12/12/31 16:39:48.87 Cw6jBeaH
>>219
まず、その「とてもエッチしたい」と思っているのが煩悩です。
煩悩を滅却すると簡単に言いますと、そういった写真を見ても「乳がでかい」「かわいい」「エッチしたい」という思いに惑わされなくなる事です。
だから、見方を変えればカメラは何を撮ったとしてもそれをそのまま保存し、価値判断をくだしません。
写真を撮ったからといってカメラがエッチしたいと思うことはありません。
ですから、カメラは煩悩が無いとも言えることができるでしょう。
しかしながら、仏教では無機物に自我意識はあるのか、無機物は悟ることができるのか。
といった問題は中期大乗以降に登場した悉皆有仏性という思想や認識論と共に取り扱われることになりますが、
結局、一部大乗に認められるのみで、伝統的には、あまり認められることがありません。
223:神も仏も名無しさん
13/01/01 02:28:28.56 OxD4WBhj
>>222
さすがです、いや、マジで。
224:神も仏も名無しさん
13/01/01 03:29:02.60 UU0PC5JV
>>222
分別しないカメラと仏性か。
煩悩や物事の価値判断も、実は自分という立場という前定があってのものなんだな。
荘子にもそんな話があったよ。どんなに美人だとしても、前に立てば鳥は飛び立つし魚は逃げる。
当たり前に、美人というが、その実人間男性という立場から見たものにすぎない的な内容が。
225:神も仏も名無しさん
13/01/01 10:16:24.95 +CrM04/2
魚や鳥百万匹に嫌われても美女1人に好かれるならいいやw
226:神も仏も名無しさん
13/01/01 13:08:49.58 r9rOO55d
煩悩だらけかい。
227:神も仏も名無しさん
13/01/02 13:36:02.31 y3be28pa
>>220
それは素粒子の集合であり
電子顕微鏡でみればそれは原子の集合であり
肉眼でとらえればそれは画像であり
望遠鏡どとらえればそれはただの紙切れであり
永遠でとらえればそれは空である
縮尺によって捕らえ方もさまざまであり
あるがままとはそれらのすべてを観ることなのかもしれない
228:神も仏も名無しさん
13/01/03 03:16:28.64 iio9QPzm
素粒子って、実在するものなの?仏教的見解は?
229:神も仏も名無しさん
13/01/03 04:22:26.49 /qSDdwW2
素粒子の存在は現代科学が既に有るものとして解釈しています。
また、仏教の思想内においても素粒子のような「極微」という概念が存在します。
極微というのは物質を分割していって分割しきれなくなった最小の物質の構成要素の事を指します。
つまり仏教では物質は極微の集合体であると考えます。
この極微には地水火風の四種の属性をもつパターンが存在し、これらの比率によって石や砂や水や肉の違いがでると考えています。
しかし極微の大きさは現在の素粒子論と比べると些か大きいものとして想定しています。
大きさを例示してみますと、(今回は倶舎論世間品の説を使用)
指先から一つ目の節までの七分の一が大麦の粒で、大麦の粒の七分の一が虱で、
虱の七分の一が虱のタマゴで、虱のタマゴの七分の一が牛の毛で、
牛の毛の七分の一が羊の毛で、羊の毛の七分の一が兎の毛で、
兎の毛の七分の一が水の塵で、水の塵の七分の一が金の塵で、
金の塵の七分の一が微で、微の七分の一が極微と考えます。
つまり極微の大きさは指の節の”二億八千二百四十七万五千二百四十九”分の一と考えることができます。
しかしながら、この概念の成立は釈尊在世の頃ではなく、
仏教のスコラ化が進む部派時代に外教(インド哲学諸部派)との対論の必要性から
外教の説を解釈しつつ利用して導入されたと考えられています。
また、釈尊在世の時代においては素朴な地水火風の四種の構成要素から物質はなると考えられていました。
しかしこちらは、釈尊の独自説ではなく、五蘊と同じく当時のインドの一般常識の一つであったとされています。
煩瑣になりましたが、仏教での素粒子論はこんな感じです。
また、分からない点がありましたら質問に応じます。
230:神も仏も名無しさん
13/01/03 05:27:03.71 iio9QPzm
ていねいな、解説ありがとうございます。
231:神も仏も名無しさん
13/01/03 09:09:49.77 aIpfKB9M
>>229 地水火風の四大は物質の動き・性質を四種類に表しているのであって、
粒子の種類などではありませんし、素粒子が発見されたとしても
地水火風の否定にはなりませんから、注意が必要ですね。
地(変化を妨げるはたらき、重さ・堅さ)、火(変化を促進するはたらき、熱さ、痛み)、
水(収縮・吸着)、風(膨張・拡散)は、
私達が物質から具体的に感じる刺激の分類です。
232:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/03 10:19:05.88 MR7JcYh4
あ
233:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/03 10:24:37.45 MR7JcYh4
