12/08/11 02:05:17.11 l911R1Q7
完全に精神が静寂しない限り、普段私達が意思だと思っているもの、決定だと思っているものは、
「条件付けられた欲望の中で一番強いもの」でしかない。
基本的なことはわれわれは何一つ、何一つなすことはできず、無意識の欲望、外界の状況に左右されて
行為や思考や感情が起こるだけだということです。
何一つ自分の意思では行っておらず、行うこともできない。
できることは、起こることを見守ることだけです。
そして、起こすその主体の起源を理解する、それに目覚める、それを静めることによってのみ(悟り)為すことができるようになります。
それまで起こることを見守ることしかできません。
そして見守ることによって起こることそのものが変化してゆくでしょう。
何かしようとすることは起こることのメカニズムを抑圧したり分断したりしてより混乱を強めること意なるだけです。
そして、見守られていない心は宗教において戒められているような行いを起こしますし、見守られている心は
そうそう愚かな振る舞いを起こしません。
宗教における道徳というのはこうしなさい、ということではなく目覚め見守っているならこういう行為が起こるし、そうでないなら
ああいう行為が起こるという、ある種の科学的観察であり、善悪を述べているわけではないでのでしょう。
≫ノスさん ペケさん
というわけで、「あえてやったのです」などと、条件付けられた欲望や思考が起こしたに過ぎない言動と同化することはないと思います。
私達は何一つあえてすることなどできません。
できるのは心を見守り、一番ましなことが起こるように促すことぐらいのものです。