12/09/06 04:05:21.16 N1qHb1TA
死を、死の可能性を受け入れなければ、それに目覚めていなければ愛の可能性は無い。
恐怖から逃れるための逃避としての幻想である愛があるだけです。
死への恐れ、肉体の執着が根底にあるところの生は、あくまでその思考、執着の枠内のパターン化した生です。
思考のパターンの枠内の生はもはや死物です。
だから私たちはそもそも生きているとは言えない。
死を恐れないときにだけ人は生きているといえるのではないだろうか。
それを理解した先人は死への恐れを捨て、未来の寿命の可能性を犠牲にして、死物である生を放棄して、今真に生きることを選んだ。
死と喪失の恐れと肉体の執着が不在であるところに愛があり生がありうる。
また恐れからの出口、執着からの出口が愛であり、果断な生であると聞きます。
死の恐怖への直面は骨が折れます。
仕事や金銭に対する日々のかかわり方に直面することでもあります。
それには、研ぎ澄まされた知性と、勇気が必要とされます。
恐怖や執着に直面できず様々な些事に逃げたり、また他の課題に取り組むのもあるがままです。
そんな生活サイクル全体を見守ります。
死という幻想はたやすく直面できるものではありませんし、不意に出会っても用意ができていなければ再び抑圧して終わりですから。