12/12/22 21:19:40.52 6+YjT4RL
>>175
石飛先生によれば『中論』13-1は『スッタニパータ』757偈に相当します。以下、757の中村訳です。
「或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。」
虚妄というのは、決して「虚妄だから言語表現できない」という意味ではありません。
諸仏によって説かれる法は、同一性を常に保つような、不変なる実在であるわけではなく、
縁起によって生じた(作られた)ものであるため、それはしばしのものでしかない、という意味です。
中論13-2では、このことは「空を闡明するものである」とも言われています。
法は同一性を保たないことから虚妄と言われますが、仮説によって意思疎通ができる程度には同一性を保っているともいえます。
A君が老いゆくさまを見れば、A君はすでにA君ではないのですが、しかし、依然として、
人々の間で「A君はA君だ」と、共有することができる、ということです。
実在論者は、「A君は常に変わりゆくことなくA君である」というように、
A君の中に、A君をA君たらしめる基底のようなもの、アートマンを見てしまいます。
これは常見と呼ばれ、虚妄である法を、虚妄ではないと顛倒するものの見方です。
179:神も仏も名無しさん
12/12/22 22:54:24.90 LZ1Oztcg
>>177
レスありがとうごじます。
煩悩についての項目をウィキペディアから引っ張ってきてくださってありがとうございました。
けれども自分が知りたいのは煩悩が108を数えるようになったのは婆沙論以前に求められるのかどうかなのです。
そこについては知られないでしょうか?
180:神も仏も名無しさん
12/12/23 00:13:01.42 LLW2dImj
>>178
その人に言っても無駄でしょう
181:神も仏も名無しさん
12/12/23 00:21:42.95 CGbdp4J8
>>180
はい、議論スレなら放っておくつもりでしたが、
質問スレなのでついつい…
182:神も仏も名無しさん
12/12/23 00:34:20.87 kkSGB+NC
仏教の目的は、苦しみの世界からの解脱と理解していいですよね?
念仏で解脱できるとはおもえません。だとするならば、どうやって解脱するのでしょうか?
まだどうなったら解脱なのでしょうか?
183:神も仏も名無しさん
12/12/23 02:57:08.89 sj3CdLMC
>>182
仏教と一言に言っても解脱と解脱の方法に関しては様々な解釈理解があります。
そのために一般的な仏教での解脱と念仏による解脱について説明します。
仏教の目的は苦しみという輪廻の世界から脱却する事であり、
そのような輪廻(再び生まれる)というスパイラルから抜け出すことを解脱といいいます。
旧来は家を離れ、師に付き、教えを聞き、戒を保ち、メディテーションを行い、正しく物事を理解できるようになることによって
悟りを獲得し、それによって解脱(苦しみの世界に再誕しないようになる)が可能でした。
しかし、家族が有り、仕事が有り、様々なしがらみが有るために旧来の修行を行えない人々もいます。
それをなんとかしようとした阿弥陀仏が
念仏をしたならば来世に阿弥陀仏の世界である極楽(修行を簡単にできる場所)に生まれることができるなシステムを作りました。
つまり、念仏を行う事によって極楽に生まれ変わることができて、そこで簡単に修行をして、
そこで修行をした結果、解脱(輪廻からの脱却)を求めることができるのです。
よく誤解されがちなのですが、念仏を唱えればたちまち今の世界で解脱することができるというわけではありません。
また、説明は簡略に徹した為にわかりにくい点があるかもしれませんが、追って質問していただければ次いで回答させて頂きます。
184:神も仏も名無しさん
12/12/23 08:26:24.61 4ygCP0Ro
//ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1
慧解脱(えげだつ) - 「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧を得ていることをいう
倶解脱(くげだつ) - 慧の障りを離れるだけでなく「定」の障りをも脱していることをいう
心解脱 - 心に貪著を離れること
慧解脱 - 無明を離れていること
心解脱 -
精神的には既に解脱していても
肉体的にはどうにもならない束縛を持っている場合をいう
例えば釈尊の成道後の伝道生活の如きである
身解脱 - 完全に肉体的な束縛を離れているのをいう
185:虚妄の如く 大滝秀治
12/12/23 11:28:17.86 5kMRGUZJ
>>178>>181
レスありがとうございます。『議論スレなら放っておくつもりでしたが、 質問スレなのでついつい』(>>181)レス返ししておきます。
休憩中の気休め?wになります。
>虚妄というのは、決して「虚妄だから言語表現できない」という意味ではありません。
そうではありません。虚妄だから言語表現するのです。
『虚妄』論者はすべてを世俗諦(間接現実)でしか見えていない虚妄=物語・ファンタジー・イリュージョンだからこそ、
逆に虚妄だと直接肯定言辞で言語表現してしまうのです。
たとえば、無想家の宝珠や、オイラ氏や、Sn.757にいう『愚者』のようにね(議論スレッド51>>378>>382など)
→まさに虚妄だ、とは『空見』です(中論13-8)。
石飛道子は完全に読み間違っています。
直接現実においては直接肯定的言辞はありえません。
間接現実からは“虚妄の『如く』”(←比喩)、“非虚妄非非虚妄”(←四句第4)、沈黙(維摩など)、気合音(喝~ツなど)などのスタイルで示唆するしかありません。
これを>『それはしばしのものでしかない』(>>178)ゆえに仮設→仮観(中論24-18の趣旨)というのです。
あなたは中論24-18を掴めていない。
ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はない(空観)からこそ、言語ゲームとしてプレイするのです(中観)。
>中論13-2では、このことは「空を闡明するものである」
もしこれが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。
仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道(の如く)なのです。
(スレリンク(entrance2板:622-624番)で?氏の求めに、中論13章全体を簡単に解釈しました。宜しければどうぞ)
では、修空華万行の二相の相即的実践に戻ります。
186:神も仏も名無しさん
12/12/23 11:49:39.50 4ygCP0Ro
>>185 虚妄の如く 大滝秀治さんへ
> //uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1348897577/622-643で?氏の求めに、中論13章全体を簡単に解釈しました
↑ レス有り難う御座いました、そして更に、解説などを追加しておきました
187:神も仏も名無しさん
12/12/23 13:03:56.07 1mAmqb2j
仏に心はあるのか?
