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参考にしたのは、陸士名簿1961年10月現在である。
1957年前後、岡田光玉は妻を離縁したと救世教幹部の同僚から指摘されている。
妻と離縁して4年後に書かれた、同期生名簿の次女「幸子」とは、実子で幸子という
人物なのか。それとも、養女にきた井上甲子(幸子)を指すのか。
しかし、同期生名簿をすなおに見ればずっと同居して今は亡くなった妻が、岡田光玉との
間に2人の女の子を残し、長女は嫁に行って別居だが、次女は幸子といって、父娘2人だけ
で住んでいるという家族構成だ。
何故、妻と長女の名は書かないで、次女だけ幸子と書くのか不自然である。
陸士名簿の額面どうり、幸子は血のつながった娘であったなら、おぞましい可能性も出てくるが。
成人してから養女にきた。と、くどいほど、「成人してから」という言葉が入れられるのも、
淫行条例を意識したような感もあって、はたして何才だったのだろうか?
恵手が養女にきたのは「成人してから」だというし、付き合っていたのは「未成年」からと捉える
のが普通である。「成人してから」が無ければ、そうはとらない。家庭不和があったということは、
よくわかる。
1957年前後、本妻が離縁された。 ← 救世教同僚の証言。
1961年10月、岡田本人は、妻離縁のタイミングからして、或いはまだ生存中かもしれない
のに、同窓名簿に「妻死亡」と書いている。
この2点から、長女は自分の母親がたたき出されて、「幸子」がのり込んできたのを、心良く思うはずがなく、
光玉のような著名人の死亡では、なおさら、教団の有名な跡目争いとは別に、実子長女と甲子(恵手)の間に、
財産相続争いが展開されると思うが。
何故、長女と妻の存在は、1961年~1974年6月23日光玉死亡に至るまで、都合13年間、抹殺
されてきたのか? 甲子の元の本籍・戸籍の解明は、教団紛糾防止には、本当は昭和50年当時もっとも
必要なものだったのである。