12/08/24 09:29:42.04 n7+lMpTV
≫amaさん
≫あと、執着とひとことで言ってもいろいろですよね。
悟りへの執着があったのだが、それから解放された。
それは小さなものであれどサトリであり、ひとつの自由だと思います。
そういった執着が全て消え、あらゆることにおいて無欲であったとき、
その時は何かを欲しがっていた不自由に対する自由の感覚ではなく、
元々何も欲しがっていないという原初の絶対の自由があるといいます。
amaさんのいうのは悟りへの執着における、小さなサトリ。
後はその方向性でそれがあらゆることに、同時に浸透したとき、、。
≫悟った後で起こる二元的なことを指して言っているのでしょう。
二元的なことは悟りと関係ない、のではなく、二元的なことが終焉して初めて悟りが開かれるのではないでしょうか。
二元的なことが起きる余地があるということはあなたは、私も、2元性の世界にまだいることを示しています。
悟りは非2元性かもしれませんが、我々は2元性の住人です。
非二元の悟りと二元の領域を分割することは2元性です。
2元性の領域が消失する=無欲、あらゆる側面での執着の終焉
ことによって、非2元性しかなくなります。
それを悟りというのではありませんか。