ケーキの甘みを感じ取れるか、分からない
188:神も仏も名無しさん
12/12/23 14:05:41.41 GrrJueJm
>>185
議論スレの方に返信しておきます。続きはそちらでやりましょう。
189:神も仏も名無しさん
12/12/23 14:08:28.51 GrrJueJm
>>185
あ、すいません、やっぱり宗教と精神疾患3のスレに返信します。
190:神も仏も名無しさん
12/12/23 16:38:50.31 kkSGB+NC
>>「仏教徒は輪廻転生する」「お盆には先祖の霊が帰ってくる」 ←ひどい矛盾 確実に寺に騙されてるわ
191:神も仏も名無しさん
12/12/23 16:44:17.88 kkSGB+NC
190は、ニュース系のスレのスレタイです。
先祖の霊が、帰ってくると言うのは、すごく儒教的な感じがします。
儒教なら儒教でいいとおうもんですけど、それをお寺つまりお坊さんがやるって言うのは、すごく矛盾を感じます。
このような風習は、おそらく日本だけだと思いますが、日本の仏教界では、この矛盾に対してどう説明しているのでしょうか?
192:神も仏も名無しさん
12/12/23 16:48:23.59 4ygCP0Ro
中陰(ちゅういん)、中有(ちゅうう)
発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週に渡り法要を行っていた。
(古代インド文明の七進法により、七ごとなのである。)
輪廻の思想により、人の没後49日目に、
次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからである。
また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、
49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。
それが日本に伝わり、宗旨によって考え方は様々であるが、
人は死後、魂を清めて仏になる為に中陰の道を歩き、あの世を目指す。
その所々に審判の門があり、生前の罪が裁かれる。
罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。
それが下記の7日毎に行う法要である。また四週目と五週目の法要の間に、最初の月命日が来る。
193:神も仏も名無しさん
12/12/23 17:02:30.80 kkSGB+NC
>>192
あの~四十九日ではなくて、お盆の先祖供養の質問なのですが・・・
194:神も仏も名無しさん
12/12/23 17:13:36.18 kkSGB+NC
>罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。
重ねて質問させてください。四十九日と言うのは、輪廻転生の思想に基いて、遺族が読経することにより、
死者の魂がよりよい世界に生まれ変われる様にする行事ということと理解していいんですよね。
と言うことは、仏教は輪廻する世界では壊れない?魂を認めているということですよね。ヒンドゥー教とかと輪廻転生という意味では同じということでしょうか?
195:◇SyuumatuOzyaru
12/12/23 17:14:17.03 4ygCP0Ro
盂蘭盆会(うらぼんえ)
安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、
父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。
これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)
などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。
196:神も仏も名無しさん
12/12/23 17:25:37.27 4ygCP0Ro
我は、常住であり、
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。
この考えに対して
釈迦はこのような実我観念を批判し、
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。
これを色受想行識の五蘊について説き、
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。
197:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/23 18:15:08.39 mRCcc53A
>194
盆にご先祖様が帰ってくるのは神道。
日本仏教は神道との習合であるので盆供養をする。
本来、仏教では輪廻転生する個人主体は存在しないと説く。
輪廻とは、多様な再現性ある事象を指すのであり、盂蘭盆経は中国で作られたもの。
198:神も仏も名無しさん
12/12/23 19:12:42.27 kkSGB+NC
>>196>>197
>人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。
>日本仏教は神道との習合であるので盆供養をする。
191で質問しているのは、正にそこの確信についてでして、
>日本の仏教界では、この矛盾に対してどう説明しているのでしょうか?
ということです。
「我が五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在である」とするならば、お寺などでお骨の入ったお墓を拝む。
しかもお釈迦様の教えに最も忠実であるはずのお坊さんがそれを積極的に行うと言うのは矛盾する話です。
またそれらが、中国や神道の風習であると言うならば、純粋なお釈迦様の仏教を考え葬式関係を除いた場合
在家の者を重んじるという大乗仏教という立場では、何が残るのでしょうか?
なんというか、上手く言えませんが、奥歯に何かがはさっがった感じがしてすっきりしません。繰り返しますと
>日本の仏教界では、この矛盾に対してどう説明しているのでしょうか?
