12/07/19 11:53:58.32 NzqTN5/o
このスレの主はamaです。
ご質問は、できるだけ日常の言葉を使っていただけると助かります。
*前スレ
悟りを開いたことあるけど何か質問ある?14
スレリンク(psy板)
≪ご注意≫
amaが申し上げる「悟り」は、
一般的に言われている「悟り」とは違うかもしれませんし、
仏教で言われている「悟り」とも違うかもしれませんので、
誤解を避けるために「ほげ(hoge)」という言葉を使いたいと思います。
2:神も仏も名無しさん
12/07/19 11:54:46.25 NzqTN5/o
以下、ほげの解説です。
ほげを見出しても、何かが無くなったり出現したりはしません。(執着しかり煩悩しかり)
無くなる現れる、増える減る、などは二元です。
こうなるああなるも、ならないことに支えられていますから、やっぱりこれも二元です。
ほげは、そのような次元のものではありません。
もちろん、ほげることで精神に何らかの変化が起こることもあるでしょう。
ただそれは、どこまでも、もともとあるものが変化するだけであって、
無かったものが現れれたり、あったものが消滅したりすることではないのです。
たしかに、何かが強くなったり弱くなったりすることはあるかもしれません。
でもそれは副産物であり、おまけのようなものです。
ほげ自体(一元)と、ほげったことで起こること(二元)とは、まったく別の次元のことです。
二元的な変化をほげと申し上げているわけではないということです。
また、ほげった結果起こることは、人それぞれであり、決まってこうなるというものでもありません。
一方、ほげを見出していない人が、ほげった人の表面に現れた何らかの変化を見て、
「ほげるとこうなるのか」のように誤解してしまうのは当然のことでもありますから、
文献などにそれが書き残されることもあるでしょうし、口頭で語り継がれることもあるでしょう。
ほげを見出していない人がほげを分かろうとするとき、
一番頻繁に起こることが表面に出たものだけを見てほげを判断することでしょう。
そのようにして、一般的なほげ(悟り)の解釈や、仏教の一部の宗派でのほげ(悟り)の解釈が生まれ、
現在も引き継がれているのでしょう。
さて、このようなわけで、私の申し上げる「ほげ」は、
貴方の中では、別の単語かもしれません。
くれぐれも誤解の無いようにお願いいたします。
3:神も仏も名無しさん
12/07/19 11:55:49.55 NzqTN5/o
amaさんが述べている内容のガイドライン。
(内はコテ473)他はamaさんの言葉。
amaのいう悟りは仏教で言うような(「体などへの執着の消滅した境地」「苦しみは存在しないと見出す」 といわれるものではなく、)
「執着に苦しまなくなる」というものです。
(> 執着が残っている状態で、あくまでこれまでの経験を背景としてるとはいえ知的な理解で
> 悟りをわかっているように語るのはいかがなものか。 )
いえ、ですから悟っても執着が消えたりはしないと申し上げています。
何かが消えるとか消えないとか、そういうことではないのです。
***
適度な執着は人生をとてもバラエティ豊かでダイナミックなものにしてくれるのに、それを消すなんてもったいなくないですか?
(> 悟りへのイメージは自我が作るだけで、イメージがること自体がもう執着であるといえないだろうか。 )
おっしゃる通りです。
(> なんでもない、何も求めず、何も名づけない状態。それを悟りとただ呼ぶのが悟りという言葉の用法だったかもしれないということです。 )
私は、認めることが出来ないもののことを悟りと呼んでいます。つまり、悟りは無いのですね。
(それと執着があることは矛盾しません。悟りは存在しませんが、amaに執着は存在すると彼は明言しています。)
4:神も仏も名無しさん
12/07/19 11:57:13.58 y0U1J2cD
スレ立て乙(はやww)
前スレ
>「ほげ」の語感がなんか好きだw
>「醒得」の読みを(ほげ)にしてくれwwwww
wwwwww それ、いいかもww
5:神も仏も名無しさん
12/07/19 11:57:45.21 NzqTN5/o
以上、仮のテンプレになります。
皆さんで協議してゆきましょう。
6:ろん
12/07/19 11:58:11.47 lrvUdFUt
スレリンク(psy板:981番)
いまさら何をレスしたいのだろう?
