12/07/08 12:20:20.65 FP1hrA/6
>>422
>>既に行い、預流果を得ました。
> 本当に得た人間はそのように語らないでしょう。
語る語らないはその人の選択です。あなたの選択ではありません。
必要と感じれば、「語るときもある」ぐらいです。
また、果を得たときは「果を得た」との知見が生じます(解脱知見)。
ただ、ここでいう得るだの生じるだのは仮の我の上の話であって、
本当のところは何も得ず、何も生まれていません(無生法忍)。
ちょうどいいことに、認識者と認識されるものの関係については、
amaさんが>>431でやりとりされているので、是非そちらも参照して
ください。
特に、以下はとても鋭いと思います。
> 認識者がいることを前提に出発してしまっているのですね。
自らの果がまだまだ駆け出しなのを思い知るよい機会でした。