199:神も仏も名無しさん
12/12/23 20:08:47.36 2FUIiuoU
>>198
>どう説明
何も説明してない。
強いて言えば、黒を期待・予想する相手には黒と言い、白を予想する相手には白と言ってきた感じ。
200:神も仏も名無しさん
12/12/23 23:26:12.42 sj3CdLMC
>>198
釈迦仏教を釈迦仏教のまま受容している宗派は日本仏教にはありません(あえて挙げるならば上座のみ)。
釈迦仏教を様々な宗義というフィルターを通して解釈理解しています。
例えば、「お墓を拝む」とありますが、お墓を拝むというのは二種類の意味があります。
第一にお墓を拝む事。これは亡き人のためにお墓をきれいにするなどの行為であり、民族的な行為です。
第二に法要を執り行う事。僧侶や施主自身が功徳をつみ、またはそれを先祖に対して回向(まわしむける)することです。これは仏教的な行為です。
この第二の行為は釈迦仏教を忠実に受容しているわけではありませんが、大乗仏教としては重要視される行為です。
中国の影響として儒教から、日本の影響として祖先信仰があるとして、それらを省いたとしても、
解脱したいと思ったり、経典を読誦したり、念仏をしたり、護摩を焚いたり、座禅をしたり、経典の名前を唱えたり、
礼拝をしたり、布施をしたり、戒律を守ったり、瞑想をしたり、人を助けようとしたり、
すべてを余すこと無く行うものはいませんが一部づつでも大乗的な行為が行われています。
たしかに現在の日本仏教を見て、釈迦仏教を学べば矛盾のように感じることもあるかもしれません、
けれども大乗仏教を見て、日本仏教を見ればあまり矛盾を感じることはないようにも思えます。
また、説明は簡略に徹した為にわかりにくい点があるかもしれませんが、追って質問していただければ次いで回答させて頂きます。
201:神も仏も名無しさん
12/12/24 00:11:17.14 fJcJ/pyI
>>200
分かりやすい回答ありがとうございます。一応納得できました。
202:神も仏も名無しさん
12/12/24 00:24:32.47 K7EqZooq
仏教の救世主は、お釈迦様の再来なのですか?
203:神も仏も名無しさん
12/12/24 02:18:07.33 CkW34zqQ
>>202
仏教の救世主はお釈迦様と考えるのが一般的な見解でしょう。
また救世主の再来と考えるならば仏陀がまたこの世界に降り立つ事でしょう。
質問者は救世主イエスキリストを想像して、仏教における救世主を想定したのでしょうが、
お釈迦様は自力救済の救世主で、イエスキリストは他力救済の救世主という毛色の違う救世主だから混乱が生じた者と考えられます。
この救済という概念は曲者で様々な解釈が成り立ってしまうのですが、
仮にR.オットーの解釈に基づくならば救済には自力救済と他力救済の二種類があります。
この自力救済というものは示された方法に従って自分の行動によって救済が行われることです。
このような自力救済の方法の開示者を救世主とするならば釈尊が救世主といえるでしょう。
次に他力救済というものは、他人の能力によって自分が何もせずとも救われる事です。
このような他力救済を行った者を救世主とするならばイエスキリストや阿弥陀仏が救世主といえるでしょう。
また、説明は簡略に徹した為にわかりにくい点があるかもしれませんが、追って質問していただければ次いで回答させて頂きます。
204:神も仏も名無しさん
12/12/24 02:43:34.97 K7EqZooq
>>203
ご回答、ありがとうございます。救済にも、自力と他力というものがあるのですね。
阿弥陀仏という他力救世主という存在がいたというのは知りませんでした。
「救世主の再来と考えるならば仏陀がまたこの世界に降り立つ事でしょう」
ということですが、自力救世主ということでしょうか?
205:神も仏も名無しさん
12/12/24 03:43:52.17 CkW34zqQ
>>204
新しく誕生した仏陀が
もし、お釈迦様のような法を示される仏陀として現世に現れたとしたならば、
それは救世主の再来(一度目は釈尊が来ているから)であり、自力救世主と捉えることができます。
もし、阿弥陀仏のような法を示される仏陀として現世に現れたとしたならば、
それは他力救世主と捉えることができます。
一般的にはゴータマ・シッダールタこと釈尊の次の仏は弥勒菩薩が釈尊入滅後5億7600万年後に現れるとなっています。
この弥勒菩薩の特性は大乗経典の『仏説観弥勒菩薩上生兜率天経』などによれば仏陀と同様の救済法を述べられているので、
その説に則るならば次に登場する仏は自力救済主と考えられます。
しかしながら、あくまでそういう話があるというもので、別の世界からの因縁によって生まれてくる仏なども想定されえますので、
一概にはこの可能性しかないとは言い難いです。
206:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/12/24 09:25:58.10 AX1qugWs
救世主などは仏教とは無関係。
いわゆる「救世主」であるキリスト教教祖とされる人物は、
何ら「救世」などせずに処刑されたと言われるだけのカルト教祖。
そもそも実在したかすら疑わしい。
(^。^)まぁ、強いて上げるなら「転輪王」が近い概念か。
207:神も仏も名無しさん
12/12/24 09:58:21.96 TvTQphR8
//kotobank.jp/word/%E8%BB%A2%E8%BC%AA%E7%8E%8B
【転輪聖王】より
… 古代インドの伝記上の理想的帝王のこと
単に転輪王または輪王ともいう
この王が世に現れるときには天の車輪が出現し
王はその先導のもとに武力を用いずに全世界を平定するとされるところから
この名がある …
208:神も仏も名無しさん
12/12/24 10:51:25.60 TvTQphR8
>>189 ID:GrrJueJm さんへ
> あ、すいません、やっぱり宗教と精神疾患3のスレに返信します
書き込みが出来なくなった、みたいなので続きはこちらへ
(机先生が、これを見つける事が出来るか?どうか?は、わからないけども…)
卍 仏教以外でもよしっ! 卍
//uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1356313199/l50
規制中の方でも書き込みが出来るので御自由に御使い下さいませ
209:神も仏も名無しさん
12/12/26 14:39:58.46 UOuKsQJP
ここの隔離スレッドの<仏教議論スレッド 52> を誰か建ててあげてください。
魑魅魍魎連中がここで騒ぐ虞があります。
210:神も仏も名無しさん
12/12/26 14:45:22.95 oKSMmuCM
ほらよ
仏教議論スレッド52
スレリンク(psy板)
211:神も仏も名無しさん
12/12/29 22:44:48.08 nIr1WCWT
煩悩を完全に滅却すると、どういう状態になるのですか?
