>>90
時間に相互依存性がないと思ってるのか?
過去を思い出したことはないのか?
92:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:29:01.62 W+I7vCak
>>86
まあ、これ以上やりたきゃ議論スレへ
それができる、更に言えば縁起観・空観でしか根本的に捉えられないというのが仏教なんだけど
93:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:29:54.96 NKWZIavp
>>91
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
それ(過去の(記憶の)想起)が、相互だと思ってんの?w
94:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:33:57.37 S2i4Svqv
>>93
逆に相互じゃないと思ってる方が不思議だわw
95:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:41:01.25 NKWZIavp
>>94
w
君も隠居脳か・・・ orz
96:神も仏も名無しさん
12/12/09 22:46:48.72 S2i4Svqv
なんだw
縁起観・空観でしか根本的に捉えられないというのが仏教
と知ってるだけで実践ゼロかいなww
そりゃいうても無駄じゃわ
すまんかったなw
97:神も仏も名無しさん
12/12/09 23:01:05.81 NKWZIavp
>>96
新参か? 百年ROMってから出直して来な。
98:神も仏も名無しさん
12/12/09 23:10:46.52 S2i4Svqv
>>97
それが教えてもらう者の態度か?
質問者なら質問者らしくしろ
万が一、答える方なら不向きじゃなw
99:神も仏も名無しさん
12/12/09 23:13:05.10 HHiUI235
自分の仏教観語りたいだけのお二人は議論スレへどーぞ
仏教議論スレッド50
スレリンク(psy板)
100:神も仏も名無しさん
12/12/10 01:11:08.70 yKlyVaH7
>>84 私が矛盾を感じた点は、
仏教は四諦八正道を説き、止悪修善を勧める教えなのに、
「空」「あるがまま」を持ち出した途端に「善も悪も幻だ」という話になってしまうこと。
悪(苦悩の原因を増やすこと)と善(苦悩の原因を減らすこと)の区別を
基本中の基本として持ち続けないと、仏教(悩み苦しみをなくす教え)の存在意義がないと思います。
「善も悪も幻だよ」では仏教の土俵から出てしまう。
「悪はやっぱり悪だけど、悪人に対しても憎まないのが善だ」というところで踏み留まるのがいい。
101:神も仏も名無しさん
12/12/10 04:29:09.10 XUqzPSpk
>>100
なるほどー、俺も前はそう考えたよ。僭越ながら、説明させてもらおう。
「あるがままを見れば善悪は幻」というのは、勝義から見たときの話ね。
仏は、善悪の分別をするという衆生の理解に従って、善悪の二つを説く。
それは、悪を転じて善ならしめんとするために。
しかし、この教えを聞いて、「善こそ至高!悪こそ低劣!」のように、
迷いを深めてしまう者が出てくる。彼は、諸仏が、抜苦与楽の方便として、
「善悪」を説いたという理解がない。
「善悪」と聞くと、「善悪」なる実体がどこかにあると思い、善を賞賛し、悪を蔑む。
で、こういう状況にあった仏教界に対して、龍樹は、
世俗諦として説かれた「善悪」は、「善悪ならざるもの」を仮に善悪と呼んだということ、
それは、勝義諦として明かされる「善でもなく、悪でもない、ありのままの世界(涅槃)」へ
至らしめるための教法、筏だったと明かす。
以上のことから、世俗的、方便、仮説としての意味では、善悪の区別はちゃんと持ち続けてるよ。
一方、勝義から見れば、本来、非善非悪ね。このように、二諦によって複眼的に世を見る。
生滅の縁起(輪廻)と不生不滅の縁起(涅槃)も同じ関係ね。
もし、あなたがそれでも、混乱するなら、空の教えを聞く必要はないかも
一先ず、まだ、善悪を区別して、善行に励めばいいよ
それで、善悪に優劣をつけて苦となれば、空の教えを聞けばいいと思う
102:神も仏も名無しさん
12/12/10 08:06:28.09 yKlyVaH7
>>101 うみゅみゅ。
勝義諦を理解したほうが苦しみがなくなるというのは、
勝義諦を理解することが善なのであり、より深く善を理解するということではないかと思ったもので。
103:神も仏も名無しさん
12/12/10 12:10:46.02 JFpZ3HOs
>>102
そうだね、あなたの言うように竪に論ずれば、「世俗/勝義」には「浅/深」の優劣はあるよ。
一方、横に論ずれば、世俗/勝義の二諦も因縁によって生じたもの。
龍樹は、世俗と勝義の分別をするという衆生の理解に従って、世俗と勝義の二つを説く。
それは、世俗諦を転じて勝義諦ならしめんとするために。
善悪の二も、二諦の二も、不二を悟らしめるための教法という点で、同じよ。
吉蔵の『大乗玄論』に「唯一実諦、方便説二」とある。
二諦は、本当は唯だ一つの実諦なのであるが、方便によって二と説く。
一代さんが使う、戯論寂滅の境地そのものを表す勝義諦は、この一実諦に相当する。
104:神も仏も名無しさん
12/12/10 14:50:34.02 HeaPuBX+
「まほろば」の仏教的見解を教えて下さい。
105:神も仏も名無しさん
12/12/10 17:47:14.99 czVLjNYh
最近知的唯仏論と言う本が出版されましたが、読まれた方はいますか?
感想などありましたらお願いします。
106:神も仏も名無しさん
12/12/10 18:23:44.23 sRMncAno
知的唯仏論 / 宮崎哲弥、呉智英 / サンガ (2012/11)
手塚治虫『ブッダ』からナーガールジュナ「中観」まで、知的で愉しい仏教論
宮崎哲弥
仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う
呉/智英
知識人論等の分野で執筆活動を展開
カスタマーレビュー
//www.amazon.co.jp/product-reviews/4905425093/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
107:知的唯仏論 大滝秀治
12/12/10 19:01:44.93 JhqvynGo
<知的唯仏論>
読んでないが、気に食わねー題名だなあ~w
『趙州の無といはれしはおほつかな
いかにとしてもしられさりしを』(至道無難禅師 即心記より)
苫米地(>>56)にしても宮崎にしてもタレントとして結構影響力が大きいのだから、
キチンと評価と批判をしとかなんとアカンのとちゃうか?
108:神も仏も名無しさん
12/12/11 00:35:34.22 x3qISGD7
>>104 質問の意図がわからない。
109:神も仏も名無しさん
12/12/11 00:38:22.97 UdCHYGPs
>>108
アニメ作品なんかじゃないの?
だから、
「ブラックジャック(手塚治虫)を“仏教的に解釈したら”どうなりますか?」
という問いみたいなもんでしょ。
110:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=38,xxxPT】(1+0:3)
12/12/11 18:04:53.15 Nxdpmqbe BE:2053062465-2BP(333)
「いまだ法蔵菩薩は悟っていない」という題名の仏教ファンタジー小説を書いているんだけど、
人間界、畜生界は書けたんだけど、
餓鬼界が難しい。
餓鬼界で、だれがどのような状況で法蔵菩薩の名前を呼ぶのが面白いだろうか?
いいアイデアないかなあ?
地獄界は、地獄の獄卒と戦うつもりで、次は阿修羅と戦うつもりだけど、
今、餓鬼界でつまずいている。
餓鬼界を演出するいい場面とはどんな場面だろうか?
111:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=38,xxxPT】(1+0:3)
12/12/11 19:06:24.86 Nxdpmqbe BE:2053062465-2BP(333)
餓鬼界、書き終わりました。ありがとございました。
112:神も仏も名無しさん
12/12/11 19:41:59.42 dw29UWbf
釈迦、如来、仏陀、阿羅漢、菩薩など聖者を指す色んな尊称がありますけど、これらに上下関係などあるのでしょうか?
113:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=38,xxxPT】(1+0:3)
12/12/11 20:27:13.43 Nxdpmqbe BE:2053062465-2BP(333)
次、地獄界を書く予定なんですけど。
無量寿経から見て、地獄に落ちる者は、どんな罪を犯した者でしたっけ?
114:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=38,xxxPT】(2+0:3)
12/12/11 20:30:53.65 Nxdpmqbe BE:821224962-2BP(333)
自己解決しました。
確か、五戒を犯した者でしたね。
殺して、盗んで、不倫して、嘘ついて、酒を飲んだら、地獄に落ちるんですね。
115:神も仏も名無しさん
12/12/11 21:57:49.93 QwHXlUnN
//tobifudo.jp/newmon/shinbutu/hotokes.html
仏様を分類すると、如来、菩薩、明王、天部、その他となります
仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はありません
役割の違いです
如来 ・ 菩薩 ・ 明王 ・ 天部 ・ その他(閻魔王など)
//ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2
阿羅漢
初期仏教では、修行者の到達し得る最高位
116:神も仏も名無しさん
12/12/11 22:17:15.30 QwHXlUnN
//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C
預流果 - 須陀洹(しゅだおん)
一来果 - 斯陀含(しだごん)
不還果 - 阿那含(あなごん )
応供果 - 阿羅漢(あらかん)
117:神も仏も名無しさん
12/12/12 03:24:39.01 g2Ec/qE6
>>112
釈迦はシャカ族って意味で固有名詞、部族名。
シャカ族の尊者であるゴータマ・シッダールタであるから略して釈尊。
如来、仏陀、阿羅漢は悟りに到達した者の尊称。
悟りを獲得しているならば、
如来(そのように[悟りの世界から]来た人)とも呼ばれるし、
仏陀(目覚めた人)とも呼ばれるし、
阿羅漢(布施をするに値する人)とも呼ばれる。
そして菩薩は悟りたいと思って修行している人全般を指す修行者の総称。
ゴータマ・シッダールタで例えると29歳で悟りたいと思って出家してから35歳で悟りを獲得するまでが菩薩と呼ばれる状態。
んだから、上下関係はつけることができない。
けれども、どうしても上下関係をつけたいのであればシャカは名前だから省いて、
如来>仏陀>阿羅漢>菩薩
って考えるのもひとつの考え方だと思う。
理由はややこしいんだけど、菩薩は修行中の身だから一番下、阿羅漢は煩悩を断じ切った状態、仏陀は一切智も獲得した状態、
如来は仏陀となった人物がさらに宗教的理想像を語る上で登場する模範的存在の尊称。
ま、多種多様ある仏教の教義解釈の一辺にすぎないだろうけどね。
118:神も仏も名無しさん
12/12/12 17:48:41.20 zLIyawpS
阿羅漢である舎利佛や目連より菩薩である観自在菩薩や文殊菩薩の方が偉い。
更に、阿羅漢や菩薩よりも維摩居士のような在家の覚者の方が偉い。
偉いというのは、語弊があるかも知れないけど、こんな感じじゃないの?
