12/07/07 11:01:26.92 PqVoEm0A
>>amaさん
非常に微妙な話なのですが全容が見えてきました。
あるがまま-あるがままでないという言葉を例として使うと(あらゆる概念が当てはめられあらゆる概念は対立軸があります)
①執着と恐怖の集合体である精神があるがままという知識でそれを想像することで、精神は生き残る。
②かといって自らをあるがままではないと裁く事でも、精神は生き残る。
その両方を自覚無自覚にかかわらず代わる代わるやっている気がします。
全容を理解すれば、対立軸を作る概念に頼るという事をやめるのでしょう。
また、その中間点として、もし瞑想というものが起こり、意識というものがあり、かつ精神が完全に鎮まっていないなら、
その人は自らのうちにあるがままの意識とあるがままでない態度の精神を両方見出すでしょう。
かれは意識のあるがままの働きを良いものとして出なく事実として語り、あるがままでない精神の働きを悪く言わず事実として語り、
全容に目覚める事を語るでしょう。
これは中間地点として重要なのかもしれません。対立軸のある概念を使って、限界まで対立させず客観的に語ろうとしてますが、
結局のところ精神と対立軸から逃れられるという事はないでしょう。
前述の概念の放棄に落ち着くでしょう。
私は概念を放棄していない。かといってそれを責めるのは概念。
概念を放棄しようとするのも概念。
どうしようもない。