四大などは、仏教の本流では無い。
あくまで当時のパラダイムを整合化しただけであり、有無とは別の話。
本来は無記。
時空と同じく、原子などを、修行者は問題にすべきではないという立場。
234:神も仏も名無しさん
13/01/03 10:40:05.49 aIpfKB9M
眼に見えない原子などではなく、
現に色声香味触から感じ取られる現象である地水火風が
仏道修行者にとっての物質ですからね。
235:神も仏も名無しさん
13/01/03 10:47:41.20 aIpfKB9M
鼻で息を吸うときに鼻の穴の気圧が下がって鼻先が収縮する。
これは水の要素。
逆に、吐くときに鼻先が膨らむのは風の要素。
そのような膨らみ縮みの感覚は、触覚の神経に入る微細な痛み(火の要素)を通して感じられている。
また、膨らんだり縮んだりの目まぐるしい変化(火の要素)にさらされながらも、
鼻が壊れずに鼻の形を維持している事は地の要素。
鼻が伸ばされてもビビ割れずに弾力性があるのは水の要素。
鼻を指で押さえつけた後に指に鼻が反発してくるのは風の要素。
236:神も仏も名無しさん
13/01/03 21:29:52.10 umNDQ1hK
>>228
仮設で、実在しないというのが一般的で本流だけど、
有部のように実在と解釈する部派仏教の流れがいくつかあります
237:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/04 04:09:52.49 Br4gMCvL
>>236
そうではなくて(素粒子などの実在性という意味ではなくて)、
仏教の説く法則、ダールマの“普遍的な絶対性(永遠不滅の法)”
という意味での実在(これだけが実在)なのでは?
短絡的、便宜的な言い方を用いるならば、
その法則の(存在としての)実在性を説いているのが有部かと。
----存在として位置づけるところに誤りがあるけれども----
238:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/04 04:11:03.41 Br4gMCvL
皆さま、
新年明けましておめでとうございます m(__)m
数日、家を空けて、
成田山(別院)の初護摩/初詣に行って来ました。
暫くの留守中に随分とスレが伸びていましたね。
年明けの新参も増えたようで何よりです。
私も含め、どうか皆様にとって実り多き年となりますように!
>>260 >>前スレ541
ありがとうございます ヽ(´ー`)ノ
239:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/05 22:47:42.79 dzJpq1sR
因みに、この宝珠云々という人は神智学とかいうマイナーオカルトの信者さん。
仏教スレ荒らしの古参である。
240:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/06 08:48:54.72 oU7UKTuZ
“荒し”のつもりは毛頭ありません
ただ、分ったつもりになっている仮面仏教徒たちや
伝統保持者らに対して基本的な疑義を投じているだけです。
それに対して、彼らは如何に整合性ある理を答弁できるのか?
----ということ。
(ちなみに>>238は、
議論スレ宛のものが代行者のミスでこちら側に投稿された誤爆です)
241:神も仏も名無しさん
13/01/06 10:51:31.47 BjKeD/X9
真実とは無相
全てが一つであるが
一つは全てではない
242:神も仏も名無しさん
13/01/06 11:05:09.99 BjKeD/X9
>>241
【補足】
全てが一つのものを現すが
万象、万物の一つ一つを分けた(分類、範疇にとどまる)場合
それらは一つのものそのものを現してはいない
243:神も仏も名無しさん
13/01/06 11:40:00.11 BjKeD/X9
●胎児のうちには何らかの分別はないと仮定(悪魔くん等は除く)
受精~出産を経て、様々な環境により表情や言葉を、
その先に善悪や性的なこと等々を分別するようになる
この分別を自我の目覚めとするならば、分別を得る以前の自分はどこにいったのか
自我以前の自分にはもはや自と他の明確な区別はない
ただ、なんらかのものを感じるだけであろう
故に分別とは後天的なものであり、それらは事実としてあるが真実とは異なっている
事実と真実は何が違うのか
何事かを分割して思考する限り、それらは事実の探求であっても
真実には至らないのではないか
244:神も仏も名無しさん
13/01/06 12:01:58.59 etKPY6zl
すいません。ここは質問スレなので、できれば議論スレでお願いします
245:神も仏も名無しさん
13/01/06 12:33:32.32 BjKeD/X9
>>244
あばばばb......誤爆でした。
romってきます。
246:176
13/01/06 16:32:14.76 fj8tQlWX
煩悩の数が108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつからなのでしょうか?