119:神も仏も名無しさん
12/12/12 17:56:25.90 2qeUm78b
「大病院の実績と実力(技術)ある外科部長よりも、無免許ブラックジャックの方が上」
みたいな感じかw
120:神も仏も名無しさん
12/12/13 02:00:36.38 ywmZ/qxf
>>118
先の人は煩悩の状態を基準に判断してるけど
それはどんな理由でそう考えるの?
維摩経に限った話ではって感じじゃないの?
それだと悲華経に限れば釈尊が何より一番偉くて
阿弥陀経に限れば阿弥陀仏が一番偉くて
宝積経に限れば菩薩が一番偉くなりますね
121:神も仏も名無しさん
12/12/13 08:16:40.45 fjN+4Sso
ブッダも阿羅漢も悟りの境地は同じ。
ブッダは、阿羅漢の中で飛び抜けた布教能力を持つ。
122:神も仏も名無しさん
12/12/13 08:36:38.46 By/IMO1w
>>121
ブッダ・如来は一切智者、アルハットは違う
明らかに違いがあるでしょう
その違いがアーガマ・ニカーヤにも散見されるし、大乗経典には明らか
123:神も仏も名無しさん
12/12/13 12:02:17.92 T493Bo/K
仏教には様々な坐禅や瞑想があるけど、実際にしっかりやってみた人っている?
このところ、上座部系のやり方もよく見聞きするようになったんだけど。
124:神も仏も名無しさん
12/12/13 12:55:25.87 fjN+4Sso
煩悩の残りがないのが阿羅漢。
悟り(煩悩をなくす)という面では阿羅漢より上はない。
125:神も仏も名無しさん
12/12/13 13:32:03.55 rCx5xDbz
たとえば、
プロ野球選手が、地方の小中学校へ出向して「コーチ」や「監督」指導するのが菩薩。
自分のプレー専一にして、その姿及び自分の活動範囲(球場や近所・知人の依願)で「指導助言」するのが阿羅漢。
選手としての質に違いはなくとも、『その活動の仕方』に違いがあるようなもの、かな?
126:神も仏も名無しさん
12/12/13 17:36:59.56 fjN+4Sso
>>125 菩薩はまだ煩悩が残っているので、
悟りのレベルについては仏や阿羅漢より下。
127:神も仏も名無しさん
12/12/13 17:54:45.74 Ex/qXKUr
大乗の経典特に般若系は、阿羅漢を下に見てるよね。般若心経なんかはモロに。
仏教としては、阿羅漢に菩薩が教えを説くと言うのは、異常なの普通なの?
128:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/13 18:22:48.95 suOXnf/I
>127
経典の成立年代が違うから、(大乗代弁者の)菩薩が(上座代弁者の)羅漢に文句を垂れるのは仕方ない話。
誰が何を言ってるかではなく、
その記述をした意図を考えるべき。
129:神も仏も名無しさん
12/12/13 22:50:51.37 DQA1SHOQ
>>127
>阿羅漢に菩薩が教えを説くと言うのは、異常なの普通なの?
教えなんかなにも説いてないで、試験の落第答案でしかない。
みんな、もっとキッチリ嫁よ。
観自在菩薩とかいう奴のいつもの般若波羅蜜の修行が、どーゆーワケかオヨヨと一段「深」まっちゃって、
やったぜベイビー! 五蘊には実体なんかあらへんわあって、ビンビン来たわけよ。
それで、阿羅漢とゆーか、ホトケとゆーか、ネーミングなんかどーでもええけど、なったらしいいんで、
釈尊とこに行く前に、先輩のサーリプッタ阿羅漢先生にチェックしてもらうってのがこの経のシーンなの。
サーリプッタさんに「子」がつくのは、男子の尊称だから当然やね。
まあ「三世諸仏~」でサーリプッタ先輩から鉄拳制裁くらった落第やわな。
落第答案なんだけどヒンドゥ崩れの密教謀略坊主が「経」に仕立てて、残ってるというのが事実。
皆さん、テキスト丸呑みによる下痢に御注意。当たると、こわいで。
130:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/13 23:08:53.56 suOXnf/I
バカが入門書斜め読みしてしたり顔で妄想垂れ流して仏教だとか言ってますが、どうしたらいいですか?
あと、キリスト教徒が基地骸ですが、どうしたらいいですか?
131:宝珠愚者@(規制代行)
12/12/13 23:16:12.12 QhnBHkze
>>118
>阿羅漢である舎利佛や目連より菩薩である観自在菩薩や文殊菩薩の方が偉い。
何故なら大乗は、
菩薩の持つ“衆生済度の誓願”の考え方を更に発展させて、
大日如来が衆生済度のために姿を変えて出現したものとする八大菩薩を掲げたから。
観音、文殊はその八大菩薩の二方です。
>>122
>その違いがアーガマ・ニカーヤにも散見されるし、大乗経典には明らか
まっ“誤解”と、
そして“大乗側の身勝手な主張”に過ぎない。
132:神も仏も名無しさん
12/12/13 23:20:31.73 DQA1SHOQ
>>130
密教崩れには、ホントウを言われるとヤバイですかw
ちちんぷいぷいのおまじないで、護摩でも炊くのが釈尊流でしゅか?
フリダヤムなんて、サーンキヤ(ヒンドゥ)哲学密輸入丸出しのタヌキの尻尾でしゅよw
アッフォは無用。
133:神も仏も名無しさん
12/12/13 23:27:08.24 DQA1SHOQ
まあ、ボサツにしてもダイニチニョーライにしても、
ディズニーランド=ヒンドゥ遊園地にキャラクターとおんなじ受け狙いポピュリズムやねえ。
“衆生済度の誓願”なんて民主党の受け狙いマニュフェストとおんなじですあw
134:神も仏も名無しさん
12/12/13 23:32:40.16 0/8DHPyv
議論スレへどうぞ
解釈が分かれそうな部分はなるべく引用などによって根拠を示すようにしたらどうでしょうか
あるいは、無理に複数の説に優劣をつけるのではなく、並列すれば済むのではないでしょうか
135:神も仏も名無しさん
12/12/13 23:34:29.68 DQA1SHOQ
ダイニチニョラーはヒンドゥ教ブラフマンの成りすまし芸名です。
謀略ですな。
136:神も仏も名無しさん
12/12/13 23:43:20.57 6cahPOIs
ぁー釈迦のニルバーナはバラモンの間だでも話題になり、説法座に多くの群集あつまってきた
説いた法がすごいものだと認められ、釈迦はバラモン(ヒンディー)の12神の一人として祀られることになった
137:神も仏も名無しさん
12/12/13 23:54:59.14 6cahPOIs
大日如来は成り済ましじゃなくテンポラリ
当時の民衆に法を理解してもらう為に荘厳仏が不可欠だった
138:神も仏も名無しさん
12/12/14 00:32:42.49 WmIckhaA
菩薩衆が偉いとか偉くないとか、そう言う話じゃなくて、釈迦が説いた対告衆は舎利拂だった
139:神も仏も名無しさん
12/12/14 05:03:42.27 rrey1wKj
相変わらず妄想百花繚乱で、質問者は困惑しているでしょう。
今、ここで訊くのは無理ですね
140:神も仏も名無しさん
12/12/14 19:22:50.38 qrLGYaje
>>132
すみません。
ちょっと気になったので質問させてください。
貴方の不思議な言葉遣いはキャラを作っているのですか?
それとも素ですか?
また、所々に変なカタカナがあるのはどのような事を意味しているのでしょうか?
あと、
>アッフォは無用。
のアッフォとは何を指しているのでしょうか?
141:132 Je vois la vie en rose
12/12/14 23:08:08.48 CAWrgj23
>>140
>所々に変なカタカナがあるのはどのような事を意味しているのでしょうか
俺はベッドで、女の首筋に柔らかいキスをしながら、
思わず低くつぶやいてしまう、
、
“Je vois la vie en rose.”
URLリンク(www.youtube.com)
安心せよ、存在に、意味などあろうわけがない。
放てば、“Je vois la vie en rose.”
