12/07/08 13:42:18.18 O8E0iCQ1
>>474
目覚めのほうは対象として存在するわけではないので、目覚めた人であってこそ
自らのまた一般的な、眠り、欲望について自らの言葉で
現代語で語る事ができるようになるでしょう。
目覚めの一瞥にも体験は副産物としてありますが、想像上の瞑想、解放の夢の体験のほうが
体験としては強烈だったりするので、体験そのものはこれと特定できるものではないですね。
体験そのものではなく、物事の認識がそれまでと変わってしまうのです。
過ぎた体験ではなく永続性のある「小さな」変化の事です。
1500分の3だけは目覚めているので(小さな変化)それが中心となって広大な欲望の群れを認知し始めます。
それまでは自らは欲望そのものなのでけっして欲望を直接認知できません。
できるのは自らでなく、対象としての欲ではない自らであるところの欲望でなく、
想像上の悟りや、想像通りできる体験について語ることだけです。
束縛された精神は解放の夢に憧れ、その通りの体験ができます。
あとはその体験に経典の概念をこじつけて当てはめれば精神は自らを偽り延命できます。
もう得たと思ったらそこまででしょう。
それが決定的な差でしょう。
それにそもそも悟りの段階と言ったものがあるわけではないのです。
それは過渡期としての夢です。
(と言っても私にとってたとえば4段目は幻ではなく、あるものとして映るのです。それは4番目じゃないからですねw
このへんの逆説)