212:神も仏も名無しさん
12/12/30 10:05:33.94 6GzmpqIb
> 煩悩を完全に滅却すると、どういう状態になるのですか?
(八正道)八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
諸の禅定の中で、滅尽定(想受滅)を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する
URLリンク(www.ne.jp)
初期仏教の解脱・悟り=想受滅(滅尽定)
四禅を超えて想受滅(滅尽定)
213:神も仏も名無しさん
12/12/30 17:19:42.64 Uoosq8M4
無我なら、涅槃に至る主体は誰ですか
214:神も仏も名無しさん
12/12/30 19:03:14.81 6GzmpqIb
無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を、世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした
末那識(まなしき)
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を体感会得して
とりあえず 「 心(識)は存在する 」 と仮設して
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
215:神も仏も名無しさん
12/12/30 19:54:18.68 A7duXd9l
>>213
主体があるというのが妄想です
216:神も仏も名無しさん
12/12/30 23:13:26.95 fRNgeQ57
>>211
>煩悩を完全に滅却すると、どういう状態になるのですか?
生存不能です。
217:神も仏も名無しさん
12/12/31 00:52:15.98 TJEzOpvE
>>215
自己というものがこれだと確として言えるものではなく、
水そのものではなくそれを媒体とする波のように、この世での因果関係の連鎖の現象であるとして、
涅槃に至るとは、波が止むことですか
218:神も仏も名無しさん
12/12/31 00:54:41.54 Cw6jBeaH
>>211
煩悩が完全に滅却したならば、すべての執着から離れることができ、すべての物事をありのままに見ることが可能となります。
そして、この物事をありのままに見ることが可能となれば輪廻というものから脱却することができます。
>>213
無我ですので涅槃に至る主体というものは存在しません。
様々な要素が重なりあって状態として在る者が涅槃に至ります。
しかし、後代においては「涅槃に至る主体がアートマンではないが存在する。」と主張する様々な教理が成立します。
ですので、一概に上記の考えが定説というわけではないのでご了承ください。
219:神も仏も名無しさん
12/12/31 11:00:13.07 WYfIYFBP
>>218
>煩悩が完全に滅却したならば、すべての執着から離れることができ、すべての物事をありのままに見ることが可能となります。
カメラには煩悩はないでしょうが、カメラの映像はありのままですか?
煩悩があっても大して変りませんねw
写真の藤原紀香はやっぱり現物でも藤原紀香でした。
僕には煩悩がないのですか?