ブッダや龍樹が示唆しようとしたのは、これだけさ。
142:■
12/12/14 23:49:32.78 WmIckhaA
>>141
見かけによらず貴方は凄いひとだw
正にその通りだと
歴史的に最も読まれて来た法華経に「衆生所遊楽」とあります
私たちは何の為にこの沙婆世界に生まれてきたのか?それは楽しむ為に生まれてきたのだと
143:神も仏も名無しさん
12/12/15 06:51:51.34 S2n6klHM
>>142 楽しむために生まれてきたというのは、そのとおりですね。
ただし、ブッダは、楽しみたいという執着こそが悩み苦しみの原因だと解き明かしたのです。
衆生は執着のため成仏できずにこの世をさまよっている、幽霊と変わらないのです。
144:神も仏も名無しさん
12/12/15 07:10:25.74 H6EyK25r
妄想もたいがいにしてくれ
145:神も仏も名無しさん
12/12/15 11:15:25.01 1Yus2bl+
一切皆苦だからの
悟ったら死ぬのが一番
146:神も仏も名無しさん
12/12/15 13:40:07.77 p8Q6x2Hn
>>127
苫の動画見てそっくり受け売りしてるだろ?
147:神も仏も名無しさん
12/12/15 14:25:46.81 o31VIpIq
あの動画見た人ホントにいるんだ・・・
148:神も仏も名無しさん
12/12/15 19:49:33.74 rFERRv9O
>>146
別に苫米地発言を介さずとも、
普通に“悟りの階位”を考えれば、自然と出てくる疑問と思うよ。
異常とまではいかなくとも、普通ではない、というのがデフォルト形でしょ。
上座部的に言えば、菩薩と言えば概して釈尊等ブッダの前生がイメージされるし、
未だ(法)眼開けていないからこそ「阿羅漢以前≒菩薩」なわけだし。
仮に、在家の“聡明な篤信者”としたとしても、「在家→比丘」という構図は基本存在しないし、
ましてや対阿羅漢ともなれば・・。
ただ、伝承として弟子達の個性や特色が伝えられている実状を考えれば、
(―また、個々の弟子たちは(学校が採択する教科書(テキスト)の如く)一律・同一の教えを
聞いているわけでは必ずしもないし―)、或る教えに通達・熟知した者、或いは多く聞いてきた者が、
それを、未だ聞いていない者に教示するということはありえなくもない。
また、阿羅漢という呼称(階位)が、“煩悩の断じ具合”から言われるものなれば、
それは、“教えに対する通暁”や全知・博識・とはまた別問題ともなろう。
(十大弟子の一々をイメージしてもいい。そのように『秀でた在家者』の存在及び出現を否定する理由はどこにもない。)
となれば、補填し合うが如き、教えの提示し合いも、ありえそうではある。
が、それでもやはり「特殊な」構図であることに変わりはない。
(これを特殊でないと言えるのは、“大乗の文脈”の上での話でしょ。)
その意味で、127は、自然な問いだよ。
149:神も仏も名無しさん
12/12/15 20:17:41.21 /zAy8kyw
>>148
>その意味で、127は、自然な問いだよ。
あのね、>>146は『てそっくり受け売りしてる』ことを問題にしているの。
苫米地はスマナサーラをそっくり受け売りしてるし、これでは受け売りの受け売りだw
しかもスマナサーラの間違いもあるし、間違いまで受け売りではアホでしょ?
150:神も仏も名無しさん
12/12/15 20:21:07.59 H6EyK25r
>>148
>上座部的に言えば、菩薩と言えば概して釈尊等ブッダの前生がイメージされるし、
>未だ(法)眼開けていないからこそ「阿羅漢以前≒菩薩」なわけだし。
大乗的に言えば、本当に発心したなら、境地はアルハット以下でも実質アルハット以上なんだよね
つまり、一切智を目指して発心し普賢行を行うかどうか、それにかかっている。
言い換えれば、菩提心があるかないか。それが全く別の次元の上下なわけだ。
そして、それがないとアルハットどまりで、仏・如来にはなれない。
ここでいうアルハットは、供養すべきという意味ではなく羅漢果を得た人という意味ね。
151:神も仏も名無しさん
12/12/15 20:45:38.69 rFERRv9O
>>149
そか。 (その方向でのレスは3割ほど予測してたが・・w)
けど、問いの内容自体は、たとえば>>150が補完しているように、
「“大乗仏教”という呼称やカテゴリ」が継続する以上、同時に付いてまわる疑念と思うよ。
なぜなら、(一代は少し視線のとり方が違うがw)、
『歴史的推移に於ける後発思想』という側面を、どのように《弁明》するか? ということだから。
ここを、
「異常じゃないよ。阿羅漢よりも菩薩の方が優れているよ。ランクは上だよ」
ということを示そうと思えば、
かなり詳細で突っ込んだ、そして、大乗という立場への深い理解がなかったら伝わらないよ。
『歴史的後発思想だけど、後付じゃない』 ということを示すには、結構な(話術・作文・語用)スキルが要ると思うよw
152:神も仏も名無しさん
12/12/15 20:57:50.14 H6EyK25r
>>151
>かなり詳細で突っ込んだ、そして、大乗という立場への深い理解がなかったら伝わらないよ。
確かに
>『歴史的後発思想だけど、後付じゃない』 ということを示すには、結構な(話術・作文・語用)スキルが要ると思うよw
要するに縁起か、実在論か、どっちを信じるかってかんじなんだけど、
縁起を理解するのが、難しいから
そしてその理解がないと、仏教が分かってるとは言えないと思うです
153:神も仏も名無しさん
12/12/15 21:48:37.88 rFERRv9O
>>152
“縁起”であっても“後発”であることに変わりはない、
と俺は思うけどねw
結局、「文脈、解釈」に依っているに過ぎないと思うよ。
154:神も仏も名無しさん
12/12/15 21:52:47.10 H6EyK25r
>>153
それは凡人から見た立場ではね
聖者から見れば、前後などなく同じことだと思うよ
155:神も仏も名無しさん
12/12/15 22:01:55.72 S2n6klHM
そもそも、真面目に修行してて「あえて悟らない」なんてことができるの?
ブッダの弟子に一人でもそんな人がいたんだろうか?
もしいたら、ブッダに「まじめにやれ」としかられそうだし。
現代にそんな菩薩(本気で修行すれば阿羅漢になれるがあえて布教に力点をおいている人)がいたら、
私は、「頼むから1日でも早く阿羅漢になって、阿羅漢にしかわからない境地を語ってください」と願うな。
156:神も仏も名無しさん
12/12/15 22:08:14.04 rFERRv9O
>>154
聖者から見た立場が、聖者にとってしか意味が無いことは解るよね?
157:神も仏も名無しさん
12/12/15 22:35:15.35 rFERRv9O
いや、野暮なレスだな・・。場所も場所だしw
ただ、『“世界”をどう見るか?』という“文脈(解釈)”の問題じゃないかとは思う。(特に他教・他思想と対峙した場合。)
正誤でもないし真偽でもない。二諦ってそういうものかとも思うし。
だからこそ「仏教では」(或いは「大乗では」)という枕詞が重要になってくるかと。
涅槃を語る際に、キリスト教の文脈で語っても、
(アプローチの一端としては有意義で興味深いけれども)、詮無いことだろう。
仏教という文脈で語られて初めて、涅槃は涅槃足り得るであろうしね。
勿論、仏教という枠内での、これ(他教との位相)のミニ版が、「聖者の視線と凡夫の視線」ということになるのかもしれんが・・・。
これ以上は、スレ汚しだなw
ノシ
158:神も仏も名無しさん
12/12/15 22:50:10.74 H6EyK25r
>>155
そりゃ、悟りと涅槃をごっちゃにしてるね
色々なことを自分の知識で、判断するから誤解するんだは
書いてある通り読もう
159:神も仏も名無しさん
12/12/16 00:28:49.54 aI155fGZ
>>155
阿羅漢が欲望に振り回されない境地だとしたら、
菩薩はその境地を通過してるよ
阿羅漢は煩悩を滅することを中心に考えるから、
なんていうのかな、すごい煩悩に対して悪いイメージを持っているというか
菩薩は、その境地を過ぎて、煩悩も本来清浄だという所にまで行き着いてる
煩悩を滅しなさいという教えで二乗に、
いつまでも煩悩を敵視するな、煩悩即菩提!という教えで菩薩乗に、って感じ
160:神も仏も名無しさん
12/12/16 02:05:53.96 inL2eJ3A
>>159 煩悩即菩提という考え方は大乗すべてに共通なのでしょうか?
たとえば、浄土系では、あくまでも煩悩を消すことを目指すと思います。
その近道が往生極楽であるので手段としてまずは念仏往生ですが。
161:神も仏も名無しさん
12/12/16 02:21:42.28 inL2eJ3A
>>158 なるほど。
すべての煩悩をなくした(完全に悟った)阿羅漢は、二度と輪廻しないで入滅即涅槃。
しかし普賢行を行う菩薩は、阿羅漢と同じように完全に悟っても、
死後に涅槃に入らずに輪廻することができる、
もしくは寿命をいくらでも延ばして涅槃に入らないことができる?
でも、釈尊は、前世の菩薩時代には悟っていなかったですよね?
だから、シッダールタとして生まれてから修行して悟る必要があった。
釈尊のパターンに当てはめるなら、菩薩はまだ悟っていない、
神通力はマスターしてるとしても煩悩はまだ残っている、と思われますが。
162:神も仏も名無しさん
12/12/16 05:11:10.70 T9tHkI5u
> 神通力はマスターしてるとしても煩悩はまだ残っている、と思われますが
//www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀法品第十八
諸の禅定の中で滅尽定(想受滅)を以って第一と為し終に無余涅槃に帰する
(八正道)八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
163:神も仏も名無しさん
12/12/16 05:51:56.46 inL2eJ3A
普賢行を行う菩薩は、
悟りの面ではブッダや阿羅漢と同じくすべての煩悩を滅しており、涅槃に入ろうと思えば入れるが、
ブッダの爆発的な布教力・救済力を手に入れるために、
さらに神通力を磨く修行をしている、ということ?