婆沙論の諸本や雑心論などでは108を数える事が確認できたのですが、
それ以前のニカーヤや阿含において煩悩数を108と規定することは確認されるのでしょうか?
247:神も仏も名無しさん
13/01/06 17:54:42.76 Wj31YncY
説一切有部
倶舎論では、色法11・心法1・心所法46・不相応行14・無為3の75種(五位七十五法)と成す
有為法(72)
色法(11) - 眼・耳・鼻・舌・身 【五根】、色・声・香・味・触 【五境】、無表
心法(1) 心 (識・意)
心所法(46)
大地法(10) 受・想・思・欲・触・慧・念・作意・勝解・三摩地
大善地法(10) 信・勤・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・軽安・不放逸
大煩悩地法(6) 無明・放逸・懈怠・不信・惛沈・掉挙
大不善地法(2) 無慚・無愧
小煩悩地法(10) 忿・覆・慳・嫉・悩・害・諂・誑・憍・恨
不定地法(8) 悪作・眠・尋・伺・貪・瞋・慢・疑
不相応行法(14) 得・非得・同分・無想・無想定・滅尽定・命根・生・住・異・滅・名身・句身・文身
無為法(3) 虚空・択滅・非択滅
248:神も仏も名無しさん
13/01/06 18:20:38.63 vHq3v5fA
>>247
だから何? 何が言いたいレスなの?
質問スレで自己満レスは醜悪だぞw
249:神も仏も名無しさん
13/01/06 18:39:43.51 Wj31YncY
> 婆沙論の諸本や雑心論などでは108を数える事が確認できたのですが
> それ以前のニカーヤや阿含において煩悩数を108と規定することは確認されるのでしょうか?
説一切有部では、煩悩を分析し
知的な迷い(見惑)と
情意的な迷い(思惑または修惑)とに分け
また貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とした
さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える
250:神も仏も名無しさん
13/01/07 01:38:35.94 Vcz381z9
>>248
大本を眺めるという意味では極めて簡潔で丁寧な解説だと思います。
251:神も仏も名無しさん
13/01/07 01:51:07.29 8VlqY26y
>>250
ハァ?(゚д゚)
>>246に連なってるレスだよな?
どこが246向けになってるんだ?(つーか、>>247程度は既に把握済みなんじゃねーの?)
その上で、
>108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつから
>それ以前のニカーヤや阿含において ・・・・・・ 確認されるのでしょうか?
と聞いてんだろ?
247や249が、
>108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつから
>それ以前のニカーヤや阿含において ・・・・・・ 確認されるのでしょうか?
に対して、どういう参考になるんだ?
252:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:01:17.13 Vcz381z9
「それ以前の…」
●因果関係
説一切有部-前2世紀頃
↓
十住毘婆沙論-5世紀頃、原典不明
阿毘達磨倶舎論-説一切有部をまとめて作ったよ!
婆沙論の諸本や雑心論以前の規定=説一切有部
ってことでは?
253:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:30:41.14 OuKYGf6R
246の質問の回答は持ちあわせてはいないんだけど
>>252
『十住毘婆沙論』は略称で『婆沙論』にはならないんじゃない?
『雑心論』こと『雑阿毘曇心論』は300年頃じゃない?
『婆沙論』こと『大毘婆沙論』は200年頃じゃない?
『倶舎論』こと『阿毘逹磨倶舎論』は450年頃じゃない?
以前の事を聞いているのに以降の事を教えても意味が無いんじゃない?
