坐禅と見性第87章スレ違うも他章の縁側うとうとat PSY坐禅と見性第87章スレ違うも他章の縁側うとうと - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト18:野孤禅スレです 12/07/28 06:56:14.93 RCteMLHc 言葉の軽いポッタン語録の中から、もう少し拾ってみよう。 ポッタン曰く「ほとけとは、さとりである。さとりとは平等である。平等とは無我である。無我とは一如である。一如とは如来である。 如来とは如である。見性とは、悟りと涅槃、現代語では平等と自由。また、無差別と主体性と言えます。禅のさとりは、一の如しですが、無分別とも言います。」 こんな能書きの類を言ってるうちは、全くの落第である。 これが30有余年間の集大成の言葉と言うのだから、実に進展の無い禅生活を送ってきたもので気の毒で哀れとしか言いようが無い。 どの師家に持って行っても、その初心者レベルの未熟さを瞬時にして見破られ、棒喝にも値しないと、追い返されるのが関の山である。 しかも、30有余年禅経験の結論です、などと言おうものなら、それだけで参禅入室を許されないのは勿論、読本は一切禁止、その上、只管の坐禅修行を命じられることだろう。 先に、ポッタンは眼横鼻直が分かっていないと指摘したが、そもそも、ポッタンは、自由、平等だとか涅槃などの仏教語を全く分かっていない。 お馬さんのケツを追い回し、取った取られただのと我欲に振り回され、我執に縛られたまま真の主人公にも会えず、二元相対の既成観念に囚われているものに、自由もなにも分かる筈が無い。 真に自由が分かっているならば、固定した観念に囚われた言葉などを繰り返し使う筈が無いからである。 また、人一倍、悪知悪覚の有無得失是非善悪などで区別する分別心旺盛で、しかも見性もない故、平等性智が発現しておらず真の平等など分かるはずが無い。 ましてや、自己顕示欲、虚栄欲、我欲など、煩悩の嵐が吹き荒れ、一瞬たりとも心休まることが無いものに、涅槃の境地などチラッとでも味わったことは無い。 そんな、言葉と心境が全く懸離れて見性も知らぬものが、「悟りとは・・・・うんたら、見性とは・・・・かんたら」と素人衆を相手に偽の説法である。 ポッタン野孤禅の正体を知った賢明な諸氏には、そんな薄っぺらい説法を真に受けることはないと思うが、 傲慢、増上慢この上なく素人衆を誑かすこの所業は、仏法を汚し冒涜する重罪であり、昔の修行僧なら、山から追放され、二度と山門を潜ることは許されまい。それどころか、簀にぐるぐる巻きにされ川に放り込まれても仕方あるまい。 いずれ地獄に落入って贖罪しなければならない罪業ではある。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch