悟りを開いたことあるけど何か質問ある?13at PSY
悟りを開いたことあるけど何か質問ある?13 - 暇つぶし2ch264:神も仏も名無しさん
12/07/06 08:40:12.65 8h+7SUQ+
>>263
それはなんともいえない事です。
恐怖を現に感じてしまう私たち自身がそう推論する事はできますが、依然として恐怖しているという現実があるのではないでしょうか。

あるがままに私たちは死を恐れていればいい。それに抵抗する事がいっそうの恐怖を呼ぶというのは悟りに通ずる態度に思います。
しかし、また、あるがままでない、区別があるからこそ、生死の区別をする主体とその恐怖があるともいえるかもしれません。
そして生死、とは直接的な死だけではなく、金銭的な不安全般も指すでしょう。

私は死を、感覚的苦痛を恐怖しています。
その恐怖は現実であり、その恐怖と戦うことは強めるというのは知恵でありつつも、
既に何らかの真実と闘っているからこそその恐怖が在るという実情でもあります。

どの道何らかの無知、あやまち、思い込みを自分のうちに見出さなければ現状の変化はありそうにないです。
「死は存在しない」
というのは私たちは生死と、それにまつわる権力を区別しており、それを欲し恐れているが、
その区別と区別する主体がなければそれは単に区別されないし区別する人もいない。

「生きているうちも感覚への恐怖がなく」、自分自身が正に体を焼かれる際も体という思い、死という思いがわかない。認識が現れない。
そういった表現であったと自分では思います。

>>263
それでamaさんは、死という認識と、認識する主体、それにまつわる思いが消滅して悟りと言ってるのかなと。
それに逆らわないという事は瞑想ですが、それがあるということは自分のなかにあるがままの態度でない部分が厳然として存在する事を意味しています。

想像の中に存在していればそれは私たちにとって現実なのであまり慰めになりません。
想像の中にあるということを現実といい、想像がないことを真実と言うのではないでしょうか。

あるがままでないものを見出す事があるがままへの道に必要なものの一つでしょう。
それにばかりとらわれるのも変ですが、実情に無感覚になるのもいただけない。

265:神も仏も名無しさん
12/07/06 08:53:51.63 8jF2nAhn
絶叫して死んだとしても一瞬
苦しみがどれほど続くかわかりませんが
できれば眠るように安らかに死にたいですね
ジェットコースターが降りる前の心境でしょうか
この心境の克服が今生の課題かと

266:神も仏も名無しさん
12/07/06 08:57:18.00 2S78/joZ
ただ坐るだけなら、死んだ人を目指すようなものなのです。

肉体が本当に死んでいる人を形だけ坐らせる
生きていて死んだ人のように無になろうとして坐る

生きていてただあるがままに坐る(只管打坐)
生きている肉体とただの肉片との違い

肉体が自分ではないことが分かるはずです。

267:神も仏も名無しさん
12/07/06 09:08:02.84 8h+7SUQ+
>>263
ただ、死の恐怖というものの、実際には死の恐怖じゃないのかもしれません。

それにあるがままに出会えば、それは感覚や飢えの恐怖かもしれませんが、
あらゆるばかげた事の執着と繰り返しを求める欲の集合体かもしれません。

それは一つの混沌とした宇宙なのではないでしょうか。
そういう意味で「死の恐怖」という名前付けも事実の複雑さ、広大さ、強大さをむしろ
単純化して小さくしていると思うのです。
名前をつけると事実に出会えない。その想像の強さという事実に。

私は自分が肉体だという思い。その思いそのものに出会った事すらありません。
その強い執着を外から名前をつけるのが関の山なのです。

268:神も仏も名無しさん
12/07/06 10:14:14.65 8h+7SUQ+
>>227
現状としての自分の思いが経れば減るほど、それは
人間という思い-個という思い-全体という思い-無心
と表現も変わってゆくのでしょう。

そういうように思う、ということではなく、実情としての自らの思いが減ってゆく様を描いているのだと思います。
実情として人間という思いに捕われている私にとって、時折触れられる個という思いというのは、より思いが少ない状態で、
私にとっては空そのものなのです。
個としての思いしかなくなれば、多分全体性という思いが空として感じられるのでしょうし、個という思いという言葉で示される思い少なき状態は
新しい空ではなくもはや締め付ける鎖となっているかもしれません。

逆に実情のほうに何の思いもなく、実情において空であるなら、単に宗教も修行も無修行も単に縁のないものになっているような気がします。

目標としての言葉ではなく、実情を表す言葉として使われると思いが減ってゆく様として表現されると、
金剛経のように、何々である。といっても何々というものがあるわけではない。
というように不可思議な描写になるかもしれません。

積み重ねる描写ではなく、全くの空でもなく、思いが減ってゆく、認識が変わりゆくという変化を言葉にするというのは非常に微妙な作業なのでしょう。
目標を掲げたいわけでもなく、全くの空でもないので、それ以外の言葉で語る事になります。

269:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:21:25.70 8h+7SUQ+
一仕事終わったら瞑想しようって思ってる自分がいる。
すると瞑想と仕事という分裂が自分の中にできる。
というか恒常的にできてしまっているんだろう。

それが分析や調べ物だからとて瞑想と両立しないわけじゃない。
どこかであきらめていた。
仕事や調べ物にかかわる自分のマインドはこれでは瞑想している自分と分断されてしまう。

瞑想は仕事のまつわる自分以外だけが参加する部分的なものというわけだ。
そりゃ、仕事中の瞑想は難しい。知らぬ間に自分を忘れてしまう。
できるぶんだけ。

270:神も仏も名無しさん
12/07/06 15:51:35.84 8h+7SUQ+
>>amaさん
ややこしい事を書いたので単純化します。

ブッダの前世の記憶 王に四肢切断されたが体という思い。自己という思いすらわかなかったと。          
光明を得た尼さん  死期を悟り生きたまま焼かれる事で弟子の前を去った
イエスキリスト 磔と槍での処刑 
イスラムの覚醒者 マンスール 目をくりぬかれ四肢切断 歓喜に満ち血を神にささげた

20世紀の覚者
グルジェフ 羊水1リットル 麻酔は使わず
ラマナマハリシ  咽頭癌 激痛にとらわれないようだ
ラーマクリシュナ 咽頭癌 激痛はないかのようだったといいます
OSHO アメリカから放射線をうけたとかどうとか 晩年は歯といい全身がひどい状態だった模様。

わたしにとってあるがままとは、あるがままではないという事実があり、かつそれを非難せずにあるがままであるということです。
また、様々な事であるがままではない事実に気付いてすらない可能性があるということです。
その可能性を示すのが上記の人々です。

自分自身の区別とそれがもたらす苦しみに直面すればものすごく苦しいが、直面する事でその区別そのものが消えるという事。
自分自身の区別とそれがもたらす苦しみがあるがそれをどうこうしようとすることで余計苦しみはしない。他の当たり前の生活に意識を切り替える。

両者は違うものですが、共にあるがままと表されやすいでしょう。
しかし、悟った人の言うあるがままは前者です。
後者は無謀な自我によって自我を破壊しようとする試みから離れている分非常に知性的であたり前に生きられます。
しかしただ当たり前なだけで悟った人々が示す超越を示してはいません。


271:神も仏も名無しさん
12/07/06 16:17:02.47 8h+7SUQ+
重要な物事というのは自分がそう定義していただけなのだと後で気付く事はありますが、
取るに足らない物事には注意が必要でしょう。

取るに足らない物事という評価は、この評価基準を別の評価基準が裁いているだけであって、
この評価基準を持っている自分にとっては事実としてそれはものすごく大切な事なんです。

どんな評価基準を持ち、どんな執着を持ち、どんな事をものすごく大切に思っているか。
それに気付く事が大事に思うのです。
その対象の物事がどうとかではなく、どう思っているか。
結局人は自分が評価する軸のなかに捕われ、執着するものそのものになってしまっているのだから。

こころひとつですべてのものごとはあらわれる。


272:神も仏も名無しさん
12/07/06 16:36:17.29 sFZyXgW/
悟りを開くと何か得することあんの?
また悟りを開いた事で逆に損したり苦痛に陥る場合もあるの?

273:オレって名無しかよ!?
12/07/06 16:53:31.57 syQKXjcr
>>272
悟りを開いても、得も無ければ損もないよ。
損得という分別を超えるのが悟りだからね。

でも、悟りがあるのかと言われれば、あるともないとも言えないね。

274:神も仏も名無しさん
12/07/06 17:16:01.31 LgiAYEx5
>>273
また嘘言ってるのか

君はその悟りを自分の拠り所にして、人生楽しんでるんだろ
なら、得でいいだろ

まだそんなに、悟りに関しては的を得たことを言っておきたいとか
気にしてるのか

275:オレって名無しかよ!?
12/07/06 17:29:53.38 syQKXjcr
>>274
嘘、ウソか?
嘘って何だろ?
他人にとっての嘘が自分にとっての真実ならば、
それは嘘なのだろうか? それとも真実なのだろうか?

