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素粒子の存在は現代科学が既に有るものとして解釈しています。
また、仏教の思想内においても素粒子のような「極微」という概念が存在します。
極微というのは物質を分割していって分割しきれなくなった最小の物質の構成要素の事を指します。
つまり仏教では物質は極微の集合体であると考えます。
この極微には地水火風の四種の属性をもつパターンが存在し、これらの比率によって石や砂や水や肉の違いがでると考えています。
しかし極微の大きさは現在の素粒子論と比べると些か大きいものとして想定しています。
大きさを例示してみますと、(今回は倶舎論世間品の説を使用)
指先から一つ目の節までの七分の一が大麦の粒で、大麦の粒の七分の一が虱で、
虱の七分の一が虱のタマゴで、虱のタマゴの七分の一が牛の毛で、
牛の毛の七分の一が羊の毛で、羊の毛の七分の一が兎の毛で、
兎の毛の七分の一が水の塵で、水の塵の七分の一が金の塵で、
金の塵の七分の一が微で、微の七分の一が極微と考えます。
つまり極微の大きさは指の節の”二億八千二百四十七万五千二百四十九”分の一と考えることができます。
しかしながら、この概念の成立は釈尊在世の頃ではなく、
仏教のスコラ化が進む部派時代に外教(インド哲学諸部派)との対論の必要性から
外教の説を解釈しつつ利用して導入されたと考えられています。
また、釈尊在世の時代においては素朴な地水火風の四種の構成要素から物質はなると考えられていました。
しかしこちらは、釈尊の独自説ではなく、五蘊と同じく当時のインドの一般常識の一つであったとされています。
煩瑣になりましたが、仏教での素粒子論はこんな感じです。
また、分からない点がありましたら質問に応じます。