とてもエッチしたいと思いましたが・・
220:神も仏も名無しさん
12/12/31 13:03:52.69 JiioasK2
印刷された画像を藤原紀香と認識することが「ありのまま」かどうか。
221:神も仏も名無しさん
12/12/31 13:11:18.86 BsrI0IrI
>>219
その場合、「あるがまま」というのは見たまま実体視してるという意味じゃなくて
見えるものが幻のようなもので、妄想の現れだって捉えられるという意味ね
だからノリカがエロい肉体でヤりたいと思うなら、それは「あるがまま」に見るのではなく、
妄想で実体視して、やがてその欲望によってやれなければ、やれない苦で苦しみ、
やったら、やった悪業や、思った快楽が得られない苦、得てもそれが続かない苦などに苦しむことになる、と仏教は説きますね
222:神も仏も名無しさん
12/12/31 16:39:48.87 Cw6jBeaH
>>219
まず、その「とてもエッチしたい」と思っているのが煩悩です。
煩悩を滅却すると簡単に言いますと、そういった写真を見ても「乳がでかい」「かわいい」「エッチしたい」という思いに惑わされなくなる事です。
だから、見方を変えればカメラは何を撮ったとしてもそれをそのまま保存し、価値判断をくだしません。
写真を撮ったからといってカメラがエッチしたいと思うことはありません。
ですから、カメラは煩悩が無いとも言えることができるでしょう。
しかしながら、仏教では無機物に自我意識はあるのか、無機物は悟ることができるのか。
といった問題は中期大乗以降に登場した悉皆有仏性という思想や認識論と共に取り扱われることになりますが、
結局、一部大乗に認められるのみで、伝統的には、あまり認められることがありません。
223:神も仏も名無しさん
13/01/01 02:28:28.56 OxD4WBhj
>>222
さすがです、いや、マジで。
224:神も仏も名無しさん
13/01/01 03:29:02.60 UU0PC5JV
>>222
分別しないカメラと仏性か。
煩悩や物事の価値判断も、実は自分という立場という前定があってのものなんだな。
荘子にもそんな話があったよ。どんなに美人だとしても、前に立てば鳥は飛び立つし魚は逃げる。
当たり前に、美人というが、その実人間男性という立場から見たものにすぎない的な内容が。
225:神も仏も名無しさん
13/01/01 10:16:24.95 +CrM04/2
魚や鳥百万匹に嫌われても美女1人に好かれるならいいやw
226:神も仏も名無しさん
13/01/01 13:08:49.58 r9rOO55d
煩悩だらけかい。
227:神も仏も名無しさん
13/01/02 13:36:02.31 y3be28pa
>>220
それは素粒子の集合であり
電子顕微鏡でみればそれは原子の集合であり
肉眼でとらえればそれは画像であり
望遠鏡どとらえればそれはただの紙切れであり
永遠でとらえればそれは空である
縮尺によって捕らえ方もさまざまであり
あるがままとはそれらのすべてを観ることなのかもしれない
228:神も仏も名無しさん
13/01/03 03:16:28.64 iio9QPzm
素粒子って、実在するものなの?仏教的見解は?
229:神も仏も名無しさん
13/01/03 04:22:26.49 /qSDdwW2
素粒子の存在は現代科学が既に有るものとして解釈しています。
また、仏教の思想内においても素粒子のような「極微」という概念が存在します。
極微というのは物質を分割していって分割しきれなくなった最小の物質の構成要素の事を指します。
つまり仏教では物質は極微の集合体であると考えます。
この極微には地水火風の四種の属性をもつパターンが存在し、これらの比率によって石や砂や水や肉の違いがでると考えています。
しかし極微の大きさは現在の素粒子論と比べると些か大きいものとして想定しています。
大きさを例示してみますと、(今回は倶舎論世間品の説を使用)
指先から一つ目の節までの七分の一が大麦の粒で、大麦の粒の七分の一が虱で、
虱の七分の一が虱のタマゴで、虱のタマゴの七分の一が牛の毛で、
牛の毛の七分の一が羊の毛で、羊の毛の七分の一が兎の毛で、
兎の毛の七分の一が水の塵で、水の塵の七分の一が金の塵で、
金の塵の七分の一が微で、微の七分の一が極微と考えます。
つまり極微の大きさは指の節の”二億八千二百四十七万五千二百四十九”分の一と考えることができます。
しかしながら、この概念の成立は釈尊在世の頃ではなく、
仏教のスコラ化が進む部派時代に外教(インド哲学諸部派)との対論の必要性から
外教の説を解釈しつつ利用して導入されたと考えられています。
また、釈尊在世の時代においては素朴な地水火風の四種の構成要素から物質はなると考えられていました。
しかしこちらは、釈尊の独自説ではなく、五蘊と同じく当時のインドの一般常識の一つであったとされています。
煩瑣になりましたが、仏教での素粒子論はこんな感じです。
また、分からない点がありましたら質問に応じます。
230:神も仏も名無しさん
13/01/03 05:27:03.71 iio9QPzm
ていねいな、解説ありがとうございます。
231:神も仏も名無しさん
13/01/03 09:09:49.77 aIpfKB9M
>>229 地水火風の四大は物質の動き・性質を四種類に表しているのであって、
粒子の種類などではありませんし、素粒子が発見されたとしても
地水火風の否定にはなりませんから、注意が必要ですね。
地(変化を妨げるはたらき、重さ・堅さ)、火(変化を促進するはたらき、熱さ、痛み)、
水(収縮・吸着)、風(膨張・拡散)は、
私達が物質から具体的に感じる刺激の分類です。
232:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/03 10:19:05.88 MR7JcYh4
あ
233:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/03 10:24:37.45 MR7JcYh4
四大などは、仏教の本流では無い。
あくまで当時のパラダイムを整合化しただけであり、有無とは別の話。
本来は無記。
時空と同じく、原子などを、修行者は問題にすべきではないという立場。
234:神も仏も名無しさん
13/01/03 10:40:05.49 aIpfKB9M
眼に見えない原子などではなく、
現に色声香味触から感じ取られる現象である地水火風が
仏道修行者にとっての物質ですからね。
235:神も仏も名無しさん
13/01/03 10:47:41.20 aIpfKB9M
鼻で息を吸うときに鼻の穴の気圧が下がって鼻先が収縮する。
これは水の要素。
逆に、吐くときに鼻先が膨らむのは風の要素。
そのような膨らみ縮みの感覚は、触覚の神経に入る微細な痛み(火の要素)を通して感じられている。
また、膨らんだり縮んだりの目まぐるしい変化(火の要素)にさらされながらも、
鼻が壊れずに鼻の形を維持している事は地の要素。
鼻が伸ばされてもビビ割れずに弾力性があるのは水の要素。
鼻を指で押さえつけた後に指に鼻が反発してくるのは風の要素。
236:神も仏も名無しさん
13/01/03 21:29:52.10 umNDQ1hK
>>228
仮設で、実在しないというのが一般的で本流だけど、
有部のように実在と解釈する部派仏教の流れがいくつかあります
237:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/04 04:09:52.49 Br4gMCvL
>>236
そうではなくて(素粒子などの実在性という意味ではなくて)、
仏教の説く法則、ダールマの“普遍的な絶対性(永遠不滅の法)”
という意味での実在(これだけが実在)なのでは?
