12/07/06 08:40:12.65 8h+7SUQ+
>>263
それはなんともいえない事です。
恐怖を現に感じてしまう私たち自身がそう推論する事はできますが、依然として恐怖しているという現実があるのではないでしょうか。
あるがままに私たちは死を恐れていればいい。それに抵抗する事がいっそうの恐怖を呼ぶというのは悟りに通ずる態度に思います。
しかし、また、あるがままでない、区別があるからこそ、生死の区別をする主体とその恐怖があるともいえるかもしれません。
そして生死、とは直接的な死だけではなく、金銭的な不安全般も指すでしょう。
私は死を、感覚的苦痛を恐怖しています。
その恐怖は現実であり、その恐怖と戦うことは強めるというのは知恵でありつつも、
既に何らかの真実と闘っているからこそその恐怖が在るという実情でもあります。
どの道何らかの無知、あやまち、思い込みを自分のうちに見出さなければ現状の変化はありそうにないです。
「死は存在しない」
というのは私たちは生死と、それにまつわる権力を区別しており、それを欲し恐れているが、
その区別と区別する主体がなければそれは単に区別されないし区別する人もいない。
「生きているうちも感覚への恐怖がなく」、自分自身が正に体を焼かれる際も体という思い、死という思いがわかない。認識が現れない。
そういった表現であったと自分では思います。
>>263
それでamaさんは、死という認識と、認識する主体、それにまつわる思いが消滅して悟りと言ってるのかなと。
それに逆らわないという事は瞑想ですが、それがあるということは自分のなかにあるがままの態度でない部分が厳然として存在する事を意味しています。
想像の中に存在していればそれは私たちにとって現実なのであまり慰めになりません。
想像の中にあるということを現実といい、想像がないことを真実と言うのではないでしょうか。
あるがままでないものを見出す事があるがままへの道に必要なものの一つでしょう。
それにばかりとらわれるのも変ですが、実情に無感覚になるのもいただけない。