まあ、別に嘘でも真実でもどっちでもイイけどね。

>君はその悟りを自分の拠り所にして、人生楽しんでるんだろ

在るのか無いのかハッキリしないモノは拠り所にはならないと思うよ。

>まだそんなに、悟りに関しては的を得たことを言っておきたいとか

思ったことは書いてるけど、的を得てるとは思ってないよ。
俺よりamaさんやロンや悟り子さんの方がよっぽど的を得てると思うよ。

276:神も仏も名無しさん
12/07/06 17:53:00.82 LgiAYEx5
>>275
君が反論するってことは、悟りに関して自分なりにイメージ持ってるってことだろ
つまり、拠り所にしてるんだろ

277:神も仏も名無しさん
12/07/06 18:08:32.48 8jF2nAhn
肉体が自分のものでないというのは嘘だね
誰も普段、肉体のことなんて気にしちゃいないよ
肉体丸々が自分ということにいいかげん気付け

それと我執から離れるのは正解だが、
我から離れるのは大きな間違い
だから自分を見失うんだ
覚悟を決めるのはいつも自分
自分がなけりゃ、覚も梧もないわな



278:オレって名無しかよ!?
12/07/06 18:25:04.37 syQKXjcr
>>276
>君が反論するってことは、悟りに関して自分なりにイメージ持ってるってことだろ

安価したから応えただけだよ。
悟りについてイメージ持ってるように見えるなら、イメージ持ってるんじゃない?

279:神も仏も名無しさん
12/07/06 18:30:14.56 8jF2nAhn
まわりばっかりキョロキョロ見て
顔色、仕草をうかがうヤツばかり
少しは自分を見ろよ!
といっても鏡じゃなくて、内面だよ!
まわり見なくとも、画面見てるヤツも同罪だ
そうだ、俺だよw


280:神も仏も名無しさん
12/07/06 18:37:11.99 8jF2nAhn
自分の内面を見るではなく観るだ
単純に客観視だ
外界を観るなぞ普通に誰でもできるわ

281:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/06 20:29:40.09 MI/pyvq3
>>223
お役に立てたのなら幸いです

282:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/06 20:40:13.17 MI/pyvq3
【あるがまま】について

金斗雲に乗って飛び回る孫悟空はお釈迦様の手のひらの上から簡単に出られると思っていたらしいですね・

283:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/06 20:42:38.89 MI/pyvq3
>>156
>一切皆苦、といったときの苦は感情的なものではなくて、このdukkha(循環)を指すと思えば、スッキリする人も
いるのではないかと思うのです。

♪スッキリしました

284:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/06 20:51:02.73 MI/pyvq3
>>272
>悟りを開くと何か得することあんの?

本質的な部分が気楽になるとゆうのはあるでしょうね
体の感覚や自我の感覚等はあるのですが
意識の中心が醒めている感じです

285:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/06 20:56:57.28 MI/pyvq3
>>272
>また悟りを開いた事で逆に損したり苦痛に陥る場合もあるの?

覚者やってみない?
みたいな感じのことを言われて困惑したことはありました

286:神も仏も名無しさん
12/07/06 21:27:27.30 8jF2nAhn
>>285
恐怖心が微かにも残ってますか?
残ってれば全然悟れてないですよ

287:神も仏も名無しさん
12/07/06 21:39:54.65 8jF2nAhn
あと羞恥心とか
街中でスッポンポンになっても恥ずかしくないとか
これは簡単そうだなw

288:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:14:11.68 VATuxXKq
>>277
肉体丸々が自分だとすると、自分の肉体は、肉体の肉体となりますね
自分はどこへ行ったのでしょうか?

289:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:21:13.30 8jF2nAhn
>>288
一休さんかよw
自分の手や足でも見てみて
自分の肉体が肉体を見てるに過ぎん

290:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:25:33.28 VATuxXKq
>>289
だから、自分の肉体ってのは、あなたが言うには、肉体が自分なんでしょ?
だから、肉体の肉体であって、自分なんていないじゃないですか?
自分の肉体が肉体を観てるってのはおかしいと思う
自分の手や足も、手や足が自分なんであって、なんかおかしい…

291:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:29:41.48 8jF2nAhn
手の指を思いっきりそらしてみ?
痛いのは誰だ?

292:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:34:35.98 VATuxXKq
>>291
自分の指が痛いとしましょう。
では、指は誰ですか?

293:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:36:21.60 8jF2nAhn
>>292
痛いのは自分だ
そして指は自分の一部だよ

294:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:38:50.15 44XeHb/v
こういう話は皆がみんなわかるわけじゃないんだよなぁ。
当たり前のことなのに不思議だ。
唯物論と唯心論の橋がないんだよなぁ。
生命についての学が。

295:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:41:32.61 8jF2nAhn
肉体に心がないなどとは言うとらん
心も肉体の一部じゃ

296:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:43:22.29 VATuxXKq
自分とはなんですか?
自分とは、肉体丸々ですか?
自分の一部と言うとき、その中心はどこにありますか?
もし、手が自分であれば、手が中心となり、手は自分の一部ではないはずです
自分そのものです

自分とはなんでしょう?

297:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:44:39.27 44XeHb/v
>>295

動物には心はありますか?
植物には心はありますか?
岩には心はありますか?

一つづつ答えて頂けないでしょうか?

298:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:50:22.00 44XeHb/v
>>296

ある美女と街中でぶつかって、中身(自分)が入れ替わったとします。
美女のナイスバディですが、その美女がなぜか自分です。

肉体は自分とは本質的には関係ないと思います。
愛着はあれども。

299:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:52:02.47 8jF2nAhn
>>297
識別作用だから何か反応すれば心はあるだろうね
岩にはない

300:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:57:59.51 VATuxXKq
>>298
中身が入れ替わるということは、思いが入れ替わるということでしょうか?
ということは、思いが自分なんでしょうか?

301:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:58:28.92 44XeHb/v
>>299
>識別作用だから何か反応すれば心はあるだろうね

心は簡単にいうと快・不快から出来てる思いの場。
植物は心がないと思うよ。
動物と鉱物の間で分かりづらいと思うけど。

302:神も仏も名無しさん
12/07/06 22:58:45.67 8jF2nAhn
>>298
なるほど、中心は脳やろね
入れ替わった体が自分になるんだね

303:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:00:20.77 44XeHb/v
>>300
動物には心がある。では、その心が人間に移ったら、その動物は、「自分」を意識するのか?
しないと思う。
思いは自分ではなく、「ある」が自分だと思う。

304:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:01:59.58 8jF2nAhn
>>301
じゃあ植物には心がないでいいよ
植物じゃないからわからんよw

305:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:03:02.81 8h+7SUQ+
>>292

実際に足がつったり、家が燃えたり、手足をもがれたり、癌になって激痛が走ったら、
そんな問答は忘れてしまう。そのレトリックは瞑想の入り口としてはすばらしいが実効性を持たない。
役に立たないのです。

私たちは肉体に、感覚に同化(執着)「しているという事実」が現状ではないでしょうか。

肉体が心を作るのはおっしゃるとおり無理そうですね。
心が肉体に執着しているので死せる運命があり、苦痛に弱い肉体は外界の影響を受けやすく、
それに執着している心もゆさぶられます。

306:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:08:12.79 VATuxXKq
>>303
ということは、今現在に自分は「ない」ということですね

307:473
12/07/06 23:08:13.90 8h+7SUQ+
静寂な精神は真理を見出さずにいられないらしいです。

然るに私の精神は混乱しています。

混乱しているからこそ、考える事が必要です。
行動の指針や人生の指針がなければただ混乱そのものであり何もできなくなってしまいます。

しかし、その混乱が鎮まるためにはどんな考えも、方向も、見解も、概念も、体験も、非体験も、全体も、空も
役に立ちそうにありません。
これらはその混乱した精神が作り出したもの、想像しているものだからです。

混乱している。
暫定的な活動の決定のため思考は必要だが、混乱をどうこうする事は不可能。
混乱しているから何らかの指針に頼ろうとする。頼ると混乱がそれを使う。それでは混乱は続く。

人間は混乱そのものだ。そうでなければ静寂な精神において真理を見出し散るだろう。
混乱そのものなのだ。混乱を生きよう。

308:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:09:54.68 VATuxXKq
>>305
レトリックではありませんよ
「自分」が繰り出すトリックの話ですよ

309:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:12:21.58 44XeHb/v
>>306
>今現在に自分は「ない」ということですね

それは、Yes or No と答えるしかないかと。
通常、私達は自分自身を肉体や心だと思っています。でも、肉体や心が何らかの出来事でごっそり入れ替わってしまったとしても、自信をもって自分と言う。

その自信の核は「ある」です。
「ある」は通常の意味での自分ではないですが、その自分の核になってるものだと思う。


310:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:15:38.44 8jF2nAhn
心が肉体の影響を受けまくるのは事実だ
じゃあ、心を肉体から切り離すか?そんなことが可能か?
肉体丸々を鍛えればいいだけじゃよ

311:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:18:51.07 VATuxXKq
>>309
だから、その自信を持って自分という、自分とはなんなんですかね?
その核とは?

312:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:20:58.06 8jF2nAhn
>>311
なんの物質なんだろね?w
空でないことを祈る

313:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:23:51.35 44XeHb/v
>>311
「ある」としか言えないw
「ある」は自分しか差せないから厳密には言語化も出来ないし。形もなんにもないから。

ちなみに>>309はYes and Noだった。。。

314:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:36:34.93 VATuxXKq
>>313
揚げ足とりみたいに思われますがw
「ある」をさす自分はなんですかね?
自分が、自分という「ある」をさすということになりますが

まあ、仏教の教えに、諸法無我という教えがあります
そこらへんに、何か腑に落ちる何かがあるとか、ないとか…

315:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:41:40.14 8jF2nAhn
意識が薄い状態なら感受作用も薄くなる
意識が濃い状態で感受作用を薄くするには…
気のもちようとか、マインドコントロールしかないな…
捨てる離すしかないのか…

316:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:53:01.52 44XeHb/v
>>314
>「ある」をさす自分はなんですかね?

何もささないし、させないと思います。
強いていうなら、「ある」がさす自分は幻想かと。※一般的な意味での自分なので。

>諸法無我という教えがあります

輪廻を意識に置くと、確かに一般的な意味での我は幻想みたいなものかも。
輪廻を含んだ意味での縁起のほうにフォーカスを当てるのは何となく分かる。
でも、それを通じて一段階上の我が見えてくるけど、それも幻想なんだろうな。

317:神も仏も名無しさん
12/07/06 23:59:56.66 VATuxXKq
>>315
何もしない
何も思わない
ですかに

318:神も仏も名無しさん
12/07/07 00:16:23.58 5GjnhoDQ
心対脳みそだな
心は脳みそを騙す
脳みそは心を騙すことができる
さて、心に騙されない脳みそを作るには?
瞑想しかないか…結跏趺坐しかねーな

319:神も仏も名無しさん
12/07/07 00:27:31.47 5GjnhoDQ
>>317
結跏趺坐で鍛えながら、捨てる離すで心を騙くらかす
必要ないものと捉えることで捨てることができる
離すは意識から遠ざける

320:Ope
12/07/07 01:11:10.99 +3Wkdolm
>>168
自我とは像を結ぶ機能のことです。
機能なので使えばいつでも結ぶことができます。
それが胸の真ん中辺りに像を結ぶのですが、心臓と関係があるのかは知りません。

321:Ope
12/07/07 01:33:20.19 +3Wkdolm
>>184
> 刑務所はいやです
そんな極端にならなくてもいいじゃない
ちょっと注意すればいいんだよ
といっても、捕まえられないから、居場所探すしかないけど

322:神も仏も名無しさん
12/07/07 01:40:23.23 1U7Cq9oB
>>319
こんなクイズはどうでしょう?
何も思わないとき、自分はどこにいるでしょう?

今すぐにでもできる簡単なゲームです

323:Ope
12/07/07 01:58:03.49 +3Wkdolm
>>218
続き

導師:なら茶碗を洗いなさい

弟子:歯を磨くのが先です

導師:うっかりしてました

弟子:はい

導師:次は茶碗を洗いなさい

弟子:自分の茶碗は自分で洗いましょう

導師:食事はすみましたか?

弟子:すでに終わってますが

導師:なら私の茶碗を洗いなさい 修行です

弟子:私の茶碗が先です

導師:うっかりしてました

弟子:はい

導師:次は私の茶碗を洗いなさい

弟子:考えておきます

324:安藤
12/07/07 02:47:34.31 ufV63l07
寺に私の茶碗などない。
日本の家庭では、大抵が自分の箸を持っている。それは珍しいことなのだ。
フォーク、スプーン、ナイフも全部自分用がある人はなかなかいないだろう。


325:神も仏も名無しさん
12/07/07 07:10:00.44 5GjnhoDQ
>>322
答えは、ここにいる
話の意図が見えんぞw

326:神も仏も名無しさん
12/07/07 07:32:07.36 5GjnhoDQ
あぁ見えたわ
識別作用がない限り何もないと言いたいんだな
だから意識するなとゆーとる
それに単なる錯覚だ

327:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/07 08:55:36.60 N9myKhsQ
>>264
人は未知のものを恐れますよね。
つまり、見ていないものを恐れる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とはよく言ったもので、
正体が分かってしまうと怖くもなんともない。
でも死の正体は分からないのです。
つまり死んだ後のことは確かめようがない。
なのにそこに思いをはせてしまうことがこの恐怖の原因でしょう。
死が怖いのは、その後のことをああだこうだと想像するからで、
想像しなければ怖くない。
ただそれだけのことみたいです。

328:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:02:25.85 1U7Cq9oB
それは、錯覚だと認識する自分ではないでしょうか?
世の中は、全て錯覚だと認識する人もいます
しかし、良く考えてみてください

もし、自分が錯覚だとしたら、、、
何が錯覚でしょうね

329:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:04:10.26 1U7Cq9oB
自分って何ですか?
自分は、いますか?

330:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:18:14.29 5GjnhoDQ
認識を偽とするなら飯食うなよな
横っ面引っ叩いて目を覚ませ
>>327
死後が怖いのは嘘
死の直前どんだけ痛くて苦しいんじゃろ、というのが怖いのである
実際のところ、死ぬのは嫌だけど、あんまり怖くはなかろ?


331:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/07 09:20:24.34 N9myKhsQ
>>264
あるがままというのは、現実のことですよね?
あるがままでない(なりきれない)という現実(あるがまま)があるだけですね。
何かを嫌ったり抵抗したりといったこともあるがままですから、
あるがまま以外はないのです。
私に関するすありとあらゆるべての現実があるがままです。
ですから、あるがままであるとか、あるがままでないとか、という二元的なことではなく、
そっくりそのままの現実のことです。
ですからこれについてはOKもNGもないのです。
私が手出しできないもの(こと)です。
(手出ししてもいいですが、手出ししてしまうことに手出しできないのです。
言い方を変えると、抵抗してしまうことに抵抗できない。)

332:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:31:26.92 1U7Cq9oB
>>960
そんなことはない、馬、いや馬さんは、生まれながらの馬だ…

ヒ、ヒーン

失礼、今や鬼さんを退けこのスレの主のように、居座っているようだが、この観自在さんにはお見通し…かもしれん

いずれ、けちょんけちょんにしてやるからな~、って言ってみるテスト

333:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:32:44.44 5GjnhoDQ
あるがままでないのは、死後とか死の直前に思いを馳せること
あるがままは、そんなくだらねーこと考えねーよのこと
行過ぎた予測ってことだろな

334:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:33:16.16 1U7Cq9oB
あ、ごめん間違えた
別にビビってるわけじゃ(ry

335:Ope
12/07/07 09:38:42.53 +3Wkdolm
>>324
自分の茶碗を洗って欲しい導師と
それを見透かした弟子の珍問答

>>334
> あ、ごめん間違えた
オレムのスレだっけ

336:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:41:46.31 1U7Cq9oB
>>335
え、オレム、スレやってんの?
ツレないやつだな~

337:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/07 09:42:40.12 N9myKhsQ
>>270
> ブッダ ~ OSHO

昔の人が言ったことは、本当のことかどうか私には分かりません。
それがどんなに説得力があり状況証拠があっても、です。

一方、これらのことが本当のことだったとして、
悟りとは、また別の事柄でしょう。

悟っても普通の人は後世に残りませんが、
悟っても悟らなくてもヒーローは後世に語り継がれます。

痛みや恐怖を感じないのが悟りで、
そうでないのは悟りではないのなら、
二元論になってしまいますが、
やっぱりそうなのですか?