164:神も仏も名無しさん
12/12/16 06:10:28.43 WtRykvdV
>>161
だから、上に書いた通りだって
次元が違う
165:神も仏も名無しさん
12/12/16 06:29:52.51 T9tHkI5u
> 涅槃に入ろうと思えば入れるが、ブッダの爆発的な布教力・救済力を…
//ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9
現世で活動するための菩薩
すでに悟りを得ているにもかかわらず、成仏を否定した菩薩も創造された
これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ
この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩と普賢菩薩である
彼らは、釈迦のはたらきを象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである
他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である
166:神も仏も名無しさん
12/12/16 06:39:21.50 T9tHkI5u
ブッダの人と思想(NHKブックス)/中村元(1998/07)
- 40ページ -
非想非非想処
想うのでもなく想わないでもない境地
滅尽定(想受滅定)という最高位の禅定の
一歩手前の境地であるといわれております
- 51ページ -
四如意足(四神足)
神通力の基礎となる力で
意欲、努力、思念、観察へのそれぞれの集中力のことで
それを修めて悟りを開いたというものです
意欲、努力、思念、観察は悟りへの必須の条件でもあります
167:神も仏も名無しさん
12/12/16 09:03:20.70 bCL4HxXm
>>161
そりゃ、仏法とファンタジーをごっちゃにしてるね
色々なことを自分の知識で、妄想するから誤解するんだは
はやく般若智をつかもう
168:神も仏も名無しさん
12/12/19 14:09:00.66 AdeIY0f9
仏教(仏法)もファンタジーですよ。と言われ自分でも一理あると思ってしまいました。
どう反論すべきだったでしょうか?
169:神も仏も名無しさん
12/12/19 17:34:47.64 nOfn5fsm
>>168
そりゃ、
『ファンタジー』という語に、どういう(付加的)意味を見るか?
に依るからね・・w
貴方が一理あると思ったとき、
“貴方が有するファンタジーという語が持つイメージ・意味”と“貴方が解している仏法”との間に、
重なりが見られたからでしょう?
そうした重なりを見ない人にとっては、件の発言は反論の責に駆られるでしょうし、
重なりを見る人にとっては、(全肯定ではなくとも)なるほどと納得を生むことでしょう。
言葉(指示語)とはそういうものです。
170:神も仏も名無しさん
12/12/19 17:35:59.21 nOfn5fsm
>>168
つまり、反論する必要はない、ということです。
なんとなれば、「貴方もまた、そのように考えていた」ということなのですから。
171:神も仏も名無しさん
12/12/19 23:26:14.53 AeWvV+R1
般若智による縁起の直覚(現観)にファンタジー(幻想・空想・妄想)はありえない。
172:神も仏も名無しさん
12/12/20 06:47:01.50 05DV4nQ2
>>169
ごもっとも。>>171のように言うことはできるけど、
この文の記号内容が遊びみたいな使い方なら、全く話にならない誤解だということ。
遊びは、机と同じ単なる野狐禅に過ぎないから。
ここでいう野狐禅は禅定の境地を悟りと勘違いするという意味ではなく、
単なる記号の読み違えで「あるがままでいい」というような唯の現状肯定論になってしまってるもの。
伝統仏教でいえば、断見、あるいは現法涅槃ということができるでしょう。
173:大滝秀治
12/12/20 17:57:59.60 pVqiw4ZX
>>172
>単なる記号の読み違えで「あるがままでいい」というような唯の現状肯定論になってしまってるもの。
縁起の直接現実(あるがまま)は、現状でも非現状でもない。
現状という観念そのものがありえない。
縁起の直接現実(あるがまま)の無分別智直覚(縁起の現観)に肯定も否定もありえない。
また縁起の直接現実(あるがまま)に断見も常見もない。
時空際断、一切不可得、戯論消滅という境地なるがゆえに、
一切緒仏は、還滅世俗にて慶安に存在される(無分別の分別)のである。
>>172のレスはまったく縁起の現観を掴めていないもののアタマでっかち、曳かれ者の小唄でしかない。
174:神も仏も名無しさん
12/12/20 18:04:51.91 9G81TAqT
>>173
w
「一切はファンタジー」ってのが、お釈迦さんの喝破の内容なんじゃないかい?
175:大滝秀治
12/12/20 18:15:04.08 pVqiw4ZX
中論13-8『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人がもしも空見をいだくならば、勝者はその人々を「癒されない人」と呼んだのである。』
★この偈は重要です。
Sn.653・874・1072(想いからの解脱において解脱)・1119参照。
空観に直指肯定文言はありえないのです(中論 帰敬序、25-3参照)
本偈は真言密教(空海)の「果分可説」の直接的な批判となっています。
>>174
>「一切はファンタジー」ってのが、お釈迦さんの喝破の内容なんじゃないかい?
中論13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』
★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。
「非虚妄(ファンタジー)非非虚妄(ファンタジー)」(四句第4)と示唆べきです。
もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。
しかし、編集が極めて拙劣です。誰の偈か明解に編集すべきです。
現に中観派の論師たちでも混乱しています。
チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか?
176:神も仏も名無しさん
12/12/22 18:47:04.77 LZ1Oztcg
煩悩の数が108として普及したのはいつからなのでしょうか?
婆沙論の諸本や雑心論などではあったのですが、それ以前のニカーヤや阿含において
煩悩数を108と規定することは確認されるのでしょうか?
177:神も仏も名無しさん
12/12/22 20:12:27.04 nYv3Yhx+
煩悩
//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9
原始仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、解脱による涅槃への道が求められた
部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた
大乗仏教の時代でもこの分析は続けられ
特に唯識が示した心と煩悩の精緻な探求は仏教が到達した一つの究極点といえよう
またこの時代には、煩悩を否定しないというそれまでの仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)
この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えた
このように煩悩の観念は時代を経るに従い、様々な意味を付加して深化しているといえよう
説一切有部では、煩悩を分析し
知的な迷い(見惑)と情意的な迷い(思惑または修惑)とに分け
また貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とした
さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える
唯識
大乗仏教の瑜伽行派(ゆがぎょうは)では、上記の根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた
178:神も仏も名無しさん
12/12/22 21:19:40.52 6+YjT4RL
>>175
石飛先生によれば『中論』13-1は『スッタニパータ』757偈に相当します。以下、757の中村訳です。
「或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。」
虚妄というのは、決して「虚妄だから言語表現できない」という意味ではありません。
諸仏によって説かれる法は、同一性を常に保つような、不変なる実在であるわけではなく、
縁起によって生じた(作られた)ものであるため、それはしばしのものでしかない、という意味です。
中論13-2では、このことは「空を闡明するものである」とも言われています。
法は同一性を保たないことから虚妄と言われますが、仮説によって意思疎通ができる程度には同一性を保っているともいえます。
A君が老いゆくさまを見れば、A君はすでにA君ではないのですが、しかし、依然として、
人々の間で「A君はA君だ」と、共有することができる、ということです。
実在論者は、「A君は常に変わりゆくことなくA君である」というように、
A君の中に、A君をA君たらしめる基底のようなもの、アートマンを見てしまいます。
これは常見と呼ばれ、虚妄である法を、虚妄ではないと顛倒するものの見方です。
179:神も仏も名無しさん
12/12/22 22:54:24.90 LZ1Oztcg
>>177
レスありがとうごじます。
煩悩についての項目をウィキペディアから引っ張ってきてくださってありがとうございました。
けれども自分が知りたいのは煩悩が108を数えるようになったのは婆沙論以前に求められるのかどうかなのです。
そこについては知られないでしょうか?
180:神も仏も名無しさん
12/12/23 00:13:01.42 LLW2dImj
>>178
その人に言っても無駄でしょう
181:神も仏も名無しさん
12/12/23 00:21:42.95 CGbdp4J8
>>180
はい、議論スレなら放っておくつもりでしたが、
質問スレなのでついつい…
182:神も仏も名無しさん
12/12/23 00:34:20.87 kkSGB+NC
仏教の目的は、苦しみの世界からの解脱と理解していいですよね?
念仏で解脱できるとはおもえません。だとするならば、どうやって解脱するのでしょうか?
まだどうなったら解脱なのでしょうか?
