12/08/11 04:41:02.39 l911R1Q7
≪ものという思い≫、これを実体視として取りました。
既に
「ものという思い=執着」
なら
「ものに「実体がある」という思い=執着」
なのは避けがたい。
後先?
これは同じものの異なる側面なのでしょうね。
執着は実体視で実体視は執着。呼び方と、見方の違いぐらいかと。
執着しないと実体視は起きないともいえるし、実体視がないと執着もないといえる。
でもどちらも偏ってますね。同じものの異なる側面。
瞑想に熟達しないとものに実体があるという思いという粗雑なものしか認識でき
ませんが、進むほどに、ものという思い
という簡素で繊細なものが深層の執着であると見出されます。
しかし、こういった引用よりも、それをこの時代に実際に見出して自分の言葉で
語るほうが大切です。
これは証明することではなく各々見出すことです。私のことは私が見出すしあな
たのことはあなたが見出します。
わかってるひとは多分あまり語らないのでしょうね。というのも、誤解されると
分かっているから。
わかってなく知ったかぶっている部分があってこそ、目に見える誤解の可能性に
盲目だ。
このあたり自戒です。