338:Ope
12/07/07 09:43:13.76 +3Wkdolm
>>324
自分の茶碗を洗って欲しい導師と
それを見透かした弟子の珍問答だから難しく考えないでよ

339:ろん
12/07/07 09:44:12.71 MU0fN/tz
>>331
そう。。
それにそっくりそのままの現実と言うものも実体はない。。

あるいはそれを見ている時には、もうなくなっている、過去の幻を見ている。。
見えるはずのないものを見ている・・見なければ無い、ないがまま。。

今とは手の着けようがない。。

一瞬一瞬既に生き切っているし、死に切っている、仏である、完了している。。

どうしてこれに気づかないのか。。

340:Ope
12/07/07 09:44:12.59 +3Wkdolm
>>336
確かオレムの出没スレだった

341:ろん
12/07/07 09:45:10.68 MU0fN/tz
昨日はオレムじゃなくて、オムレツ食べた~。。w

342:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/07 09:47:30.18 N9myKhsQ
>>270(後半部分)
どこを探しても、
当たり前な普通な平凡でその辺の石ころのような私しかいないみたいです。
楽しみ喜び葛藤し苦しむ・・・あるいはあるがままでないこの現実・・・、
そこに落ち着くことを私は悟り体験と呼んでおり、
この悟り体験をすることで、誰もが悟っている(悟り以外にない)ことが分かるのですね。

343:ろん
12/07/07 09:49:17.20 MU0fN/tz
そもそも無門関第七則は、最初の質問が「悟りとはなんでしょうか」ではないんだよ~。。

岩波文庫の訳だと
「私はこの道場に入ったばかりの新米でございます。
一つ尊いお示しをいただきたいと思います」

原文だと、「尊い」なんて形容詞もない。。
単に「指示したまえ」とあるのみ。。

344:神も仏も名無しさん
12/07/07 09:50:16.16 1U7Cq9oB
なんだよ、みんなして~…
今日は、七夕なんだから、みんな、優しくしてね♡

345:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/07 09:51:36.45 N9myKhsQ
>>330
確かに死後はたいして怖くないですね。
死より、苦痛が怖いのです。

346:ろん
12/07/07 09:53:49.47 MU0fN/tz
今の自己の他に求めるから、成仏していることに気づかないんだろうな。。

今の自己なんてものもないし、見えない、わからないんだけど。。

われわれはみな、自分の思い、認識に騙されて、自分がある、他があるように惑っているのだろう。。



347:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/07 09:54:06.00 N9myKhsQ
>>345
でもって、苦痛の真っ只中にいるときは、恐怖はないのですね。

348:ろん
12/07/07 09:58:36.81 MU0fN/tz
おいらは茶碗を洗う前にまず、ご飯を炊かなくちゃなのだ~。。

飯炊き女☆~い。。ww

349:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/07 09:58:56.15 N9myKhsQ
>>344
そういえば今日は願い事(理想)を書く日ですね。

350:神も仏も名無しさん
12/07/07 10:01:06.94 PqVoEm0A
>>327

恐怖
感覚への執着、苦痛への恐怖、人間関係への執着、家への執着、家族への執着、仕事への執着、権力、金銭への執着
快楽への執着があります。
これらへの執着はそれがそっくりそのまま慢性の恐怖になっているでしょう。
死そのものだけを怖がる事は仰るとおり不可能です。

これらへの恐怖全体をよく見もせずに「死の恐怖」と名づけがちですが、良く観察すると
執着と恐怖の集合体のように思えます。
これが鎮まる事によって見出されるのが悟りと定義されているように思います。


>>337
前スレッドで言葉の定義についての考察があります。
悟りといわれているものという伝統的な定義があるのです。
その伝統的な定義を無視して悟りという言葉を使うのは何故ですか?
自分の言葉、現代語、日常用語の範疇で語られれば良いのではないでしょうか。

「感じない」というのは「感じてしまう我々」の「想像」であり、仰るとおり「2元性」です。
我々にとってはそうですし、amaさんも二元論を作り出してしまいました。
感じてしまう我々にとって、感じないことは二元生です。しかし、感じる主体が存在しなければ、感じることと感じないことの区別が存在し得ない。
(というようなことを言ってるんです。このへんは私に理解しかねる事です。)

翻って、彼らはあらゆる区別がなく、認識はなく、認識者は無いといいます。それゆえに無上の完全なる悟りだといいます。
悟り、は仏教の用語としての特色が強いので、金剛、般若心経の単行本を読んで、
本当に悟りという単語を使うのが適切かどうか調べてみたらいかがでしょうか。
自分の思っているものと違ったら悟りという単語は使おうとしなくなるでしょう。

そういう伝統と定義のある、悟り、という言葉なのです。
たかが言葉ですが、定義を無視した用法に固執するのは何故ですか。
どういった執着でしょうか。

351:神も仏も名無しさん
12/07/07 10:06:44.34 1U7Cq9oB
七夕の夜に、運命の男女が巡り合う
なんて、ロマンチックなんや~

352:ろん
12/07/07 10:16:33.29 MU0fN/tz
>>338
そっかー、おれもアンドーでもダマくらかして、炊事、食器洗いとかやらせることにするか。。ww

353:神も仏も名無しさん
12/07/07 10:22:03.17 PqVoEm0A
>あるがままであるとか、あるがままでないとか、という二元的なことではなく、
そっくりそのままの現実のことです。

それは理論上のことで実態を示していない。
実際にはあるがままの態度でないから、執着があるから、区別があり快楽と苦しみがあるのではないでしょうか。

本来それに対してなにも言うべきではないのかもしれません。
混乱があり執着があり2元性を作る精神が見出せる非2元性(あるがまま)は事実である2元性の抑圧もしくは痛み止めにすぎないでしょう。
あるがままは大本の、事実としての2元性の精神が作り出す夢に過ぎないでしょう。
そうやって元の執着は生き続けます。
そういったことをしなければ、大本の精神は鎮まる可能性があるでしょう。

あるがままという悟り体験は旧来の精神「による」、自分自身への解釈でありそれが体験を作ります。
そしてそうやって旧来の精神は生き残ります。
精神が活動し続ける限り真実は見出せないのではないでしょうか。




354:神も仏も名無しさん
12/07/07 10:28:28.59 PqVoEm0A
>そっくりそのままの現実

同じなのです。
そっくりそのままの現実でないということとの対比になります。
言葉には二元的な働きがあります。

事実である私たちの精神の働きが、それを延命させるために利用します。
利用者が同じなので、到着地点、コースも同じでしょう。
どの言葉を使っても、利用者とその目的に違いがないので実質的に同じでしょう。

355:神も仏も名無しさん
12/07/07 10:31:23.51 PqVoEm0A
>そっくりそのままの現実

同じなのです。
そっくりそのままの現実でないということとの対比になります。
言葉には二元的な働きがあります。

事実である私たちの精神の働きが、それを延命させるために利用します。
利用者が同じなので、到着地点、コースも同じでしょう。
どの言葉を使っても、利用者とその目的に違いがないので実質的に同じでしょう。

356:ろん
12/07/07 10:41:10.07 MU0fN/tz
>>353
だからお前はこんなところでバカの見本やってないで、坐って無心になるしかないだろう。。

無心と言う意識すらないんだよ。。

執着とか精神とか解釈とか、みんなお前がやらかしてるだけで、amaさんにはないの。。
向こう側へ行ってから、こっちの言葉でしょうがなく表現してるだけ。。

駄文のビチ糞垂れてないで、実際の修行をしろと言うだけ。。

あーでもないこーでもない言い訳、能書きばっかのほんにしょーもないやつ。。

357:ろん
12/07/07 10:43:47.14 MU0fN/tz
というか、駄文のビチ糞の方が好きで、修行する気はないのかもだな。。

おれの方がわかってマース、とか思い込んでるのかも知らん。。

ホントに根っからのバカなんだろう。。

358:神も仏も名無しさん
12/07/07 10:48:47.23 PqVoEm0A
迷いと悟り、無明と光明、2元性と1元性、実体と空、あるとない、ないとある、部分と全体

どんな言葉も精神がその限界を超えようとそれを利用してしまう。ないという言明もあるという実感という下地があってのことが殆どでしょう。
最初片方を追うのは致し方ない。
次に自分はそれを目指しているという事と、自分はそうではないということに気付く。批判するのではなくただ気付く。この仮定で概念というものが想像だけで現実の自分の精神=私を変革しない事に気づく。
そうなればあとは両方を手放し自らの精神の延命作用を手放し、、。

359:ろん
12/07/07 10:55:32.33 MU0fN/tz
あらあら、またびち糞垂れてるのか。。

360:神も仏も名無しさん
12/07/07 11:01:26.92 PqVoEm0A
>>amaさん
非常に微妙な話なのですが全容が見えてきました。
あるがまま-あるがままでないという言葉を例として使うと(あらゆる概念が当てはめられあらゆる概念は対立軸があります)

