12/07/07 17:12:00.43 PqVoEm0A
>>371
精神が精神の混乱を認めなくないので、それを「ない」といって否定するケースは非常に多いのです。
意識や悟りが「ある」といって逃避するケースも多いです。
両者は同じことをしているのですが言葉の違いで言い争い、自己の混乱を投影しあい、
お望みどおりの混乱からの逃避が完成します。
精神が混乱していなければ、精神が完全に静まっているのでしたら真理を見出していないという事はありえないのです。
ほかに何の障害も提示されていません。(仏教的には)
人は自分自身の精神の混乱や、作り出している種種の苦悩を見たくないから、さまざまな手段でその直面を妨げようとします。
他人への好意、他人への悪意、快楽、ゲーム、ファンタジーいろいろありますがこの場合は宗教的なある―ないの観念です。
精神の混乱がなければ、精神が鎮まっていれば真理との障壁はなく、真理を、悟りを見出しているでしょう。
然るに精神が混乱していると気付き、それをただ見守る事が瞑想です。
混乱していないと思い、かつ真理を見出していない人は、混乱に気付いてすらいない。
気付く用意すらできていないというだけです。
確かにそういう人の主観としてはそういったものはない。ないという哲学に固執する。
宗教をそういうように利用します。
混乱した精神の特徴は、自分が正しく相手が狂っているとして物事を投影する事です。
混乱した精神の持ち主は自分が非常に正常だと感じています。静かな精神は自分も他人も正常だとも間違っているとも感じません。主観的な価値基準が静まっているからです。
混乱した精神そのものには決して自分自身が混乱しているという事を見る事はできません。
混乱した精神以外の何かの働きがあるのかもしれませんねw