12/07/08 00:58:55.85 O8E0iCQ1
409の補足
世間の無数の価値観で自らを否定し苦しむ事が私。
世間を否定して世間と対立することが私。
両者の葛藤が私。
というようなものがあるわけではないのです。
精神の一部が静まった後で、ああこれが静まったんだなと言う事はできます。
幻は静まり、幻だと認識できたものを描写する事はできます。
しかし、無意識を考察し、それを探しに行くのは依然として精神の働きであり、精神の既存のパターンを強化するだけです。
それを聞く人も、そういう幻を幻として見つけようとしたり消し去ろうとしたりしても、精神が作り出す2重の夢にはまってしまいます。
精神の働きを自覚するそのきっかけとして、我々はこうこうこれと言った無意識の影響を受けているという事はできます。
しかし、それは探しても見つからないし、止めようとしても止まらない。
私、精神そのものが静まれば静まったのはこれであったと言う事ができるだけです。
それゆえに金剛経では、なになにというものはない。だからこそなになにというのだ。
と表現しているのかもしれません。
>>414
苦しみ、執着、無意識、混乱
それらがないと主張し続けるのは何故でしょう。
本当に無いと思っているのであればそれほど必死に否定する理由はないでしょう。
本音と逆のことを主張するのはだれしも。