183:神も仏も名無しさん
12/12/23 02:57:08.89 sj3CdLMC
>>182
仏教と一言に言っても解脱と解脱の方法に関しては様々な解釈理解があります。
そのために一般的な仏教での解脱と念仏による解脱について説明します。
仏教の目的は苦しみという輪廻の世界から脱却する事であり、
そのような輪廻(再び生まれる)というスパイラルから抜け出すことを解脱といいいます。
旧来は家を離れ、師に付き、教えを聞き、戒を保ち、メディテーションを行い、正しく物事を理解できるようになることによって
悟りを獲得し、それによって解脱(苦しみの世界に再誕しないようになる)が可能でした。
しかし、家族が有り、仕事が有り、様々なしがらみが有るために旧来の修行を行えない人々もいます。
それをなんとかしようとした阿弥陀仏が
念仏をしたならば来世に阿弥陀仏の世界である極楽(修行を簡単にできる場所)に生まれることができるなシステムを作りました。
つまり、念仏を行う事によって極楽に生まれ変わることができて、そこで簡単に修行をして、
そこで修行をした結果、解脱(輪廻からの脱却)を求めることができるのです。
よく誤解されがちなのですが、念仏を唱えればたちまち今の世界で解脱することができるというわけではありません。
また、説明は簡略に徹した為にわかりにくい点があるかもしれませんが、追って質問していただければ次いで回答させて頂きます。
184:神も仏も名無しさん
12/12/23 08:26:24.61 4ygCP0Ro
//ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1
慧解脱(えげだつ) - 「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧を得ていることをいう
倶解脱(くげだつ) - 慧の障りを離れるだけでなく「定」の障りをも脱していることをいう
心解脱 - 心に貪著を離れること
慧解脱 - 無明を離れていること
心解脱 -
精神的には既に解脱していても
肉体的にはどうにもならない束縛を持っている場合をいう
例えば釈尊の成道後の伝道生活の如きである
身解脱 - 完全に肉体的な束縛を離れているのをいう
185:虚妄の如く 大滝秀治
12/12/23 11:28:17.86 5kMRGUZJ
>>178>>181
レスありがとうございます。『議論スレなら放っておくつもりでしたが、 質問スレなのでついつい』(>>181)レス返ししておきます。
休憩中の気休め?wになります。
>虚妄というのは、決して「虚妄だから言語表現できない」という意味ではありません。
そうではありません。虚妄だから言語表現するのです。
『虚妄』論者はすべてを世俗諦(間接現実)でしか見えていない虚妄=物語・ファンタジー・イリュージョンだからこそ、
逆に虚妄だと直接肯定言辞で言語表現してしまうのです。
たとえば、無想家の宝珠や、オイラ氏や、Sn.757にいう『愚者』のようにね(議論スレッド51>>378>>382など)
→まさに虚妄だ、とは『空見』です(中論13-8)。
石飛道子は完全に読み間違っています。
直接現実においては直接肯定的言辞はありえません。
間接現実からは“虚妄の『如く』”(←比喩)、“非虚妄非非虚妄”(←四句第4)、沈黙(維摩など)、気合音(喝~ツなど)などのスタイルで示唆するしかありません。
これを>『それはしばしのものでしかない』(>>178)ゆえに仮設→仮観(中論24-18の趣旨)というのです。
あなたは中論24-18を掴めていない。
ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はない(空観)からこそ、言語ゲームとしてプレイするのです(中観)。
>中論13-2では、このことは「空を闡明するものである」
もしこれが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。
仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道(の如く)なのです。
(スレリンク(entrance2板:622-624番)で?氏の求めに、中論13章全体を簡単に解釈しました。宜しければどうぞ)
では、修空華万行の二相の相即的実践に戻ります。
186:神も仏も名無しさん
12/12/23 11:49:39.50 4ygCP0Ro
>>185 虚妄の如く 大滝秀治さんへ
> //uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1348897577/622-643で?氏の求めに、中論13章全体を簡単に解釈しました
↑ レス有り難う御座いました、そして更に、解説などを追加しておきました
187:神も仏も名無しさん
12/12/23 13:03:56.07 1mAmqb2j
仏に心はあるのか?
ケーキの甘みを感じ取れるか、分からない
188:神も仏も名無しさん
12/12/23 14:05:41.41 GrrJueJm
>>185
議論スレの方に返信しておきます。続きはそちらでやりましょう。
189:神も仏も名無しさん
12/12/23 14:08:28.51 GrrJueJm
>>185
あ、すいません、やっぱり宗教と精神疾患3のスレに返信します。
190:神も仏も名無しさん
12/12/23 16:38:50.31 kkSGB+NC
>>「仏教徒は輪廻転生する」「お盆には先祖の霊が帰ってくる」 ←ひどい矛盾 確実に寺に騙されてるわ
191:神も仏も名無しさん
12/12/23 16:44:17.88 kkSGB+NC
190は、ニュース系のスレのスレタイです。
先祖の霊が、帰ってくると言うのは、すごく儒教的な感じがします。
儒教なら儒教でいいとおうもんですけど、それをお寺つまりお坊さんがやるって言うのは、すごく矛盾を感じます。
このような風習は、おそらく日本だけだと思いますが、日本の仏教界では、この矛盾に対してどう説明しているのでしょうか?
192:神も仏も名無しさん
12/12/23 16:48:23.59 4ygCP0Ro
中陰(ちゅういん)、中有(ちゅうう)
発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週に渡り法要を行っていた。
(古代インド文明の七進法により、七ごとなのである。)
輪廻の思想により、人の没後49日目に、
次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからである。
また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、
49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。
それが日本に伝わり、宗旨によって考え方は様々であるが、
人は死後、魂を清めて仏になる為に中陰の道を歩き、あの世を目指す。
その所々に審判の門があり、生前の罪が裁かれる。
罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。
それが下記の7日毎に行う法要である。また四週目と五週目の法要の間に、最初の月命日が来る。
193:神も仏も名無しさん
12/12/23 17:02:30.80 kkSGB+NC
>>192
あの~四十九日ではなくて、お盆の先祖供養の質問なのですが・・・
194:神も仏も名無しさん
12/12/23 17:13:36.18 kkSGB+NC
>罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。
重ねて質問させてください。四十九日と言うのは、輪廻転生の思想に基いて、遺族が読経することにより、
死者の魂がよりよい世界に生まれ変われる様にする行事ということと理解していいんですよね。
と言うことは、仏教は輪廻する世界では壊れない?魂を認めているということですよね。ヒンドゥー教とかと輪廻転生という意味では同じということでしょうか?
195:◇SyuumatuOzyaru
12/12/23 17:14:17.03 4ygCP0Ro
盂蘭盆会(うらぼんえ)
安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、
父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。
これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)
などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。
196:神も仏も名無しさん
12/12/23 17:25:37.27 4ygCP0Ro
我は、常住であり、
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。
この考えに対して
釈迦はこのような実我観念を批判し、
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。
これを色受想行識の五蘊について説き、
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。
197:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/23 18:15:08.39 mRCcc53A
>194
盆にご先祖様が帰ってくるのは神道。
日本仏教は神道との習合であるので盆供養をする。
本来、仏教では輪廻転生する個人主体は存在しないと説く。
輪廻とは、多様な再現性ある事象を指すのであり、盂蘭盆経は中国で作られたもの。
198:神も仏も名無しさん
12/12/23 19:12:42.27 kkSGB+NC
>>196>>197
>人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。
>日本仏教は神道との習合であるので盆供養をする。
191で質問しているのは、正にそこの確信についてでして、
>日本の仏教界では、この矛盾に対してどう説明しているのでしょうか?
ということです。
「我が五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在である」とするならば、お寺などでお骨の入ったお墓を拝む。
しかもお釈迦様の教えに最も忠実であるはずのお坊さんがそれを積極的に行うと言うのは矛盾する話です。
またそれらが、中国や神道の風習であると言うならば、純粋なお釈迦様の仏教を考え葬式関係を除いた場合
在家の者を重んじるという大乗仏教という立場では、何が残るのでしょうか?
なんというか、上手く言えませんが、奥歯に何かがはさっがった感じがしてすっきりしません。繰り返しますと
>日本の仏教界では、この矛盾に対してどう説明しているのでしょうか?
199:神も仏も名無しさん
12/12/23 20:08:47.36 2FUIiuoU
>>198
>どう説明
何も説明してない。
強いて言えば、黒を期待・予想する相手には黒と言い、白を予想する相手には白と言ってきた感じ。
200:神も仏も名無しさん
12/12/23 23:26:12.42 sj3CdLMC
>>198
釈迦仏教を釈迦仏教のまま受容している宗派は日本仏教にはありません(あえて挙げるならば上座のみ)。
釈迦仏教を様々な宗義というフィルターを通して解釈理解しています。
例えば、「お墓を拝む」とありますが、お墓を拝むというのは二種類の意味があります。
第一にお墓を拝む事。これは亡き人のためにお墓をきれいにするなどの行為であり、民族的な行為です。
第二に法要を執り行う事。僧侶や施主自身が功徳をつみ、またはそれを先祖に対して回向(まわしむける)することです。これは仏教的な行為です。
この第二の行為は釈迦仏教を忠実に受容しているわけではありませんが、大乗仏教としては重要視される行為です。
中国の影響として儒教から、日本の影響として祖先信仰があるとして、それらを省いたとしても、
解脱したいと思ったり、経典を読誦したり、念仏をしたり、護摩を焚いたり、座禅をしたり、経典の名前を唱えたり、
礼拝をしたり、布施をしたり、戒律を守ったり、瞑想をしたり、人を助けようとしたり、
すべてを余すこと無く行うものはいませんが一部づつでも大乗的な行為が行われています。
たしかに現在の日本仏教を見て、釈迦仏教を学べば矛盾のように感じることもあるかもしれません、
けれども大乗仏教を見て、日本仏教を見ればあまり矛盾を感じることはないようにも思えます。
また、説明は簡略に徹した為にわかりにくい点があるかもしれませんが、追って質問していただければ次いで回答させて頂きます。
201:神も仏も名無しさん
12/12/24 00:11:17.14 fJcJ/pyI
>>200
分かりやすい回答ありがとうございます。一応納得できました。
202:神も仏も名無しさん
12/12/24 00:24:32.47 K7EqZooq
仏教の救世主は、お釈迦様の再来なのですか?