短絡的、便宜的な言い方を用いるならば、
その法則の(存在としての)実在性を説いているのが有部かと。
----存在として位置づけるところに誤りがあるけれども----
238:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/04 04:11:03.41 Br4gMCvL
皆さま、
新年明けましておめでとうございます m(__)m
数日、家を空けて、
成田山(別院)の初護摩/初詣に行って来ました。
暫くの留守中に随分とスレが伸びていましたね。
年明けの新参も増えたようで何よりです。
私も含め、どうか皆様にとって実り多き年となりますように!
>>260 >>前スレ541
ありがとうございます ヽ(´ー`)ノ
239:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
13/01/05 22:47:42.79 dzJpq1sR
因みに、この宝珠云々という人は神智学とかいうマイナーオカルトの信者さん。
仏教スレ荒らしの古参である。
240:宝珠愚者@(規制代行)
13/01/06 08:48:54.72 oU7UKTuZ
“荒し”のつもりは毛頭ありません
ただ、分ったつもりになっている仮面仏教徒たちや
伝統保持者らに対して基本的な疑義を投じているだけです。
それに対して、彼らは如何に整合性ある理を答弁できるのか?
----ということ。
(ちなみに>>238は、
議論スレ宛のものが代行者のミスでこちら側に投稿された誤爆です)
241:神も仏も名無しさん
13/01/06 10:51:31.47 BjKeD/X9
真実とは無相
全てが一つであるが
一つは全てではない
242:神も仏も名無しさん
13/01/06 11:05:09.99 BjKeD/X9
>>241
【補足】
全てが一つのものを現すが
万象、万物の一つ一つを分けた(分類、範疇にとどまる)場合
それらは一つのものそのものを現してはいない
243:神も仏も名無しさん
13/01/06 11:40:00.11 BjKeD/X9
●胎児のうちには何らかの分別はないと仮定(悪魔くん等は除く)
受精~出産を経て、様々な環境により表情や言葉を、
その先に善悪や性的なこと等々を分別するようになる
この分別を自我の目覚めとするならば、分別を得る以前の自分はどこにいったのか
自我以前の自分にはもはや自と他の明確な区別はない
ただ、なんらかのものを感じるだけであろう
故に分別とは後天的なものであり、それらは事実としてあるが真実とは異なっている
事実と真実は何が違うのか
何事かを分割して思考する限り、それらは事実の探求であっても
真実には至らないのではないか
244:神も仏も名無しさん
13/01/06 12:01:58.59 etKPY6zl
すいません。ここは質問スレなので、できれば議論スレでお願いします
245:神も仏も名無しさん
13/01/06 12:33:32.32 BjKeD/X9
>>244
あばばばb......誤爆でした。
romってきます。
246:176
13/01/06 16:32:14.76 fj8tQlWX
煩悩の数が108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつからなのでしょうか?
婆沙論の諸本や雑心論などでは108を数える事が確認できたのですが、
それ以前のニカーヤや阿含において煩悩数を108と規定することは確認されるのでしょうか?
247:神も仏も名無しさん
13/01/06 17:54:42.76 Wj31YncY
説一切有部
倶舎論では、色法11・心法1・心所法46・不相応行14・無為3の75種(五位七十五法)と成す
有為法(72)
色法(11) - 眼・耳・鼻・舌・身 【五根】、色・声・香・味・触 【五境】、無表
心法(1) 心 (識・意)
心所法(46)
大地法(10) 受・想・思・欲・触・慧・念・作意・勝解・三摩地
大善地法(10) 信・勤・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・軽安・不放逸
大煩悩地法(6) 無明・放逸・懈怠・不信・惛沈・掉挙
大不善地法(2) 無慚・無愧
小煩悩地法(10) 忿・覆・慳・嫉・悩・害・諂・誑・憍・恨
不定地法(8) 悪作・眠・尋・伺・貪・瞋・慢・疑
不相応行法(14) 得・非得・同分・無想・無想定・滅尽定・命根・生・住・異・滅・名身・句身・文身
無為法(3) 虚空・択滅・非択滅
248:神も仏も名無しさん
13/01/06 18:20:38.63 vHq3v5fA
>>247
だから何? 何が言いたいレスなの?
質問スレで自己満レスは醜悪だぞw
249:神も仏も名無しさん
13/01/06 18:39:43.51 Wj31YncY
> 婆沙論の諸本や雑心論などでは108を数える事が確認できたのですが
> それ以前のニカーヤや阿含において煩悩数を108と規定することは確認されるのでしょうか?
