12/12/02 17:03:17.78 DVjRNLZZ
>>584
そういう問題はすでに釈尊を始め偉大な論師たちによって解決されてるよ
例えば『中論』18-6「諸仏は〈我が有る〉と仮説し、〈無我〉とも説き、
また〈我は無く、無我は無い〉とも説いた」
これはこう解釈される。世俗の言い習わしに従って世間で話す場合は「我が有る」と仮説し、
我執を壊すため「無我(アナートマン)である」とも説き、
勝義に導くため「アートマンなるものは無く、無我なるものは無い」とも説いた。
『中論』18-8で教え・法は四句という論理形式を取らざるえないと示し、
そして『中論』18-9は戯論寂滅した実相を指しています。
ですが、『中論』18-9という教え自体は他ならぬ四句という論理形式を取っています。
これが仮設に他なりません。
ですから、四句という仮設の教えによって、四句を遮断した中道を示し、
四句分別という戯論寂滅した実相・涅槃に導いているわけです。
これを空性の論証と考えたり、空性という見解を主張していると考えるなら、
それは明らかに四句分別の戯論の中にいることになるでしょう。
そして最終的勝義としては「ブッダは何も説かなかった」25-24です。
つまり、本当の勝義は戯論寂滅ですから、何も説くものはありません。
説くのは、単に世間的な言い習わし通り話すか、有情を導く教えとしてそれぞれに対して、それぞれ教え導いているということです。