①執着と恐怖の集合体である精神があるがままという知識でそれを想像することで、精神は生き残る。
②かといって自らをあるがままではないと裁く事でも、精神は生き残る。

その両方を自覚無自覚にかかわらず代わる代わるやっている気がします。
全容を理解すれば、対立軸を作る概念に頼るという事をやめるのでしょう。

また、その中間点として、もし瞑想というものが起こり、意識というものがあり、かつ精神が完全に鎮まっていないなら、
その人は自らのうちにあるがままの意識とあるがままでない態度の精神を両方見出すでしょう。
かれは意識のあるがままの働きを良いものとして出なく事実として語り、あるがままでない精神の働きを悪く言わず事実として語り、
全容に目覚める事を語るでしょう。
これは中間地点として重要なのかもしれません。対立軸のある概念を使って、限界まで対立させず客観的に語ろうとしてますが、
結局のところ精神と対立軸から逃れられるという事はないでしょう。
前述の概念の放棄に落ち着くでしょう。

私は概念を放棄していない。かといってそれを責めるのは概念。
概念を放棄しようとするのも概念。
どうしようもない。


361:神も仏も名無しさん
12/07/07 11:20:16.56 PqVoEm0A
>>amaさん
迷いと悟り、無明と光明、2元性と1元性、実体と空、あるとない、ないとある、部分と全体

精神は同じように、後者を目指し自分自身を前者と非難するようです。
そうして精神は自身を永続させようとするようです。
精神と信念の関係性はまことに微妙で、強力です。

実際この働きを理解していなくては、生まれたときから(もしくはその前から)溜め込んだ記憶と体験と執着の集大成である精神から
自由になっている可能性など初めから無いように思います。

これにおいては、答えがあるのではなく、答えへの執着をいかに解きほぐすかという表現においてその人の信念の働きへの理解が現れます。
私の答えもあなたの答えも答えは答えであり、答えに頼っていては、相手を答えに頼らせてしまえば、
信念を強化し、集大成である精神を存続させてしまいます。

362:神も仏も名無しさん
12/07/07 11:20:26.87 8bHVZwqM
amaさん
本当にあるがままなら、執着は減っていくでしょう

執着を保存するのが、あるがままと思っているのなら、勘違いですね

363:神も仏も名無しさん
12/07/07 11:25:13.12 PqVoEm0A
>>362
自らのこととして痛感します。
ありがとうございます。

364:ろん
12/07/07 11:29:18.31 MU0fN/tz
>>358
マジレスすると、変革が起こらなければならないという思い込みが、変革を永遠に先送りする。。
すなわち、未来に変革がありうる、という期待が、我執が、堂々巡りの醜態晒しの原因になっているわけ。。

>>360
全容に目覚めることがありうる、と言う夢、妄想を見ているだけ。。
結局お前は、ガラクタクソ知識によって、夢を見させられている。。

目覚めると言ったら、対象が消える、ないことがわかるというだけ。。

「全容」と言う対象があることはあり得ない。。

対象が意識による構成であることに気づくだけなんだ。。

それでも対象は現れ続ける、あとは夢と戯れるのみ。。

ま、要は我執、自分だけこんなに勉強してます、偉いんですみたいな、競争心とか、プライドを手放さなない限り無理なんだがな。。

びちびちウンコの垂れ流しがいつまでたっても終わらない。。ww

365:ろん
12/07/07 11:32:10.92 MU0fN/tz
今に落ち着けば、変革なんぞ要らないことがわかる。。

今に落ち着けない我欲がある限る無理なんだよ、理屈じゃなくて実際の話。。

いつまでも醜い我執の塊とそれに対応する屁理屈駄文長文の醜態を晒し続ける。。

マトモな人たちから見ればただの狂人だ。。

366:神も仏も名無しさん
12/07/07 12:08:57.01 5GjnhoDQ
まぁ未来予測が不要といえば嘘になる
必要なものなら先の先まで考えて可
要不要を判断するなら今に留った方がよいね

367:神も仏も名無しさん
12/07/07 12:14:50.07 PqVoEm0A
他者とのかかわりにおいて
自分を非難すると、他人を非難すると。
自分を考察すると、他人を考察すると。

混乱している精神は存続し続ける。精神にとっては4つの作業は自己の存続という意味で同じものです。
全く違うかに見える4つの働きですが。

精神が考察や非難をやめて初めて、大本の精神の働きは弱まり始める。
倒錯のセンターは止まり、別のセンターが働き始める。

目指しているものを語るのは夢想に過ぎないが、深い夢から目覚め、夢が浅いものになったときの目覚めの体験は瞑想の賜物であり、
それはさらに浅い夢から見れば未だに眠りだが、目覚めとして暫定的に語られ、その目覚めの軌跡を共有できたらと思う。
各段階や、各前提で、言葉は全く違う役割を負っている。


368:オレって名無しかよ!?
12/07/07 12:16:30.47 +Ld+IMdc
みんな書き込みできてイイなぁ。
今日は仕事だから、こっそり昼休みに書き込み。

>>335 >>336
このコテハンで書き込んでるのは、このスレと鬼と馬が戯れてるスレだけだよ。
スレ立てしたのは立体視画像のスレだけで、今は休業中ですね。

369:安堂 ◆3LK.0gZrV2
12/07/07 12:19:51.66 ufV63l07
大いなる意識が自我の妄執を根底から覆すらしい・・・。


370:神も仏も名無しさん
12/07/07 12:22:34.28 PqVoEm0A
>>364
変革が起こらなければならないという思い-このままでいいという思い
その両端です。
人は片方に捕われていないと思っているときはもう片方に捕われている事が多いです。

それに、変革が起きないという現実について語っています。
執着が消えないのは、「現に」変革を起こそうとしているか、このままでいいと思っているか
どちらかの働きがあるのかもしれません。
起こるべきと思わなければ変革が起きるなら、もう起きててもいいでしょう。起きてないなら何かしら実際には思っているのかも。

ある用法で全容とかという言葉を使っています。
別の用法で解釈されてもなんとも。

371:ろん
12/07/07 12:27:09.91 MU0fN/tz
>>370
なんもないんだから、何とも思いようがない。。

おまえは何でも人の言葉を自己のガラクタ知識を基に判断するが、まったく意味のないことだ。。

ああでもないこうでもない意味のない妄想垂れ流し、スレ汚し野郎。。

372:ろん
12/07/07 12:28:24.54 MU0fN/tz
迷っているもの、勘違いしているものの言葉には、何の実質もない、要はただの屁理屈、言いわけ。。

自己正当化と他者の否定、要はごみカス。。

373:安堂 ◆3LK.0gZrV2
12/07/07 12:29:33.93 ufV63l07
この世界を構成しているのは物理的に言うならば
「物質」ということになる・・・。

ただし物質は眼耳鼻舌身意の対象として捉えられるだけである。
一切が無であるならば、無ということを捉えることができない。
無が無を捉えるという事態が起こるのだろう・・・。

374:安堂 ◆3LK.0gZrV2
12/07/07 12:33:51.78 ufV63l07
我執が強まると、心以上に身体に負担がかかるようになる・・・。
煩悩は眼耳鼻舌身意と色声香味触法を貪ることによって肥大する。

徳川家康の
「人の一生は 重き荷を負うて 遠き道を往くが如し」
とは肥大化した我執を背負っていく人の姿であろう・・・。

375:神も仏も名無しさん
12/07/07 12:36:17.28 5GjnhoDQ
>>370
たとえば、好き⇔嫌いなら、片方に捕らわれていなければ
もう片方に傾くことはない
普通は頭の奥底にしまわれて、意識しない状態になる
変革から離れて、落ち着いて考えてみろってことだと思うよ

376:安堂 ◆3LK.0gZrV2
12/07/07 12:53:09.99 ufV63l07

  /==///___
  / //∠___>
 / //<⌒\ \
`/=(/ |\ \ ヽ
/ / _⊥_ヽ |\|
 / | 一||ノ
=/  |幸切|
/  |福の|
   |で生|
   |あき|
   |れと|
   |安し|
   |穏生|
   |でけ|
   |ある|
   |れも|
   |安の|
   |楽は|
   |で |
   |あ |
   |れ_ノ
   L_//


377:473
12/07/07 17:06:03.10 PqVoEm0A
ある―ない。
というのは絶対的な事実を示しているもののようで、その実人間の精神が作り出した人為的な対立する概念でしかない。

自分の中に精神を超えたものが「ある」。
全ての苦しみや問題や、また悟りの段階といったものは「ない」。

これらは逆の考え方に捕われている人を目覚めさせる刺激でしかなく、別にそれが真実というわけではないのでしょう。
嘘に嘘をぶつけるといった感じで、目が覚めます。
このあるということも、ないということも、別にそういう事実があるということを述べたわけではないのでしょう。
これを精神が言葉として、概念として利用したならやはり精神は存続するというのが問題です。

