13/12/29 19:04:33.83 KKMq5C0O
>>639
>テーラワーダの中道では基本的に苦楽の二辺を扱うのであって、なんでもかんでも二項対立するものを俎上にあげたりはしません
生と滅とか天と地、男と女とかね
釈迦が中道をガンガー河に流れる丸太に例えて説いている(相応部)
>こちらの岸に流れつかず (六根(六内処)に囚われることなく)
>向こう岸に流れつかず (六境(六外処)に囚われることなく)
>中流で沈みもせず (悦楽・欲望に囚われることなく)
>中州に打ち上げられもせず (自我の妄執に囚われることなく)
>人によって持ち去られもせず (社会性・人間関係(付き合い・同情)に囚われることなく)
>人でないもの(鬼神)によって持ち去られもせず (神秘主義に囚われることなく)
>渦に巻かれることもなく (五感による欲望にまきこまれることなく)
>内部から腐敗していくこともない (偽り・欺瞞を隠して生きることがない)
>ならば、海(悟り、涅槃)へと到達するであろうと説かれる。
↑では中道を苦楽の二辺いがいにもあてはめてとかれていますので、苦楽だけの中道をあつかっているという主張はおかしいですね。
いろいろな極と極にたいしての中道でないとおかしいですね。
あともっと根本的なことからもうしますと、大脳自体がもともと2極的に判断をするとこなんですよ。
大脳優位性(山下氏のいうシンキングマインド)の状態だと、とくにそれが顕著になるんです。
だから大衆は極と極に偏るということなんですが。
それに対しての中道ですね。小脳が関与してくるんですが。
そのうち暇があればかくかもしれませんが。