203:神も仏も名無しさん
12/12/24 02:18:07.33 CkW34zqQ
>>202
仏教の救世主はお釈迦様と考えるのが一般的な見解でしょう。
また救世主の再来と考えるならば仏陀がまたこの世界に降り立つ事でしょう。
質問者は救世主イエスキリストを想像して、仏教における救世主を想定したのでしょうが、
お釈迦様は自力救済の救世主で、イエスキリストは他力救済の救世主という毛色の違う救世主だから混乱が生じた者と考えられます。
この救済という概念は曲者で様々な解釈が成り立ってしまうのですが、
仮にR.オットーの解釈に基づくならば救済には自力救済と他力救済の二種類があります。
この自力救済というものは示された方法に従って自分の行動によって救済が行われることです。
このような自力救済の方法の開示者を救世主とするならば釈尊が救世主といえるでしょう。
次に他力救済というものは、他人の能力によって自分が何もせずとも救われる事です。
このような他力救済を行った者を救世主とするならばイエスキリストや阿弥陀仏が救世主といえるでしょう。
また、説明は簡略に徹した為にわかりにくい点があるかもしれませんが、追って質問していただければ次いで回答させて頂きます。
204:神も仏も名無しさん
12/12/24 02:43:34.97 K7EqZooq
>>203
ご回答、ありがとうございます。救済にも、自力と他力というものがあるのですね。
阿弥陀仏という他力救世主という存在がいたというのは知りませんでした。
「救世主の再来と考えるならば仏陀がまたこの世界に降り立つ事でしょう」
ということですが、自力救世主ということでしょうか?
205:神も仏も名無しさん
12/12/24 03:43:52.17 CkW34zqQ
>>204
新しく誕生した仏陀が
もし、お釈迦様のような法を示される仏陀として現世に現れたとしたならば、
それは救世主の再来(一度目は釈尊が来ているから)であり、自力救世主と捉えることができます。
もし、阿弥陀仏のような法を示される仏陀として現世に現れたとしたならば、
それは他力救世主と捉えることができます。
一般的にはゴータマ・シッダールタこと釈尊の次の仏は弥勒菩薩が釈尊入滅後5億7600万年後に現れるとなっています。
この弥勒菩薩の特性は大乗経典の『仏説観弥勒菩薩上生兜率天経』などによれば仏陀と同様の救済法を述べられているので、
その説に則るならば次に登場する仏は自力救済主と考えられます。
しかしながら、あくまでそういう話があるというもので、別の世界からの因縁によって生まれてくる仏なども想定されえますので、
一概にはこの可能性しかないとは言い難いです。
206:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/24 09:25:58.10 AX1qugWs
救世主などは仏教とは無関係。
いわゆる「救世主」であるキリスト教教祖とされる人物は、
何ら「救世」などせずに処刑されたと言われるだけのカルト教祖。
そもそも実在したかすら疑わしい。
(^。^)まぁ、強いて上げるなら「転輪王」が近い概念か。
207:神も仏も名無しさん
12/12/24 09:58:21.96 TvTQphR8
//kotobank.jp/word/%E8%BB%A2%E8%BC%AA%E7%8E%8B
【転輪聖王】より
… 古代インドの伝記上の理想的帝王のこと
単に転輪王または輪王ともいう
この王が世に現れるときには天の車輪が出現し
王はその先導のもとに武力を用いずに全世界を平定するとされるところから
この名がある …
208:神も仏も名無しさん
12/12/24 10:51:25.60 TvTQphR8
>>189 ID:GrrJueJm さんへ
> あ、すいません、やっぱり宗教と精神疾患3のスレに返信します
書き込みが出来なくなった、みたいなので続きはこちらへ
(机先生が、これを見つける事が出来るか?どうか?は、わからないけども…)
卍 仏教以外でもよしっ! 卍
//uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1356313199/l50
規制中の方でも書き込みが出来るので御自由に御使い下さいませ
209:神も仏も名無しさん
12/12/26 14:39:58.46 UOuKsQJP
ここの隔離スレッドの<仏教議論スレッド 52> を誰か建ててあげてください。
魑魅魍魎連中がここで騒ぐ虞があります。
210:神も仏も名無しさん
12/12/26 14:45:22.95 oKSMmuCM
ほらよ
仏教議論スレッド52
スレリンク(psy板)
211:神も仏も名無しさん
12/12/29 22:44:48.08 nIr1WCWT
煩悩を完全に滅却すると、どういう状態になるのですか?
212:神も仏も名無しさん
12/12/30 10:05:33.94 6GzmpqIb
> 煩悩を完全に滅却すると、どういう状態になるのですか?
(八正道)八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
諸の禅定の中で、滅尽定(想受滅)を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する
URLリンク(www.ne.jp)
初期仏教の解脱・悟り=想受滅(滅尽定)
四禅を超えて想受滅(滅尽定)
213:神も仏も名無しさん
12/12/30 17:19:42.64 Uoosq8M4
無我なら、涅槃に至る主体は誰ですか
214:神も仏も名無しさん
12/12/30 19:03:14.81 6GzmpqIb
無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を、世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした
末那識(まなしき)
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を体感会得して
とりあえず 「 心(識)は存在する 」 と仮設して
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
215:神も仏も名無しさん
12/12/30 19:54:18.68 A7duXd9l
>>213
主体があるというのが妄想です
216:神も仏も名無しさん
12/12/30 23:13:26.95 fRNgeQ57
>>211
>煩悩を完全に滅却すると、どういう状態になるのですか?
生存不能です。
217:神も仏も名無しさん
12/12/31 00:52:15.98 TJEzOpvE
>>215
自己というものがこれだと確として言えるものではなく、
水そのものではなくそれを媒体とする波のように、この世での因果関係の連鎖の現象であるとして、
涅槃に至るとは、波が止むことですか
218:神も仏も名無しさん
12/12/31 00:54:41.54 Cw6jBeaH
>>211
煩悩が完全に滅却したならば、すべての執着から離れることができ、すべての物事をありのままに見ることが可能となります。
そして、この物事をありのままに見ることが可能となれば輪廻というものから脱却することができます。
>>213
無我ですので涅槃に至る主体というものは存在しません。
様々な要素が重なりあって状態として在る者が涅槃に至ります。
しかし、後代においては「涅槃に至る主体がアートマンではないが存在する。」と主張する様々な教理が成立します。
ですので、一概に上記の考えが定説というわけではないのでご了承ください。
219:神も仏も名無しさん
12/12/31 11:00:13.07 WYfIYFBP
>>218
>煩悩が完全に滅却したならば、すべての執着から離れることができ、すべての物事をありのままに見ることが可能となります。
カメラには煩悩はないでしょうが、カメラの映像はありのままですか?
煩悩があっても大して変りませんねw
写真の藤原紀香はやっぱり現物でも藤原紀香でした。
僕には煩悩がないのですか?
とてもエッチしたいと思いましたが・・
220:神も仏も名無しさん
12/12/31 13:03:52.69 JiioasK2
印刷された画像を藤原紀香と認識することが「ありのまま」かどうか。
221:神も仏も名無しさん
12/12/31 13:11:18.86 BsrI0IrI
>>219
その場合、「あるがまま」というのは見たまま実体視してるという意味じゃなくて
見えるものが幻のようなもので、妄想の現れだって捉えられるという意味ね
だからノリカがエロい肉体でヤりたいと思うなら、それは「あるがまま」に見るのではなく、
妄想で実体視して、やがてその欲望によってやれなければ、やれない苦で苦しみ、
やったら、やった悪業や、思った快楽が得られない苦、得てもそれが続かない苦などに苦しむことになる、と仏教は説きますね
222:神も仏も名無しさん
12/12/31 16:39:48.87 Cw6jBeaH
>>219
まず、その「とてもエッチしたい」と思っているのが煩悩です。
煩悩を滅却すると簡単に言いますと、そういった写真を見ても「乳がでかい」「かわいい」「エッチしたい」という思いに惑わされなくなる事です。
だから、見方を変えればカメラは何を撮ったとしてもそれをそのまま保存し、価値判断をくだしません。
写真を撮ったからといってカメラがエッチしたいと思うことはありません。
ですから、カメラは煩悩が無いとも言えることができるでしょう。
しかしながら、仏教では無機物に自我意識はあるのか、無機物は悟ることができるのか。
といった問題は中期大乗以降に登場した悉皆有仏性という思想や認識論と共に取り扱われることになりますが、
結局、一部大乗に認められるのみで、伝統的には、あまり認められることがありません。
223:神も仏も名無しさん
13/01/01 02:28:28.56 OxD4WBhj
>>222
さすがです、いや、マジで。
224:神も仏も名無しさん
13/01/01 03:29:02.60 UU0PC5JV
>>222
分別しないカメラと仏性か。
煩悩や物事の価値判断も、実は自分という立場という前定があってのものなんだな。
荘子にもそんな話があったよ。どんなに美人だとしても、前に立てば鳥は飛び立つし魚は逃げる。
当たり前に、美人というが、その実人間男性という立場から見たものにすぎない的な内容が。
225:神も仏も名無しさん
13/01/01 10:16:24.95 +CrM04/2
魚や鳥百万匹に嫌われても美女1人に好かれるならいいやw
226:神も仏も名無しさん
13/01/01 13:08:49.58 r9rOO55d
煩悩だらけかい。
227:神も仏も名無しさん
13/01/02 13:36:02.31 y3be28pa
>>220
それは素粒子の集合であり
電子顕微鏡でみればそれは原子の集合であり
肉眼でとらえればそれは画像であり
望遠鏡どとらえればそれはただの紙切れであり
永遠でとらえればそれは空である
縮尺によって捕らえ方もさまざまであり
あるがままとはそれらのすべてを観ることなのかもしれない
228:神も仏も名無しさん
13/01/03 03:16:28.64 iio9QPzm
素粒子って、実在するものなの?仏教的見解は?