本来のメッセージはいかなる、
自己観念も、真実における結論も、目標も持たず、
自分自身の現状に留意していなさいというように吸収すれば誤解の心配はありません。
ただ気付いてるという質に誘うための仕掛けなのでしょう。

自分自身の現状において
別に苦しみがあると考察する必要もなく、
そういったものはないと考察する必要もない。
未だ悟っていないと思う必要もなく
悟りは既に内にあると思う必要もない

どのような思いも精神の延命の、信念の機能です。
あくまでこれらの考察は逆の観念に取り付かれていたときの目覚ましとしてのみ有用でした。

だから「あり、かつなく、かつあるのではなく、かつないのでもない」というのが
精神による事実誤認を避けるための最低限の表現かもしれません。
本家ジャイナ教ではもっとややこしいですし、要点は文脈全体によってある―ない
という概念の対立軸のどちらにも精神が寄りかかれないような印象を構築する事なのでしょう。



378:473
12/07/07 17:12:00.43 PqVoEm0A
>>371
精神が精神の混乱を認めなくないので、それを「ない」といって否定するケースは非常に多いのです。
意識や悟りが「ある」といって逃避するケースも多いです。
両者は同じことをしているのですが言葉の違いで言い争い、自己の混乱を投影しあい、
お望みどおりの混乱からの逃避が完成します。

精神が混乱していなければ、精神が完全に静まっているのでしたら真理を見出していないという事はありえないのです。
ほかに何の障害も提示されていません。(仏教的には)

人は自分自身の精神の混乱や、作り出している種種の苦悩を見たくないから、さまざまな手段でその直面を妨げようとします。
他人への好意、他人への悪意、快楽、ゲーム、ファンタジーいろいろありますがこの場合は宗教的なある―ないの観念です。

精神の混乱がなければ、精神が鎮まっていれば真理との障壁はなく、真理を、悟りを見出しているでしょう。
然るに精神が混乱していると気付き、それをただ見守る事が瞑想です。

混乱していないと思い、かつ真理を見出していない人は、混乱に気付いてすらいない。
気付く用意すらできていないというだけです。
確かにそういう人の主観としてはそういったものはない。ないという哲学に固執する。
宗教をそういうように利用します。

混乱した精神の特徴は、自分が正しく相手が狂っているとして物事を投影する事です。
混乱した精神の持ち主は自分が非常に正常だと感じています。静かな精神は自分も他人も正常だとも間違っているとも感じません。主観的な価値基準が静まっているからです。
混乱した精神そのものには決して自分自身が混乱しているという事を見る事はできません。
混乱した精神以外の何かの働きがあるのかもしれませんねw

379:473
12/07/07 17:14:37.41 PqVoEm0A
混乱した精神の働き以外の働きだけが

当の混乱した精神に気付く事ができます。

でも現状、があるだけです。混乱と意識で自分をわける気もありません。
私は混乱だけではないし、意識だけでもない。
その両方でも多分ないのでしょう。



380:473
12/07/07 17:15:48.23 PqVoEm0A
あるという方向で十分話したので、ないといってバランスをとってみました。

381:ニカサ・アア ◆UNegKIvARw
12/07/07 18:27:54.27 noNIO8zh
悟りの在る無しを論ずるのは、愛の在る無しを論ずるのと、
本質的には同じ分野だと思うのです。

ただ、愛は悟りに比べて人気がありますね。随所で語られ、
描かれ、宣伝さえされます。

しかし、愛が一般的に語られるようになったのは、近代に
入ってからでしょう。
少なくとも人間が誰かの所有物であった時代では通じない
概念でした。

そう考えると、悟りは今は通じにくい概念ですが、時代が
進めば一般的なテーマになるのかもしれません。

382:473
12/07/07 18:29:05.62 PqVoEm0A
こういった抽象論は人間が自分自身の実情から逃避したいがためのものでしかないかもしれません。
最初に究極のものに関心を持って、それに挫折して、自分自身の現状に興味を持つというのがそもそものありふれた道のりなのかもしれない。
すぐにジャンプするということは現実には起こらないみたいですね。
現状の我々はもっと身近な事から関心を持ってゆくべきかもしれません。


383:473
12/07/07 18:30:29.06 PqVoEm0A

①他者に批判されたときの必要あっての自己否定
他人に非難されたとき、それがどういった種類のものであろうと、自分が自分を強く非難する事に気づく。
不思議な事に日常でも明らかに自分に非があることと、非がないことで嫌悪を表現されたとき、自分自身の反応は似通っているのだ。

普通、人は子供のころ単純に自分勝手である。自分の都合しか見えない思考を身につける。
それでは生きてゆけない。
それゆえに自己保存のために「他人に嫌われたら何が何でも自分が悪い」と判断する思考によってバランスを取って
自身の生存を確保しているのではないだろうか。
(不良っぽい人たちと付き合ってわかるのは彼らは生活における義務などで注意を受けることに本当に傷つきやすいのです。)
そして自分で自分を余りに傷つけてしまうものだから、他者に非難される事は恐ろしい事であり、いつも身構えるし、非難されたときは非難し返す事になる。

解決としては、その2つの危ういバランスに気付く事。自己破滅的な身勝手さが未だ生きていることに気がつく事でしょう。
自分の言動への意識があれば、身勝手な行動を正しいと思いこむ事はない。
良心、愛があれば、他者の事を気遣い、自らを収めるでしょう。
そうであれば、もう他者からの批判を何もかも自己批判に結びつける「必要」はありません。

こちらの落ち度か、相手の言いがかりか、真実を述べたからか、
何故相手が嫌悪の情を表明しているのか客観的に判断できるようになるのではないでしょうか。

またこの構造ゆえに、他人経由の自己否定は私たちの無意識にたまっており、精神に影響を与え続けています。
他者に非難される事は嫌いと思っていると、その記憶は抑圧されます。そして非難されるとこの抑圧した記憶が活動し始め自己否定の活動をし始めます。
そのとき非難された内容はトリガーに過ぎないと思います。

生きていれば他者に非難される事もある。押さえるべきところだけ押さえて非難されたり賞賛されたりしながら独り生きる。
という覚醒、独存の境地にあり、そして過去人から受け入れられなかった記憶を現実否認して抑圧せず、過ぎ去った事実として手放せれば、、、。

384:Ope
12/07/07 18:34:06.02 +3Wkdolm
>>341
> 昨日はオレムじゃなくて、オムレツ食べた~。。w
オレムは不味そうだ

>>342
> 誰もが悟っている(悟り以外にない)ことが分かるのですね。
そりゃ嘘だ

>>350
> 悟りといわれているものという伝統的な定義があるのです。
どういう定義なのかよく読み取れなかったけど
誰が定義したとしてもそれは嘘だ


>>352
> おれもアンドーでもダマくらかして、炊事、食器洗いとかやらせることにするか。。ww
アンドーナツなら作れるかも

>>376
じゃ何食べてんだ

385:Ope
12/07/07 18:36:32.02 +3Wkdolm
>>381
> 悟りの在る無しを論ずるのは、愛の在る無しを論ずるのと、
> 本質的には同じ分野だと思うのです。
同じものだからな

386:オレって名無しかよ!?
12/07/07 18:39:58.17 +Ld+IMdc
>>381
俺は、悟りの在る無しを論ずるのは、宇宙人の在る無しを論ずるのと、
本質的には同じ分野だと思うのです・・・・・・なんてね。


387:473
12/07/07 18:44:55.61 PqVoEm0A
私は自然現象には文句を言わない。
米は実るのに時間がかかります。雨は降ります。日本は寒いです。

だけど、どうして社会現象には同様の態度で望めずにあれこれ注文をつけてしまうのでしょうか。

それはあれこれ注文をつけるという事をどこかで仕入れて、切り離せないぐらい染み付いてしまったからでしょうか。
私の家は中産階級です。
中産階級なので権力や貪欲を非難しつつ、権力や貪欲によって成り立った組織に入れてもらうことを私に教育しました。
上流階級では、権力や貪欲を単に正しい事として教えてくれるのでそういった混乱はありません。
(自らのハートを見失わないといういみでは中産階級のほうがいいのです。が、中産階級はどうしようもない矛盾を伝統として持っています。)