説一切有部では、煩悩を分析し
知的な迷い(見惑)と
情意的な迷い(思惑または修惑)とに分け
また貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とした
さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える
250:神も仏も名無しさん
13/01/07 01:38:35.94 Vcz381z9
>>248
大本を眺めるという意味では極めて簡潔で丁寧な解説だと思います。
251:神も仏も名無しさん
13/01/07 01:51:07.29 8VlqY26y
>>250
ハァ?(゚д゚)
>>246に連なってるレスだよな?
どこが246向けになってるんだ?(つーか、>>247程度は既に把握済みなんじゃねーの?)
その上で、
>108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつから
>それ以前のニカーヤや阿含において ・・・・・・ 確認されるのでしょうか?
と聞いてんだろ?
247や249が、
>108として数えるケースが発生した時、及び普及したのはいつから
>それ以前のニカーヤや阿含において ・・・・・・ 確認されるのでしょうか?
に対して、どういう参考になるんだ?
252:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:01:17.13 Vcz381z9
「それ以前の…」
●因果関係
説一切有部-前2世紀頃
↓
十住毘婆沙論-5世紀頃、原典不明
阿毘達磨倶舎論-説一切有部をまとめて作ったよ!
婆沙論の諸本や雑心論以前の規定=説一切有部
ってことでは?
253:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:30:41.14 OuKYGf6R
246の質問の回答は持ちあわせてはいないんだけど
>>252
『十住毘婆沙論』は略称で『婆沙論』にはならないんじゃない?
『雑心論』こと『雑阿毘曇心論』は300年頃じゃない?
『婆沙論』こと『大毘婆沙論』は200年頃じゃない?
『倶舎論』こと『阿毘逹磨倶舎論』は450年頃じゃない?
以前の事を聞いているのに以降の事を教えても意味が無いんじゃない?
知らないんだったらレスしないほうがいいんじゃない?
254:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:33:42.55 Vcz381z9
>>253
説一切有部は紀元前ですぞ…
255:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:40:17.33 Vcz381z9
こんな時間まで起きてても、いいことないお。
難しいことはじっくり考えないと危ないお。
布団にはいって心を癒すほうが重要だお。
_,,..,,,,_
/ ,' 3 /ヽ-、__
<⌒/ ヽ
/<_/____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
256:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:40:50.55 8VlqY26y
つーか、そこまで(>>252-254まで)の説明があって初めて成立するレスなんだなw
>>247>>249は。
246単独では何が言いたいのか不明なことに変わりない。
257:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:41:59.52 Vcz381z9
>>256
すまんおれもちょっとそれは思ったかもしれんw
258:神も仏も名無しさん
13/01/07 02:49:02.29 Vcz381z9
肝心の176氏がまだ返レスしてない内に
いったい何をやっていたんだ…
しかし、釈尊入滅から200~300年以降でえらい変わり様だわ
上座部/大乗の分派の影響すげぇ
大乗における「大智度論(摩訶般若波羅蜜論?)」のナガールジュナ(後200年頃)といい
259:神も仏も名無しさん
13/01/08 19:38:01.08 bwBkSj1m
戒名の値段ですが宗派によって、どのくらいの違いがあるんでしょうか?
また、払える金によって戒名の格が変わると言うことは全ての宗派でやってるのでしょうか?
金額でお葬式の格が変わると言うのは仕方ないとしても、戒名の格が変わると言うのは、
ちょっと納得できません。それって悪い人でも金によって死後の扱いが変わると言うことなんでしょう。
変な宗教がのさばる原因の一つになりませんか?
260:神も仏も名無しさん
13/01/08 19:44:43.59 lgO08hEb
戒名料の相場
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
261:176
13/01/09 23:34:16.67 Kundem5y
複数のレスありがとうございます
247以降の流れなのですが、質問に回答して頂いたのはありがたかったのですが
すみませんが、自分が知りたかったのは阿含やニカーヤで、煩悩の数をどのように想定しているかが知りたかったんです
倶舎論以降の体系では98随眠と10纏をあわせて108として解釈します
そして、倶舎論の五位七十五法なのですが、これは心の働きの分類であって、
煩悩じゃなくて、煩悩によって惑わされた心の動きが大煩悩と不善と小煩悩に分類されているだけです
せっかくレスをくれたのにすみません
262:神も仏も名無しさん
13/01/09 23:45:10.51 Kundem5y
質問の仕方が不明瞭と指摘されたので、もう一度詳細に質問させてもらいます
ニカーヤと阿含において煩悩を108とするという記述はあるのでしょうか?
