12/08/10 23:36:41.37 s0MMqIfx
思考は物事を2分して、仮想敵を、問題を作ってから、「どうしよう」「こうしよう」と考える。
自分のルールで生きる障害を作り出してからどうやって生きようか考える。
死にたくないから働かないといけない。
宗教的、社会的、文化的理想のために活動したい。
物事を最適化、効率化したい。
この3つはそれぞれが争い主導権を争う。どれがいいかどれかひとつにできないか迷う。
しかし、各々の3つが在るがままと対立し、各々の苦しみを生んでいる。
どれか、ではなく、どれも苦しみを生んでいる。
だが、3つどうしが対立していると、3つとも苦しみの種だとは気づきにくい。
oshoは祝祭の生を唱える。自分自身を祝いなさいと。あふれ出る泉のような生でありなさいと。
この表現は全ての疑問に答える。
3つのどれにも囚われず、だが3つの方向全てにあふれ出る泉のような生。
祝祭の生。他者を必要とするのではなく、自らを祝い、それは歓喜となって、行為となって、無心の知恵となって広がる。
祝祭に在っては広がる。3つのうちどれかを選ぶという問題はない。