町野さんが言っている説明と同じ説明を何度もした。。
あなたはわからなかった。。
だから、僕はあなたと対話することに意義を感じないのだが。。
自分の好きなようにすればいいではないか。。
こっちの言うことに聞く耳を持たないのだら。。
思い込んだようにすればいいだけ。。
7:神も仏も名無しさん
12/07/19 11:59:21.39 4YEv66r8
スレたて乙ですー。
8:神も仏も名無しさん
12/07/19 12:03:31.21 oWsZwIAw
ほげ ほげ たら たら ほげっほげ 愛してる♪
どろろが一休さんになったでござるの巻w
9:473
12/07/19 12:04:03.09 NzqTN5/o
要点は、
悟り=ほげ
ほげ(悟り)
という主張であり、amaは言葉を変えただけで全く同じ主張をしており、
その空気の読めなさと夢の強固さをあらわにしたということ。
ほげについての説明ほとんどなし。悟り=ほげ ほげ=悟り 以外になにか説明があったっけ?ww
これに気づかないような実践者は実践者失格かも。
前スレ>>954
amaに限ったことではないけど、観念論者は自分のことを実践論者だと思っている。
実践論者自身が思うのよりも何倍も強く。
観念論者は実践論者を否定することでしかその観念を保てない。
だから、観念論者が実践をしってるふりをして実践論者を否定したり諭そうとして優位に立とうとするのは自然現象であるといえる。
そして外側にいる観念論者は、他ならぬ私自身の自我のトリックを映す鏡。
外側の人の意見にかき乱されるということは自身の自我が同じトリックを使って自分を騙そうとしようとしてるということ。
自分自身を騙していることに気づくほど、他者のそれはただただ、関心を失ってゆく。
10:神も仏も名無しさん
12/07/19 12:04:35.60 O41sXVUk
「ほげ」を五段活用したときのおもしろさはガチw
11:ノスタルジア
12/07/19 12:07:55.31 +WR/X2or
シャンバラ空洞説仮説についての私論。そもそも「地球」とは科学的概念であり
そこから生まれ展開された空洞説は僕が応用すれば、ようは行動による観察
のフィールドのどこかに、または3Dの観察フィールドのところに入り口は
現れるのだ。前者は操り人形という皮肉な行動というものによる背景であり、
後者は3Dという脳とパソコンの融合における想像という背景である。自然と
してか分からないが、背景が重要なのである。私たちは背景を必ずこの世界
に限らず、何かどこかで見ている。知識が好きな人は夢で、多種のアカシック
レコード的なものを見るだろう。空洞説も熊楠師匠によれば、物不思議に由来
する付随の概念であり、ということは心不思議としての、心としてのシャンバラ
というだけではだめで、心不思議とシャンバラを付随させる概念必要であります。
そうしないと事不思議つまり事象にまで結びつかないのであります。数学を用いる
科学である物理学が全体把握する、良い学問だとするならば、心にシャンバラを
見つけていない状態にいる私に、物理学的見地である全体把握は、消えるという
現象を私には起こしてくれないだろう。全体把握による規制トラップは無意味
である。続く。
12:神も仏も名無しさん
12/07/19 12:12:01.39 O41sXVUk
冗談はさておき、脱力感があって、何のイメージも起こさせないという意味では、
「ほげ」いいとおもうなぁ
13:神も仏も名無しさん
12/07/19 12:14:25.43 oWsZwIAw
>>1
>誤解を避けるために「ほげ(hoge)」という言葉を使いたいと思います
スレタイで思いっクソ誤解させてるしw
14:ノスタルジア
12/07/19 12:18:00.82 +WR/X2or
言葉における方程式など無数にある。よって私がシャンバラの入り口にまで
辿り着く方法も無数にあることになる。しかし神の方程式ってあると思う。
なぜなら「神の図形」って本があるように・・・。何度研究しても新たな
発見が得られる作品ってあると思う。言葉の列挙<羅列<方程式だな。
心不思議に由来する付随の概念についてとりあえず回答を一つ提示したいです。
「ドーム」という概念はどうでしょうか?ドームには出入り口があり、そこから
シャンバラに行けるのです。現実空間は一施設にすぎないということです。
空洞説とドームの組み合わせによる認識により初めて、シャンバラに事象と
していけるのです。東西南北、四方には地平線があるとします。地球は球体
だから、地平線である四方の四点を結ぶとドーム型の地球の部分が出来ます。
地上の地下にシャンバラがあるとするならば、私の立っている今ここが、
現実空間の中心であり、シャンバラの本当の入り口であるのです。僕が消える