煩悩は日本では108だと言われており、その理由を調べたら、様々なとんでも説もあったのですが、
私が調べた限りどうやら経論に求める事ができそうだと判断して、経典や論書を当たりました
一番古い、一番最初に言われたのが何であるのか求めたのですが、
有部の論書の倶舎論の煩悩の章に98随眠と10纏をあわせて108とすると解釈していました、
そこに経典のソースは見つけられませんでした、
また有部の論書の阿毘曇心論や雑阿毘曇心論や大毘婆沙論や大毘婆沙論の異本にも108とする解釈が書かれていました
けれどもそれより古い六速論と呼ばれる古い論書には見当たりませんでした(探し方がわるかったのかもしれません)
大毘婆沙論は経典の解釈を色々と集めたものであると聞きます、
ですので大毘婆沙論に書かれるきっかけになった経典があると思うんです
そのような経典があるのかどうか知りたくて質問させていただきました
よろしくおねがいします
263:176
13/01/09 23:47:32.69 Kundem5y
大毘婆沙論は二世紀の成立だそうです
ですので、それより古い成立であるとされる論書でも助かります
探しているのは一番古くに108が煩悩の数っていわれるようになったきっかけです
264:神も仏も名無しさん
13/01/13 00:20:22.84 WNDFLudb
マイナーな宗派だとは思いますが山崎弁栄上人の光明主義について教えてください。
特に世界観や一般的な日本仏教・従来のインドの仏教との違いについてだとありがたいです。
265:神も仏も名無しさん
13/01/13 03:49:36.51 8MHM+xFy
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では救われない、というのが
一般的な仏教的見解ですか?もし、そうだとすれば理由も教えて下さい。
266:神も仏も名無しさん
13/01/13 07:52:20.88 kb4KUSrE
>>265 「救われる」の意味がわかりせん。
仏教を知らなくても、たまたま四諦八正道に合致する生き方をしていれば、悩み苦しみは減るでしょう。
「救われる」が、阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生させてもらうことなら、
阿弥陀仏に対して「南無阿弥陀仏」と救いをお願いするのが普通です。
往生を望んでいない者(他宗教の人)を極楽に強制連行はしないでさょう。
ただし、その人がよほど徳の高い人の場合は、
阿弥陀仏に救われなくても自力で浄土や天界に生まれ変わる可能性があります。
267:神も仏も名無しさん
13/01/13 09:33:47.87 VfOjtD2e
>>265
救われる、の意味によります。輪廻から脱出する、
という意味でなら、仏教徒以外が「救われる」ことは絶対にありません。
(セム系一神教は主宰神信仰の一バージョンということになるでしょうが、
これは「来世をもたらす」(輪廻から出られない)結果をつくる思想とされます。
仏教徒も涅槃に至らない限りは輪廻を脱出できません。
(無理な人にはせめて善行して天に生まれることが薦められます)
仏を侮辱したりとかを明確に行っていないのなら、
善行を心がけている以上、天界などの善趣(良い来世)が得られる可能性はあるでしょうが、
それもまた六道輪廻の一部に過ぎないので、やがて酷い来世に
ぶつかったり、そこからまたマシな来世に行ったり、というサイクルを
永遠に繰り返すことになります。
268:神も仏も名無しさん
13/01/13 13:45:36.33 8MHM+xFy
>>266>>267
どうも、ありがとうございます。
ところで、輪廻から脱出するよう努力する事と、
メシアを待望する事の間に矛盾はあるとお考えですか?
メシア登場と言っても、最後の審判とは関係無い、
世界を今より、かなり良くしてくれる存在くらいに
考えてるんです。でも、一応、神とはちゃんと契約している
存在としてですが。
269:神も仏も名無しさん
13/01/13 15:05:54.79 JkKy8ux5
>>268 ID:8MHM+xFy さんへ
> 輪廻から脱出するよう努力する事と、メシアを待望する事の間に矛盾はあるとお考えですか?
> メシア登場と言っても、最後の審判とは関係無い、世界を今より、かなり良くしてくれる存在くらいに考えてるんです。
> でも、一応、神とはちゃんと契約している存在としてですが。
268 ID:8MHM+xFy さんが
何処かの神と契約していて、そして
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと
輪廻から脱出するよう努力する事が
矛盾するのか?
と言う質問ですか?
_ _ _
『 ユダヤ、キリスト、何処かの神との契約 』 と言う概念を捨ててから
仏教の南伝、北伝、チベット伝とかを勉強した方が良いかもしれません
270:神も仏も名無しさん
13/01/13 15:33:01.72 JkKy8ux5
例えば
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと言う存在があって
そのメシアと言う存在に執着しようとする、心の働きがある
(これは自分自身に、そのような 「 心の働きがある 」 と言う意味です)
- これに対して -
八正道を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する
まず自分自身の自我を滅する事から始めて
そして、最終的には輪廻から解脱する
と言う事になります
_ _ _
矛盾があるのか?と言う質問に対しては
「 何と答えて良いの、かわからない 」 と言う事になります
271:神も仏も名無しさん
13/01/13 16:09:50.93 JkKy8ux5
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアと
↓
世界を今より、かなり良くしてくれるメシアを待望する事と
輪廻から脱出するよう努力する事の間に
矛盾はあるのか?
_ _ _
訂正して、お詫び申し上げます
礼拝帰依/ブッダン サラナン ガッチャーミ
屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
272:神も仏も名無しさん
13/01/13 23:07:37.07 kb4KUSrE
生への執着を超えないと輪廻から解脱できません。
メシアに世界を良くして欲しいというのは、この世界に生きていたいからでしょう?
一方、この世界を捨て去るのが輪廻からの解脱です。
この世界は、たとえメシアが現れたとしても苦しみの連続です。
神様でさえ、次から次へとやってくる苦しみに操られて生きているのです。