12/08/09 19:50:59.00 Hi0G2gS/
自己保存の法則は
己を自動的に無我へと誘う
無我とは肯定の意ではなく
無我では駄目だという意
343:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:02:13.31 PrjVfoxG
レスが
凄い流れになって来ましたね、、、、。
私は確信に迫ってきていると感じています。
無って圧倒的なんだけど
全て超越した気分になるんだけど
創造の潜在的可能性、
神の臨在前の無でなければ
単なる空っぽってことじゃん、なんもねーって空虚、虚無になっちゃうよ
344:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:05:59.89 fVyCLJw9
なんもねーって言ってるのは何だ?
空っぽだったらそんなこと言える道理がないわけで、ってことですよね…。
345:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:11:44.47 PrjVfoxG
無から生まれたと思うよ、そりゃ
だけどそれは神の属性である創造性が作用して
無から万物が生まれたのであって
無が完成じゃなく
無から神の臨在がおこるという
一連の流れを理解していないと
無は人々を虚無におとしいれちゃうんじゃ?
346:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:17:49.30 fVyCLJw9
はっきり言ってしまえば、無我も自己も同じでしょう。
無我とは他人がいない、当然自分もいない、(?)とは大いなる自己という…。
347:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:23:04.45 owN2IdLa
なんか神が湧いてるしw
348:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:23:23.86 PrjVfoxG
>>346
傷ついても、泣かされても安らぐ場所が心の奥に(絶大に輝いている、それ)に気づいていれば恐れは少しずつ消えていく。
そしていつの日か永遠のそれ!を体感する…。
あなたの言っている、それこそ、それを体験できたら
私の言っている神の臨在とは、あなたの言っているそれのことです。
349:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:29:37.03 YX5XrDcw
なんか、宗教みたい~
350:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:30:28.35 192R8xkf
いやいや
目をあけて見ていても、
見えてない人だろうね。
>>340
> 問題があったとして
> 他人を攻撃しても輪廻するだけである
> 他人の否は他人の問題
> 己だけを深く振り返った時
> 己の欠点が見えてくる
351:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:31:28.40 15OC51HM
そりゃ道教だっぺ
352:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:32:43.08 YX5XrDcw
すっごく、浅いねー
353:神も仏も名無しさん
12/08/09 20:37:49.04 15OC51HM
どんな宗教でも専一すれば深いんだが、
言葉だけ初歩の修業法だけ取り入れるのがカルトの特徴。
354:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
12/08/09 20:56:24.31 E3leEWgw
>>299 携帯は持っていないのじゃ。
愛は集荷しなくて良いのじゃ、与えればいいのじゃ。
>>300 12因縁も四聖諦も全ては観察するためのものなのじゃ。
観察と言う法が失われたために、それが知識だとか、お釈迦様はそれを悟ったのだというおかしな解釈が広まってしまったのじゃ。
その教えの通り観察すれば苦は滅し、悟りは向こうから来るのじゃ。
>>301 特に関係は無いのじゃ。
ただひたすらに自己を追求するのが悟りへの道なのじゃ。
時にはお釈迦様のようそのために家族をも捨てなければならない事さえあるのじゃ。
>>303 1日1日を大事に生きると良かろう。
明日を思わず、昨日は忘れ、今日だけを生きる積りで修行に励むのじゃ。
その一日が積み重なれば、いつのまにか習慣が身についているものじゃ。
身の回りのいろいろな物を観察してみると良かろう。
思考と観察の違いが良くわかるようになるじゃろう。
355:鬼の腹は見え見えだ!
12/08/09 20:58:18.38 192R8xkf
鬼和尚は示して白く
無我にして良し
ならば
すでに《悟りし人》、
さらに
進みて己が本懐を得るべし。
思いて
人一人万人を
救いし《悟り人》になれ
と
しかして
南無南無じゃ
と嘯く!
356:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
12/08/09 21:00:10.01 E3leEWgw
>>307 特に楽しくは無いが人の心理を知るためにいろいろみるのじゃ。
現実もまた仮設されたものに過ぎないのじゃ。
言葉にもイメージにもできないものを知れば、真の現実を知った事になるのじゃ。
その楽しみを失うのがなぜ怖いのか原因を探してみるのじゃ。
考えるのではなく、観察して心の中にある原因を探すのじゃ。
357:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
12/08/09 21:15:05.87 E3leEWgw
>>311 そうかもしれん。
>>317 そうじゃ、自らの心の中に観察した時にのみ、苦は滅するのじゃ。
それが真のお釈迦様の教えなのじゃ。
>>319 できるじゃろう。
依存は観察によって容易に断ち切られるのじゃ。
358:神も仏も名無しさん
12/08/09 21:20:47.39 FmvgCs6Y
>>345
もし無が無なら
何も生まんよな
ノス
359:神も仏も名無しさん
12/08/09 22:15:14.35 Hi0G2gS/
目に映る物を観察で追ってしまえば
いつの間にか己は棚の上にあげられて
我が無くなってしまう
己の心に映るものを観察し追うことにより
我は窮地に立たされ姿を現す
360:ベゲザン
12/08/09 22:17:44.98 OlSulX+q
①「私」という主語が神を考えているというのと②神を考えているのは「私」という主格である。というのは似ているようで決定的に違う。
論理上①の場合神について考えるべく「私」を創ったのは神である。②の場合神について考えるべく「私」を創ったのは神であると考えてい
るのはあくまでも「私」ということになる。より正確には、考えているのは「私」という神なのである!
361:神も仏も名無しさん
12/08/09 22:38:41.33 15OC51HM
乾屎けつ
362:神も仏も名無しさん
12/08/09 22:49:48.03 PrjVfoxG
>>360
ベケザンさん、
360のレスがとてつもなく凄いこと言ってるように感じちゃったのですが
まだモヤモヤしてるので
詳しく教えて下さい
私は神について考えている
私が神について考えている
の違いからってことでしょうか?