知らないんだったらレスしないほうがいいんじゃない?
254:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:33:42.55 Vcz381z9
>>253
説一切有部は紀元前ですぞ…
255:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:40:17.33 Vcz381z9
こんな時間まで起きてても、いいことないお。
難しいことはじっくり考えないと危ないお。
布団にはいって心を癒すほうが重要だお。
_,,..,,,,_
/ ,' 3 /ヽ-、__
<⌒/ ヽ
/<_/____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
256:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:40:50.55 8VlqY26y
つーか、そこまで(>>252-254まで)の説明があって初めて成立するレスなんだなw
>>247>>249は。
246単独では何が言いたいのか不明なことに変わりない。
257:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:41:59.52 Vcz381z9
>>256
すまんおれもちょっとそれは思ったかもしれんw
258:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:49:02.29 Vcz381z9
肝心の176氏がまだ返レスしてない内に
いったい何をやっていたんだ…
しかし、釈尊入滅から200~300年以降でえらい変わり様だわ
上座部/大乗の分派の影響すげぇ
大乗における「大智度論(摩訶般若波羅蜜論?)」のナガールジュナ(後200年頃)といい
259:神も仏も名無しさん
13/01/08 19:38:01.08 bwBkSj1m
戒名の値段ですが宗派によって、どのくらいの違いがあるんでしょうか?
また、払える金によって戒名の格が変わると言うことは全ての宗派でやってるのでしょうか?
金額でお葬式の格が変わると言うのは仕方ないとしても、戒名の格が変わると言うのは、
ちょっと納得できません。それって悪い人でも金によって死後の扱いが変わると言うことなんでしょう。
変な宗教がのさばる原因の一つになりませんか?
260:神も仏も名無しさん
13/01/08 19:44:43.59 lgO08hEb
戒名料の相場
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
261:176
13/01/09 23:34:16.67 Kundem5y
複数のレスありがとうございます
247以降の流れなのですが、質問に回答して頂いたのはありがたかったのですが
すみませんが、自分が知りたかったのは阿含やニカーヤで、煩悩の数をどのように想定しているかが知りたかったんです
倶舎論以降の体系では98随眠と10纏をあわせて108として解釈します
そして、倶舎論の五位七十五法なのですが、これは心の働きの分類であって、
煩悩じゃなくて、煩悩によって惑わされた心の動きが大煩悩と不善と小煩悩に分類されているだけです
せっかくレスをくれたのにすみません
262:神も仏も名無しさん
13/01/09 23:45:10.51 Kundem5y
質問の仕方が不明瞭と指摘されたので、もう一度詳細に質問させてもらいます
ニカーヤと阿含において煩悩を108とするという記述はあるのでしょうか?
煩悩は日本では108だと言われており、その理由を調べたら、様々なとんでも説もあったのですが、
私が調べた限りどうやら経論に求める事ができそうだと判断して、経典や論書を当たりました
一番古い、一番最初に言われたのが何であるのか求めたのですが、
有部の論書の倶舎論の煩悩の章に98随眠と10纏をあわせて108とすると解釈していました、
そこに経典のソースは見つけられませんでした、
また有部の論書の阿毘曇心論や雑阿毘曇心論や大毘婆沙論や大毘婆沙論の異本にも108とする解釈が書かれていました
けれどもそれより古い六速論と呼ばれる古い論書には見当たりませんでした(探し方がわるかったのかもしれません)
大毘婆沙論は経典の解釈を色々と集めたものであると聞きます、
ですので大毘婆沙論に書かれるきっかけになった経典があると思うんです
そのような経典があるのかどうか知りたくて質問させていただきました
よろしくおねがいします
263:176
13/01/09 23:47:32.69 Kundem5y
大毘婆沙論は二世紀の成立だそうです
ですので、それより古い成立であるとされる論書でも助かります
探しているのは一番古くに108が煩悩の数っていわれるようになったきっかけです
264:神も仏も名無しさん
13/01/13 00:20:22.84 WNDFLudb
マイナーな宗派だとは思いますが山崎弁栄上人の光明主義について教えてください。
特に世界観や一般的な日本仏教・従来のインドの仏教との違いについてだとありがたいです。
265:神も仏も名無しさん
13/01/13 03:49:36.51 8MHM+xFy
