12/07/07 10:01:06.94 PqVoEm0A
>>327
恐怖
感覚への執着、苦痛への恐怖、人間関係への執着、家への執着、家族への執着、仕事への執着、権力、金銭への執着
快楽への執着があります。
これらへの執着はそれがそっくりそのまま慢性の恐怖になっているでしょう。
死そのものだけを怖がる事は仰るとおり不可能です。
これらへの恐怖全体をよく見もせずに「死の恐怖」と名づけがちですが、良く観察すると
執着と恐怖の集合体のように思えます。
これが鎮まる事によって見出されるのが悟りと定義されているように思います。
>>337
前スレッドで言葉の定義についての考察があります。
悟りといわれているものという伝統的な定義があるのです。
その伝統的な定義を無視して悟りという言葉を使うのは何故ですか?
自分の言葉、現代語、日常用語の範疇で語られれば良いのではないでしょうか。
「感じない」というのは「感じてしまう我々」の「想像」であり、仰るとおり「2元性」です。
我々にとってはそうですし、amaさんも二元論を作り出してしまいました。
感じてしまう我々にとって、感じないことは二元生です。しかし、感じる主体が存在しなければ、感じることと感じないことの区別が存在し得ない。
(というようなことを言ってるんです。このへんは私に理解しかねる事です。)
翻って、彼らはあらゆる区別がなく、認識はなく、認識者は無いといいます。それゆえに無上の完全なる悟りだといいます。
悟り、は仏教の用語としての特色が強いので、金剛、般若心経の単行本を読んで、
本当に悟りという単語を使うのが適切かどうか調べてみたらいかがでしょうか。
自分の思っているものと違ったら悟りという単語は使おうとしなくなるでしょう。
そういう伝統と定義のある、悟り、という言葉なのです。
たかが言葉ですが、定義を無視した用法に固執するのは何故ですか。
どういった執着でしょうか。