12/12/10 04:29:09.10 XUqzPSpk
>>100
なるほどー、俺も前はそう考えたよ。僭越ながら、説明させてもらおう。
「あるがままを見れば善悪は幻」というのは、勝義から見たときの話ね。
仏は、善悪の分別をするという衆生の理解に従って、善悪の二つを説く。
それは、悪を転じて善ならしめんとするために。
しかし、この教えを聞いて、「善こそ至高!悪こそ低劣!」のように、
迷いを深めてしまう者が出てくる。彼は、諸仏が、抜苦与楽の方便として、
「善悪」を説いたという理解がない。
「善悪」と聞くと、「善悪」なる実体がどこかにあると思い、善を賞賛し、悪を蔑む。
で、こういう状況にあった仏教界に対して、龍樹は、
世俗諦として説かれた「善悪」は、「善悪ならざるもの」を仮に善悪と呼んだということ、
それは、勝義諦として明かされる「善でもなく、悪でもない、ありのままの世界(涅槃)」へ
至らしめるための教法、筏だったと明かす。
以上のことから、世俗的、方便、仮説としての意味では、善悪の区別はちゃんと持ち続けてるよ。
一方、勝義から見れば、本来、非善非悪ね。このように、二諦によって複眼的に世を見る。
生滅の縁起(輪廻)と不生不滅の縁起(涅槃)も同じ関係ね。
もし、あなたがそれでも、混乱するなら、空の教えを聞く必要はないかも
一先ず、まだ、善悪を区別して、善行に励めばいいよ
それで、善悪に優劣をつけて苦となれば、空の教えを聞けばいいと思う