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では救われない、というのが
一般的な仏教的見解ですか?もし、そうだとすれば理由も教えて下さい。
266:神も仏も名無しさん
13/01/13 07:52:20.88 kb4KUSrE
>>265 「救われる」の意味がわかりせん。
仏教を知らなくても、たまたま四諦八正道に合致する生き方をしていれば、悩み苦しみは減るでしょう。
「救われる」が、阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生させてもらうことなら、
阿弥陀仏に対して「南無阿弥陀仏」と救いをお願いするのが普通です。
往生を望んでいない者(他宗教の人)を極楽に強制連行はしないでさょう。
ただし、その人がよほど徳の高い人の場合は、
阿弥陀仏に救われなくても自力で浄土や天界に生まれ変わる可能性があります。
267:神も仏も名無しさん
13/01/13 09:33:47.87 VfOjtD2e
>>265
救われる、の意味によります。輪廻から脱出する、
という意味でなら、仏教徒以外が「救われる」ことは絶対にありません。
(セム系一神教は主宰神信仰の一バージョンということになるでしょうが、
これは「来世をもたらす」(輪廻から出られない)結果をつくる思想とされます。
仏教徒も涅槃に至らない限りは輪廻を脱出できません。
(無理な人にはせめて善行して天に生まれることが薦められます)
仏を侮辱したりとかを明確に行っていないのなら、
善行を心がけている以上、天界などの善趣(良い来世)が得られる可能性はあるでしょうが、
それもまた六道輪廻の一部に過ぎないので、やがて酷い来世に
ぶつかったり、そこからまたマシな来世に行ったり、というサイクルを
永遠に繰り返すことになります。
268:神も仏も名無しさん
13/01/13 13:45:36.33 8MHM+xFy
>>266>>267
どうも、ありがとうございます。
ところで、輪廻から脱出するよう努力する事と、
メシアを待望する事の間に矛盾はあるとお考えですか?
メシア登場と言っても、最後の審判とは関係無い、
世界を今より、かなり良くしてくれる存在くらいに
考えてるんです。でも、一応、神とはちゃんと契約している
存在としてですが。
269:神も仏も名無しさん
13/01/13 15:05:54.79 JkKy8ux5
>>268 ID:8MHM+xFy さんへ
> 輪廻から脱出するよう努力する事と、メシアを待望する事の間に矛盾はあるとお考えですか?
> メシア登場と言っても、最後の審判とは関係無い、世界を今より、かなり良くしてくれる存在くらいに考えてるんです。
> でも、一応、神とはちゃんと契約している存在としてですが。
268 ID:8MHM+xFy さんが
何処かの神と契約していて、そして
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと
輪廻から脱出するよう努力する事が
矛盾するのか?
と言う質問ですか?
_ _ _
『 ユダヤ、キリスト、何処かの神との契約 』 と言う概念を捨ててから
仏教の南伝、北伝、チベット伝とかを勉強した方が良いかもしれません
270:神も仏も名無しさん
13/01/13 15:33:01.72 JkKy8ux5
例えば
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと言う存在があって
そのメシアと言う存在に執着しようとする、心の働きがある
(これは自分自身に、そのような 「 心の働きがある 」 と言う意味です)
- これに対して -
八正道を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する
まず自分自身の自我を滅する事から始めて
そして、最終的には輪廻から解脱する
と言う事になります
_ _ _
矛盾があるのか?と言う質問に対しては
「 何と答えて良いの、かわからない 」 と言う事になります
271:神も仏も名無しさん
13/01/13 16:09:50.93 JkKy8ux5
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと
↓
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアを待望する事と
輪廻から脱出するよう努力する事の間に
矛盾はあるのか?
_ _ _
訂正して、お詫び申し上げます
礼拝帰依/ブッダン サラナン ガッチャーミ
屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
272:神も仏も名無しさん
13/01/13 23:07:37.07 kb4KUSrE
生への執着を超えないと輪廻から解脱できません。
メシアに世界を良くして欲しいというのは、この世界に生きていたいからでしょう?
一方、この世界を捨て去るのが輪廻からの解脱です。
この世界は、たとえメシアが現れたとしても苦しみの連続です。
神様でさえ、次から次へとやってくる苦しみに操られて生きているのです。