12/09/04 21:22:06.82 Nc7cUgVP
>>297 続き
瞑想において自我が執着の集合であり、束縛そのものであると理解されはじめると、
自我は延命のために、束縛されている自分を否定し束縛されていない自分を夢見始める。
これは、表層意識上で悟りを目指すというのではなく、言語以前、宗教以前のレベルで、
束縛である現状を否定し、束縛がないという夢を見る思考が無意識で、自我において活動し始めるということである。
本当に自分を否定しておらず、本当に何の理想も目指していないなら悟っていないほうがおかしい。
しかるに、実際には無意識で自分を自我を、束縛を否定しており、何らかの理想を夢見ており、
そして夢ゆえに理想は実現せず、元の執着にあらたな夢、執着が加わり、より混乱する。
思考とは、あるがままでいい、このままでいい、と決してくつろがないのが仕事であり、
これは言い聞かせることではなく、各々の了解において、目覚めにおいて、ようやく静まりえるものだろう。
理想は、宗教、人格、仕事、異性、友情、金銭、あらゆる領域で、あるがまの世界を否定し、自らの本性と何の関係も無い
ことをやろうとしている。