というのは逆の地涌の菩薩だなこりゃあ。
15:473
12/07/19 12:25:05.00 NzqTN5/o
前スレ>>954
他者からの認証も否認も当てにしちゃいけない。
それは自分自身が気をつけてあるためのスパイスとして有効だけど、本当のことは分からないし、
その言葉を聴くのが自分なんだからそれがまた当てにならない。
ひとついえるのは自身の理解は、どこまでも相対的な観念と違い、理解していない他者という相対的な犠牲者を求めないということ。
16:473
12/07/19 12:38:00.74 NzqTN5/o
>そのようにして、一般的なほげ(悟り)の解釈や、仏教の一部の宗派でのほげ(悟り)の解釈が生まれ、
現在も引き継がれているのでしょう。
amaのほげが、あらゆる悟りの精髄であるという主張だよね、これ。
本音だだもれ。
17:神も仏も名無しさん
12/07/19 13:23:37.37 J4rqo8Qz
>>6
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
そうですね。 ブログを少々読ませて頂きました。
レスすることも ブログを読んでの判断もする必要はなさそうですね。
どうも長らくお手を煩わせてごめんなさい。
このレスも含めて、今後私の書き込みを見てもどうぞスルーしてください。
18:神も仏も名無しさん
12/07/19 13:29:41.17 8jz0VLFW
スレタイ「ほげ」で検索してたら見つけるの苦労したぜ。
19:神も仏も名無しさん
12/07/19 13:51:59.87 J4rqo8Qz
>>9
そうですね。やたらと否定ばかりでしたね。
ブログを数時間読みましたが、
既に誰しもが悟ってる。
だから修行やら二元やら一元やらは余計なことでそのまま何もしなくていいそうです。
「諸法無我」
「禅・仏法は、理解するものではない」
「聞いたもの、知ったもの、解ったもの、も禅ではない」
「そこに人の介在はない」
そして矛盾も平気で言うそうです。
弟子「悟りとはなんですか?」
師匠「そのまま」
弟子「そのままですか」
師匠「違う」
とのことです。これまでの事をすぐに判断せずに味わっていこうと思います。
朝にろんさんのレスを観てから身と心の分断を観ました。 洗濯物を乾かしてるときは危険ではないのですが、運転してるときは正直、不安でした。
それからしばらく坐ってそれらを味わいました。
こんなこというとまたあれですがお陰で良い修行になりました(良いも悪いもないのですが)
>>15
そうですね。当てにしないようにします。
20:473
12/07/19 13:52:41.27 NzqTN5/o
私はわかるが彼はわからない。
彼はわかっているようだが私はわからない。
これは2つあわせてひとつの現象でしょう。
自分がわかっていると思うことと、ああ、彼のいうとおりだと思うことに大した差はない。
結局それは彼ほどではないが自分も他の人よりはわかっているという方向に進む。
そして、私と彼、彼と私という関係そのものが自我の雲に覆われている。
この前提から発したあらゆる会話は自我からの出発であり、自我か、自我の2乗であるより非現実的な想像以外の産物を生まない。
必ずより間違った他者か、より間違った自分というイメージに意識がいってしまう。
その時その意識の主体は自我であり、本性は忘れられてしまう。
間違った何かに対してではなく、単純に自分自身に覚めるという質。それが瞑想であったはず。
親密な関係、差し迫った状況でのみ、私とお前というかたちで叱責することもあったろう。
祖師は中心に投げ返した。祖師は誇りを与えた。
祖師は弟子にとって他者の役割ではなく、弟子自身の潜在性を映す鏡であった。
自我が不在なら、他者の理解も、誤解も不在であってしかるべきだが、まだ目に付くというのはそれがまだ私の本音なのでしょう。
21:473
12/07/19 14:00:38.16 NzqTN5/o
観念論者同士も、要は互いにそうではないんだよと言い合う仲です。
一見敵のようでいて、それは互いに依存しています。
そういう論争あってこそ、自己の苦しみから逃げられますし、何者かと思うことができます。
そこに逃避せざるおえない人々は、そうあるのであり、それは彼らの問題です。
矛盾しているというより、何においても直接、微妙なnoをつきつけるので、結果矛盾するでしょう。
あなたと釈迦はひとつなのですと、町野さん言ってましたが、
肝心の町野さんと質問者の間に壁を作っていました。
私とあなたという幻影を強化する人は師ではない。
師は、面白いことに私の、あなたの、潜在的可能性。内側の本性にもぐりこむ。
かれは他者として捕まえられない。
そんな風に私もまとまりました。きっかけに感謝を。