世の中のあらゆる価値基準は、あるがままの人間では不足だと人間を駆り立てます。
道徳はその現実を否認して抑圧してしまいます。

現実には多くの価値基準があり、その価値基準はあるがままの私を非難している。
その現実を私は受け入れられない。
そして、その価値観の群れに影響を受けず、何がしかの価値観を自らの意思で選んでそれに付き合うということもできない。
無自覚に活動する多くの価値観が私に様々な事を強要し続けている。
それも、その価値観をあるがままに受け入れないで、他の価値観、道徳によって否認してしまったからかもしれない。

価値観の対立が内にある限り、その両方は無意識に、自動的に活動する。
上流階級に従いつつかつそれを批判する、中産階級の自己保全と道徳の自己矛盾は実に厄介な伝統です。

388:473
12/07/07 18:53:12.15 PqVoEm0A
>>384 amaさん
悟りは言葉なので、言葉というものは共通の定義で運用する事が前提とされていると思います。

amaさんがそれを悟りといってしまうと、仏教で言う悟りは別の単語を当てなければいけなくなるのです。
そのあたり面倒なのですね。

amaさんは今までに語られた悟りとは関係のない私自身の声明としての悟りです。
と言わないで
「悟りと言うものは」
なんて過去語られた悟りと同一であるかのように匂わす。
結局過去に表明された悟りの権威を借りたいようにしか見えない。

389:オレって名無しかよ!?
12/07/07 19:00:47.48 +Ld+IMdc
>>387
勝手に思った事を書き込むんだが
世界には大きく分けて、
「あるがまま」のモノと「ホントは無いんだが有ると思ってる」モノがあるんじゃないだろうか?

この文章の中だと、自然現象、米、雨が「あるがまま」のモノで、
社会現象、中産階級、権力、価値観、道徳が「ホントは無いんだが有ると思ってる」モノだと思う。

390:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/07 19:04:25.14 PBXhPwWN
>>286
>恐怖心が微かにも残ってますか?
残ってれば全然悟れてないですよ

・恐怖心はあります
例えば突然大きな音がしたらビックリします
ただ恐怖に気づいている部分に恐怖は無いです
全てがその周辺で起きては過ぎ去ります

391:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/07 19:09:42.68 PBXhPwWN
あるがままで良いへの自我による反応予測リスト

1.まずあるがままとあるがままじゃ無いを分ける

2.あるがままになろうとする

3.あるがままになろうすることを否定する

4.正しいあるがままを追求する

以下追加あったらどうぞ

392:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/07 19:12:19.85 PBXhPwWN
>>294
>唯物論と唯心論の橋がないんだよなぁ。

唯物論:心は物質です

唯心論:物質は心です

同じことでは?

393:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/07 19:15:24.98 PBXhPwWN
>>337
>これらのことが本当のことだったとして、
悟りとは、また別の事柄でしょう。

・実際末期癌でも悠然としていた人々の話はよく聞きますね
悟り子の伯父もそうでした

394:神も仏も名無しさん
12/07/07 19:16:35.36 LzPLQ17X
>>392
唯心論のwiki
URLリンク(bit.ly)

395:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/07 19:17:44.10 PBXhPwWN
>>338
なるほど、そんなお話だったのですね
勉強になりました
ありがとうございます
m(_ _)m

396:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/07 19:21:46.91 PBXhPwWN
>>347
>でもって、苦痛の真っ只中にいるときは、恐怖はないのですね

でもって、恐怖の真っ只中にいるときも恐怖はないのですね

397:オレって名無しかよ!?
12/07/07 19:23:23.36 +Ld+IMdc
>>391
じゃ、追加でこれもお願いします。

5「あるがまま」の全てが根拠のない妄想だと思う
6「あるがまま」に囚われるあまり、あるがまま以外のモノを否定する。
7「あるがまま」を全てに結びつける。

こんなもんでしょうか?

398:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/07 19:26:47.87 PBXhPwWN
>>349
>そういえば今日は願い事(理想)を書く日ですね

そういえば悟り子は覚者と話してみたいとゆう願い事(理想)があったのですが
特にそのことで苦しんだ記憶は無いです
むしろその願いがあること自体楽しい感じでした

399:ニカサ・アア ◆UNegKIvARw
12/07/07 19:27:28.00 noNIO8zh
>>286
悟りの最終段階までいけばそのような状態になるのでしょうが、
そんな人は滅多にいません。
たいていは、少し階段をあがったところで、恐怖のみならず、
煩悩と呼ばれる諸々のものが尽きていません。

それでもそれは悟りです。
我をちょっとだけ離れたとしても、それは悟りといっていいものです。
このあたりはもう言葉の定義の問題ですが、我を去ったことが
在る・無いは、一つの明確な区分です。

あなたはどうですか?あなたは悟りをどう定義していますか?

400:神も仏も名無しさん
12/07/07 20:04:50.52 5GjnhoDQ
>>399
いわゆる空気が読めることですね
一般的に言われる場、空間との一体化
五感をなくすというより五感フル稼働です
ここは勘違いしてました
今に生きることにより恐怖・煩悩は縮小するはずです


401:神も仏も名無しさん
12/07/07 20:17:39.43 5GjnhoDQ
釈迦に隙はあったか、なかったか、普通だったかを考えると
隙がない気がします。根拠はありません
妄想を捨て煩悩をもたなければ心は純粋、あるがままです

402:473
12/07/07 20:19:40.34 PqVoEm0A
>>371
>>381

あるというおもいがあるという夢を見せる。
ないというおもいがないという夢を見せる。

あるはないの反対の概念に過ぎない。
ないはあるの反対の概念に過ぎない。

そしてそれを行ったり来たりします。
それに気をつけていましょうということで、私は概念の一端に反対はいたしません。
両端に油断なくすることを補足いたします。



403:神も仏も名無しさん
12/07/07 20:33:12.82 5GjnhoDQ
空間との一体化には心脳体の一体化は、もちろん前提になります

404:473
12/07/07 20:35:39.69 PqVoEm0A
>>391

目標 あるがままでない自分を否定する。―あるがままであろうとする。
投影 あるがままでない他人を否定する。―自分はあるがままだと肯定する。

自我はどんな言葉もこのように利用しようとするでしょう。
この内向きの2元性、外向きの2元性。信念の働きを理解する事が大切かと思います。
どんな言葉もこのように使われれば同じです。この信念の牢獄から脱出させて脱出したら捨てられるような言葉の働き。方便と言います。
ただ>>362さんが指摘されたのは、非常に微妙な内向きの葛藤回避のテクニックです。
苦しみも恐怖も何も変わらないでしょうが、必要以上にそれに苦しむ事はなくなりそうです。

>>396

それは瞑想と言われるものじゃないでしょうか。
悟りというと瞑想とさとりがごっちゃになります。
瞑想といわれるものを悟りと名づけると、おそらくそこで探求がストップしてしまうでしょう。
苦しみと闘う苦しみは消えるが、苦しみは残る。
実に結構です。
ただ、悟りと言われてきたものではない。

>>393
認識者と認識の超克であると示されています。
ただ、それだけだと口だけになるので、本当にそうでないとありえないような
外から見てわかる記述、伝説が残されているようです。
認識と認識者の超克があれば自動的に恐怖は存在し得ないでしょう。

405:473
12/07/07 20:41:08.40 PqVoEm0A
>認識と認識者の超克があれば自動的に恐怖は存在し得ないでしょう。

ということが本当にあるかはわかりません。

しかしこれを悟りと言うのが仏教での定義なのです。

悟りという言葉を使うなら定義に従って使うか、定義が違うなら別の言葉を使うかするのが普通だと思います。

>>399
そういう意味ですら悟っていない人にとってはそうでしょう。
しかし、そういう意味で悟った人にとってそういう悟りは体得した自然なものであり、認識されません。
自らの残っている束縛、欲望に意識が向かうのです。


406:神も仏も名無しさん
12/07/07 21:06:10.35 5GjnhoDQ
五戒の中の、あらゆる生き物を殺してはならない
ここに過度の感受を感じます
感性を研ぎ澄ませるなら怠惰も生まれません
悟り=心というのは感性を重視する意味で当たっていると思います

407:473
12/07/07 21:11:04.26 PqVoEm0A
>>399

あのテーラワーダの悟りの4つの階梯を私が他の人にこのスレで提示されたとき絶賛しました。
それは苦行の果てに瞑想が起こったときに自由になる部分を正確に描写しており、
なおかつその部分しか自由になっていないと戒めていると言う事です。

これは段階を上ってゆくと言うものであると言うより、そこが終着点だと思ってそれを悟りだと思って探求を
やめてしまわない為の仕掛けに見えるのです。

最初の3つに自由になって有頂天になるのが一番目。
3つにおいて限界まで修行する事でその3つの欲望から永遠に離れられ、不変の意識が、ごくわずかなものであれど備わります。