229:神も仏も名無しさん
13/01/03 04:22:26.49 /qSDdwW2
素粒子の存在は現代科学が既に有るものとして解釈しています。
また、仏教の思想内においても素粒子のような「極微」という概念が存在します。
極微というのは物質を分割していって分割しきれなくなった最小の物質の構成要素の事を指します。
つまり仏教では物質は極微の集合体であると考えます。
この極微には地水火風の四種の属性をもつパターンが存在し、これらの比率によって石や砂や水や肉の違いがでると考えています。
しかし極微の大きさは現在の素粒子論と比べると些か大きいものとして想定しています。
大きさを例示してみますと、(今回は倶舎論世間品の説を使用)
指先から一つ目の節までの七分の一が大麦の粒で、大麦の粒の七分の一が虱で、
虱の七分の一が虱のタマゴで、虱のタマゴの七分の一が牛の毛で、
牛の毛の七分の一が羊の毛で、羊の毛の七分の一が兎の毛で、
兎の毛の七分の一が水の塵で、水の塵の七分の一が金の塵で、
金の塵の七分の一が微で、微の七分の一が極微と考えます。
つまり極微の大きさは指の節の”二億八千二百四十七万五千二百四十九”分の一と考えることができます。
しかしながら、この概念の成立は釈尊在世の頃ではなく、
仏教のスコラ化が進む部派時代に外教(インド哲学諸部派)との対論の必要性から
外教の説を解釈しつつ利用して導入されたと考えられています。
また、釈尊在世の時代においては素朴な地水火風の四種の構成要素から物質はなると考えられていました。
しかしこちらは、釈尊の独自説ではなく、五蘊と同じく当時のインドの一般常識の一つであったとされています。
煩瑣になりましたが、仏教での素粒子論はこんな感じです。
また、分からない点がありましたら質問に応じます。
230:神も仏も名無しさん
13/01/03 05:27:03.71 iio9QPzm
ていねいな、解説ありがとうございます。
231:神も仏も名無しさん
13/01/03 09:09:49.77 aIpfKB9M
>>229 地水火風の四大は物質の動き・性質を四種類に表しているのであって、
粒子の種類などではありませんし、素粒子が発見されたとしても
地水火風の否定にはなりませんから、注意が必要ですね。
地(変化を妨げるはたらき、重さ・堅さ)、火(変化を促進するはたらき、熱さ、痛み)、
水(収縮・吸着)、風(膨張・拡散)は、
私達が物質から具体的に感じる刺激の分類です。
232:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/03 10:19:05.88 MR7JcYh4
あ
233:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/03 10:24:37.45 MR7JcYh4
四大などは、仏教の本流では無い。
あくまで当時のパラダイムを整合化しただけであり、有無とは別の話。
本来は無記。
時空と同じく、原子などを、修行者は問題にすべきではないという立場。
234:神も仏も名無しさん
13/01/03 10:40:05.49 aIpfKB9M
眼に見えない原子などではなく、
現に色声香味触から感じ取られる現象である地水火風が
仏道修行者にとっての物質ですからね。
235:神も仏も名無しさん
13/01/03 10:47:41.20 aIpfKB9M
鼻で息を吸うときに鼻の穴の気圧が下がって鼻先が収縮する。
これは水の要素。
逆に、吐くときに鼻先が膨らむのは風の要素。
そのような膨らみ縮みの感覚は、触覚の神経に入る微細な痛み(火の要素)を通して感じられている。
また、膨らんだり縮んだりの目まぐるしい変化(火の要素)にさらされながらも、
鼻が壊れずに鼻の形を維持している事は地の要素。
鼻が伸ばされてもビビ割れずに弾力性があるのは水の要素。
鼻を指で押さえつけた後に指に鼻が反発してくるのは風の要素。
236:神も仏も名無しさん
13/01/03 21:29:52.10 umNDQ1hK
>>228
仮設で、実在しないというのが一般的で本流だけど、
有部のように実在と解釈する部派仏教の流れがいくつかあります
237:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/04 04:09:52.49 Br4gMCvL
>>236
そうではなくて(素粒子などの実在性という意味ではなくて)、
仏教の説く法則、ダールマの“普遍的な絶対性(永遠不滅の法)”
という意味での実在(これだけが実在)なのでは?
短絡的、便宜的な言い方を用いるならば、
その法則の(存在としての)実在性を説いているのが有部かと。
----存在として位置づけるところに誤りがあるけれども----
238:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/04 04:11:03.41 Br4gMCvL
皆さま、
新年明けましておめでとうございます m(__)m
数日、家を空けて、
成田山(別院)の初護摩/初詣に行って来ました。
暫くの留守中に随分とスレが伸びていましたね。
年明けの新参も増えたようで何よりです。
私も含め、どうか皆様にとって実り多き年となりますように!
>>260 >>前スレ541
ありがとうございます ヽ(´ー`)ノ
239:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/05 22:47:42.79 dzJpq1sR
因みに、この宝珠云々という人は神智学とかいうマイナーオカルトの信者さん。
仏教スレ荒らしの古参である。
240:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/06 08:48:54.72 oU7UKTuZ
“荒し”のつもりは毛頭ありません
ただ、分ったつもりになっている仮面仏教徒たちや
伝統保持者らに対して基本的な疑義を投じているだけです。
それに対して、彼らは如何に整合性ある理を答弁できるのか?
----ということ。
(ちなみに>>238は、
議論スレ宛のものが代行者のミスでこちら側に投稿された誤爆です)
241:神も仏も名無しさん
13/01/06 10:51:31.47 BjKeD/X9
真実とは無相
全てが一つであるが
一つは全てではない
242:神も仏も名無しさん
13/01/06 11:05:09.99 BjKeD/X9
>>241
【補足】
全てが一つのものを現すが
万象、万物の一つ一つを分けた(分類、範疇にとどまる)場合
それらは一つのものそのものを現してはいない
243:神も仏も名無しさん
13/01/06 11:40:00.11 BjKeD/X9
●胎児のうちには何らかの分別はないと仮定(悪魔くん等は除く)
受精~出産を経て、様々な環境により表情や言葉を、
その先に善悪や性的なこと等々を分別するようになる
この分別を自我の目覚めとするならば、分別を得る以前の自分はどこにいったのか
自我以前の自分にはもはや自と他の明確な区別はない
ただ、なんらかのものを感じるだけであろう
故に分別とは後天的なものであり、それらは事実としてあるが真実とは異なっている
事実と真実は何が違うのか
何事かを分割して思考する限り、それらは事実の探求であっても
真実には至らないのではないか
244:神も仏も名無しさん
13/01/06 12:01:58.59 etKPY6zl
すいません。ここは質問スレなので、できれば議論スレでお願いします
245:神も仏も名無しさん
13/01/06 12:33:32.32 BjKeD/X9
>>244
あばばばb......誤爆でした。
romってきます。
246:176
13/01/06 16:32:14.76 fj8tQlWX
煩悩の数が108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつからなのでしょうか?
婆沙論の諸本や雑心論などでは108を数える事が確認できたのですが、
それ以前のニカーヤや阿含において煩悩数を108と規定することは確認されるのでしょうか?
247:神も仏も名無しさん
13/01/06 17:54:42.76 Wj31YncY
説一切有部
倶舎論では、色法11・心法1・心所法46・不相応行14・無為3の75種(五位七十五法)と成す
有為法(72)
色法(11) - 眼・耳・鼻・舌・身 【五根】、色・声・香・味・触 【五境】、無表
心法(1) 心 (識・意)
心所法(46)
大地法(10) 受・想・思・欲・触・慧・念・作意・勝解・三摩地
大善地法(10) 信・勤・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・軽安・不放逸
大煩悩地法(6) 無明・放逸・懈怠・不信・惛沈・掉挙
大不善地法(2) 無慚・無愧
小煩悩地法(10) 忿・覆・慳・嫉・悩・害・諂・誑・憍・恨
不定地法(8) 悪作・眠・尋・伺・貪・瞋・慢・疑
不相応行法(14) 得・非得・同分・無想・無想定・滅尽定・命根・生・住・異・滅・名身・句身・文身
無為法(3) 虚空・択滅・非択滅
248:神も仏も名無しさん
13/01/06 18:20:38.63 vHq3v5fA
>>247
だから何? 何が言いたいレスなの?
質問スレで自己満レスは醜悪だぞw
249:神も仏も名無しさん
13/01/06 18:39:43.51 Wj31YncY
> 婆沙論の諸本や雑心論などでは108を数える事が確認できたのですが
> それ以前のニカーヤや阿含において煩悩数を108と規定することは確認されるのでしょうか?
説一切有部では、煩悩を分析し
知的な迷い(見惑)と
情意的な迷い(思惑または修惑)とに分け
また貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とした
さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える
250:神も仏も名無しさん
13/01/07 01:38:35.94 Vcz381z9
>>248
大本を眺めるという意味では極めて簡潔で丁寧な解説だと思います。
251:神も仏も名無しさん
13/01/07 01:51:07.29 8VlqY26y
>>250
ハァ?(゚д゚)
>>246に連なってるレスだよな?
どこが246向けになってるんだ?(つーか、>>247程度は既に把握済みなんじゃねーの?)
その上で、
>108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつから
>それ以前のニカーヤや阿含において ・・・・・・ 確認されるのでしょうか?
と聞いてんだろ?
247や249が、
>108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつから
>それ以前のニカーヤや阿含において ・・・・・・ 確認されるのでしょうか?
に対して、どういう参考になるんだ?
252:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:01:17.13 Vcz381z9
「それ以前の…」
●因果関係
説一切有部-前2世紀頃
↓
十住毘婆沙論-5世紀頃、原典不明
阿毘達磨倶舎論-説一切有部をまとめて作ったよ!
婆沙論の諸本や雑心論以前の規定=説一切有部
ってことでは?
253:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:30:41.14 OuKYGf6R
246の質問の回答は持ちあわせてはいないんだけど
>>252
『十住毘婆沙論』は略称で『婆沙論』にはならないんじゃない?
『雑心論』こと『雑阿毘曇心論』は300年頃じゃない?
『婆沙論』こと『大毘婆沙論』は200年頃じゃない?
『倶舎論』こと『阿毘逹磨倶舎論』は450年頃じゃない?
以前の事を聞いているのに以降の事を教えても意味が無いんじゃない?
知らないんだったらレスしないほうがいいんじゃない?
254:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:33:42.55 Vcz381z9
>>253
説一切有部は紀元前ですぞ…
255:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:40:17.33 Vcz381z9
こんな時間まで起きてても、いいことないお。
難しいことはじっくり考えないと危ないお。
布団にはいって心を癒すほうが重要だお。
_,,..,,,,_
/ ,' 3 /ヽ-、__
<⌒/ ヽ
/<_/____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
256:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:40:50.55 8VlqY26y
つーか、そこまで(>>252-254まで)の説明があって初めて成立するレスなんだなw
>>247>>249は。
246単独では何が言いたいのか不明なことに変わりない。
257:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:41:59.52 Vcz381z9
>>256
すまんおれもちょっとそれは思ったかもしれんw
258:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:49:02.29 Vcz381z9
肝心の176氏がまだ返レスしてない内に
いったい何をやっていたんだ…
しかし、釈尊入滅から200~300年以降でえらい変わり様だわ
上座部/大乗の分派の影響すげぇ
大乗における「大智度論(摩訶般若波羅蜜論?)」のナガールジュナ(後200年頃)といい
259:神も仏も名無しさん
13/01/08 19:38:01.08 bwBkSj1m
戒名の値段ですが宗派によって、どのくらいの違いがあるんでしょうか?
また、払える金によって戒名の格が変わると言うことは全ての宗派でやってるのでしょうか?
金額でお葬式の格が変わると言うのは仕方ないとしても、戒名の格が変わると言うのは、
ちょっと納得できません。それって悪い人でも金によって死後の扱いが変わると言うことなんでしょう。
変な宗教がのさばる原因の一つになりませんか?
260:神も仏も名無しさん
13/01/08 19:44:43.59 lgO08hEb
戒名料の相場
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
261:176
13/01/09 23:34:16.67 Kundem5y
複数のレスありがとうございます
247以降の流れなのですが、質問に回答して頂いたのはありがたかったのですが
すみませんが、自分が知りたかったのは阿含やニカーヤで、煩悩の数をどのように想定しているかが知りたかったんです
倶舎論以降の体系では98随眠と10纏をあわせて108として解釈します
そして、倶舎論の五位七十五法なのですが、これは心の働きの分類であって、
煩悩じゃなくて、煩悩によって惑わされた心の動きが大煩悩と不善と小煩悩に分類されているだけです
せっかくレスをくれたのにすみません
262:神も仏も名無しさん
13/01/09 23:45:10.51 Kundem5y
質問の仕方が不明瞭と指摘されたので、もう一度詳細に質問させてもらいます
ニカーヤと阿含において煩悩を108とするという記述はあるのでしょうか?
煩悩は日本では108だと言われており、その理由を調べたら、様々なとんでも説もあったのですが、
私が調べた限りどうやら経論に求める事ができそうだと判断して、経典や論書を当たりました
一番古い、一番最初に言われたのが何であるのか求めたのですが、
有部の論書の倶舎論の煩悩の章に98随眠と10纏をあわせて108とすると解釈していました、
そこに経典のソースは見つけられませんでした、
また有部の論書の阿毘曇心論や雑阿毘曇心論や大毘婆沙論や大毘婆沙論の異本にも108とする解釈が書かれていました
けれどもそれより古い六速論と呼ばれる古い論書には見当たりませんでした(探し方がわるかったのかもしれません)
大毘婆沙論は経典の解釈を色々と集めたものであると聞きます、
ですので大毘婆沙論に書かれるきっかけになった経典があると思うんです
そのような経典があるのかどうか知りたくて質問させていただきました
よろしくおねがいします
263:176
13/01/09 23:47:32.69 Kundem5y
大毘婆沙論は二世紀の成立だそうです
ですので、それより古い成立であるとされる論書でも助かります
探しているのは一番古くに108が煩悩の数っていわれるようになったきっかけです
264:神も仏も名無しさん
13/01/13 00:20:22.84 WNDFLudb
マイナーな宗派だとは思いますが山崎弁栄上人の光明主義について教えてください。
特に世界観や一般的な日本仏教・従来のインドの仏教との違いについてだとありがたいです。
265:神も仏も名無しさん
13/01/13 03:49:36.51 8MHM+xFy
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では救われない、というのが
一般的な仏教的見解ですか?もし、そうだとすれば理由も教えて下さい。
266:神も仏も名無しさん
13/01/13 07:52:20.88 kb4KUSrE
>>265 「救われる」の意味がわかりせん。
仏教を知らなくても、たまたま四諦八正道に合致する生き方をしていれば、悩み苦しみは減るでしょう。
「救われる」が、阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生させてもらうことなら、
阿弥陀仏に対して「南無阿弥陀仏」と救いをお願いするのが普通です。
往生を望んでいない者(他宗教の人)を極楽に強制連行はしないでさょう。
ただし、その人がよほど徳の高い人の場合は、
阿弥陀仏に救われなくても自力で浄土や天界に生まれ変わる可能性があります。
267:神も仏も名無しさん
13/01/13 09:33:47.87 VfOjtD2e
>>265
救われる、の意味によります。輪廻から脱出する、
という意味でなら、仏教徒以外が「救われる」ことは絶対にありません。
(セム系一神教は主宰神信仰の一バージョンということになるでしょうが、
これは「来世をもたらす」(輪廻から出られない)結果をつくる思想とされます。
仏教徒も涅槃に至らない限りは輪廻を脱出できません。
(無理な人にはせめて善行して天に生まれることが薦められます)
仏を侮辱したりとかを明確に行っていないのなら、
善行を心がけている以上、天界などの善趣(良い来世)が得られる可能性はあるでしょうが、
それもまた六道輪廻の一部に過ぎないので、やがて酷い来世に
ぶつかったり、そこからまたマシな来世に行ったり、というサイクルを
永遠に繰り返すことになります。
268:神も仏も名無しさん
13/01/13 13:45:36.33 8MHM+xFy
>>266>>267
どうも、ありがとうございます。
ところで、輪廻から脱出するよう努力する事と、
メシアを待望する事の間に矛盾はあるとお考えですか?
メシア登場と言っても、最後の審判とは関係無い、
世界を今より、かなり良くしてくれる存在くらいに
考えてるんです。でも、一応、神とはちゃんと契約している
存在としてですが。
269:神も仏も名無しさん
13/01/13 15:05:54.79 JkKy8ux5
>>268 ID:8MHM+xFy さんへ
> 輪廻から脱出するよう努力する事と、メシアを待望する事の間に矛盾はあるとお考えですか?
> メシア登場と言っても、最後の審判とは関係無い、世界を今より、かなり良くしてくれる存在くらいに考えてるんです。
> でも、一応、神とはちゃんと契約している存在としてですが。
268 ID:8MHM+xFy さんが
何処かの神と契約していて、そして
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと
輪廻から脱出するよう努力する事が
矛盾するのか?
と言う質問ですか?
_ _ _
『 ユダヤ、キリスト、何処かの神との契約 』 と言う概念を捨ててから
仏教の南伝、北伝、チベット伝とかを勉強した方が良いかもしれません
270:神も仏も名無しさん
13/01/13 15:33:01.72 JkKy8ux5
例えば
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと言う存在があって
そのメシアと言う存在に執着しようとする、心の働きがある
(これは自分自身に、そのような 「 心の働きがある 」 と言う意味です)
- これに対して -
八正道を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する
まず自分自身の自我を滅する事から始めて
そして、最終的には輪廻から解脱する
と言う事になります
_ _ _
矛盾があるのか?と言う質問に対しては
「 何と答えて良いの、かわからない 」 と言う事になります
271:神も仏も名無しさん
13/01/13 16:09:50.93 JkKy8ux5
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと
↓
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアを待望する事と
輪廻から脱出するよう努力する事の間に
矛盾はあるのか?
_ _ _
訂正して、お詫び申し上げます
礼拝帰依/ブッダン サラナン ガッチャーミ
屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
272:神も仏も名無しさん
13/01/13 23:07:37.07 kb4KUSrE
生への執着を超えないと輪廻から解脱できません。
メシアに世界を良くして欲しいというのは、この世界に生きていたいからでしょう?
一方、この世界を捨て去るのが輪廻からの解脱です。
この世界は、たとえメシアが現れたとしても苦しみの連続です。
神様でさえ、次から次へとやってくる苦しみに操られて生きているのです。