2番目はそれを何とか回避すれば残り1497にとらわれているという事実に向かい始めるという状態です。
のこり1497にいまいち無自覚な1番目の人は悟りについて得意気に話すかもしれませんが、2番目の人は自分の状況を鑑みてとてもそんな事は言えません。

こんな風に経典は読む人によって読み方は全く変わります。
最初のその3つから離れる。瞑想を見出すのに、普通は限界まで修行する必要があります。

外から論評していても内実はつかめません。
いつか自らの全てをかけて挑戦してみるといいです。
やり方はOSHOを参考にすることをお勧めします。
TOTALに何かに打ち込む事でのみ反面として動機の十全な急速の一瞬が起き得るでしょう。

408:ろん
12/07/07 21:46:47.75 MU0fN/tz
今日は楽しい飲み会だったぜい。。
狂人の473に贈る歌は以下。。ww

Buck-Tick 夢魔(LIVE) The Nightmare muma
URLリンク(www.youtube.com)

七夕に歌いたい曲は以下。。
安スナックでも言って歌ってくるかな。。w

BUCK-TICK - GALAXY [PV]
URLリンク(www.youtube.com)

409:473
12/07/07 22:46:37.92 PqVoEm0A
世間の無数の価値観で自らを否定し苦しむ事が私。
世間を否定して世間と対立することが私。

両者の葛藤が私。

これは現状としてある。
私がどのように思うかと言う事とは関係ない。私自身だ。
どのような信条も、私が使う事になるので、この私という構造を永続させる。

私の表面的な信条とは関係なく、半ば自動的に世間を否定し、また自動的に世間の価値観で己をさいなんでいる。
それに気付く事は、おもしろい。

410:ろん
12/07/07 22:51:43.10 MU0fN/tz
>>373
五感はそもそも対象化してないだろ。。

何かわからないけど変な音がするとかさ・・対象化するのは、認識作用の働き。。

この認識作用を知るとすれば、僕らは何も知れない。主観的構成の外に何があるかわからないということになる。。
これが無と言うことね。。ほかの言い方もあるけれど。。

魚行きて魚の如し、とり飛んでとりの如し、と道元が言うように、~のようなものとして意識に現われる、としか言えない。

世界に処すること虚空の如く、泥水に蓮華がつかないかの如く、という在り方が可能なのは、そう言ったことから来る。。



411:ろん
12/07/07 22:52:55.30 MU0fN/tz
>>374
ヒッグス粒子が溜っちまうんかなー。。

それで、473みたいな頭コチコチで、自動解釈機械みたいな、アホになる。。

412:ろん
12/07/07 22:54:28.48 MU0fN/tz
>>384
>オレムは不味そうだ

あっはっは、どうしてそんなに嫌いなのか。。w

>アンドーナツなら作れるかも

あまりにもベタ過ぎです。。w

413:ろん
12/07/07 22:58:00.52 MU0fN/tz
>>378
すべて自分のことを言ってるようにしか聞こえん。。ww

そんなに精神が混乱してるやつなんているのかww

日本語がわからない、聞こえないのお前が一番混乱してるように思うけどなー。。

おれの周りにはそんなに混乱しとるやつはいないぞ。。ww

2ちゃんねるが仕事のお前くらいのもんだ。。ww

414:ろん
12/07/07 23:01:53.45 MU0fN/tz
>>402
だからお前だけなんだってww、あるとかないとか言って、対立がどうのこうの・・アホですか。。ww

ただ普通に生きとれば、まともにやっとれば、あるとかないとか言って悩むやつなんておらんよ。。ww

2ちゃんねるに膨大な時間と精力をつぎ込み、ワンパターンの屁理屈しか言えない頭オカシイ人。。

415:ろん
12/07/07 23:03:43.38 MU0fN/tz
うーん、日本酒とかけっこう飲んだけど、まだつぶれてはおらん。。

仕事するか、また飲みに行くか、どっちにしようかなー。。w

416:神も仏も名無しさん
12/07/07 23:22:26.36 5GjnhoDQ
文字で感性を表しきれない
ここに根本的な問題がありますね
釈迦が無記を通した理由かもしれません
私の方はようやく心が定まりました
あとは独り歩むのみです


417:無しよ
12/07/07 23:54:27.50 WVXLCB8Q
>>416
孤独は覚醒への栄光
ボン・ボヤージュ

418:神も仏も名無しさん
12/07/08 00:33:55.81 J2ObNSPa
そしてロンは飲みにいった・・・

419:473
12/07/08 00:58:55.85 O8E0iCQ1
409の補足

世間の無数の価値観で自らを否定し苦しむ事が私。
世間を否定して世間と対立することが私。

両者の葛藤が私。

というようなものがあるわけではないのです。
精神の一部が静まった後で、ああこれが静まったんだなと言う事はできます。
幻は静まり、幻だと認識できたものを描写する事はできます。
しかし、無意識を考察し、それを探しに行くのは依然として精神の働きであり、精神の既存のパターンを強化するだけです。
それを聞く人も、そういう幻を幻として見つけようとしたり消し去ろうとしたりしても、精神が作り出す2重の夢にはまってしまいます。

精神の働きを自覚するそのきっかけとして、我々はこうこうこれと言った無意識の影響を受けているという事はできます。
しかし、それは探しても見つからないし、止めようとしても止まらない。
私、精神そのものが静まれば静まったのはこれであったと言う事ができるだけです。

それゆえに金剛経では、なになにというものはない。だからこそなになにというのだ。
と表現しているのかもしれません。

>>414
苦しみ、執着、無意識、混乱
それらがないと主張し続けるのは何故でしょう。
本当に無いと思っているのであればそれほど必死に否定する理由はないでしょう。

本音と逆のことを主張するのはだれしも。

420:安道
12/07/08 01:28:38.61 tlYm89vB
「安道名津」は大人気だったよ。
JINの影響で・・・。

421:ニカサ・アア ◆UNegKIvARw
12/07/08 01:36:22.33 cvg7kJXl
>>407
四沙門果の説明は観光ガイドのようなもので、「…正確に描写しており」
などと絶賛されるほどのものではありません。
たしかにわかりやすいガイドとは思いますが、それも菩薩五十二位などと
に比べてわかりやすいガイドというだけで、ガイドブック程度の域です。

ですから観光ガイドをありがたがるだけで、実際の観光地に行かないよう
では本末転倒です。


> 外から論評していても内実はつかめません。

まったくその通りです。論評していても内実は掴めません。

> いつか自らの全てをかけて挑戦してみるといいです。

既に行い、預流果を得ました。いまは次のステップへの準備中です。
他方、あなたはいつになったら、論評から挑戦へ移るのですか?

> やり方はOSHOを参考にすることをお勧めします。

OSHOのオレンジブックには200近いやり方(瞑想法)が載っていたと
思います。そのOSHOのやり方のどれをあなたは試しましたか?

422:473
12/07/08 02:12:46.32 O8E0iCQ1
>>421
>既に行い、預流果を得ました。
本当に得た人間はそのように語らないでしょう。

一つ目の理由としてそこにいたるまでの偽物の体験が非常に多く、非常に多くの人がそこで引っかかっているからです。
そこにいたるまで自分自身がなんども偽物の体験に引っかかって、瞑想が起きていないのに瞑想だと勘違いし続けてきたので、表現に慎重になります。 

また、それを得た人間でしか説明できないようなことを自分自身の言葉で語るでしょう。
407は階梯の要点をまるで見てきたかのようにその人特有の観点で述べていますね。

>私の手法
非常にオーソドックスです。ダイナミック、クンダリーニ、ジベリッシュなど基本的な技法に参加していました。
後はどんなときも意識しようとすることを試みていました。

423:473
12/07/08 02:17:09.15 O8E0iCQ1
>>413

これがいつも特定、不特定の他者の不見識や思い込みを非難している人間の言葉なのだから実に面白い。
混乱しているということと、あなたの日々の他者への非難はその指し示す内容はそうは違わない。

また、私の言う混乱の定義は悟っていないという非常に広範な定義です。
精神が静まっていれば悟りへの障害はない。というのであれば混乱がないことは悟りであり、悟っていないと言う事は混乱している。

混乱に気付いているのが瞑想であるなら、混乱に気付いてもいないのが瞑想以前である。
混乱に気付いていない人にとって主観として混乱は存在しないが、実際にはある。


424:473
12/07/08 02:22:13.26 O8E0iCQ1
>>421
それとですね。
私はあの悟りの4つの階梯は、ガイドとして全く評価してませんでしたよね。

これはその段階を見出した人とっては描写が詳細であり賞賛すべきもの。
そしてそこまで帰ってきた人がそこで止まらないため見事な仕掛けでもある。
が、そこに行くためには役に立たない。

だから、まず修行して最初の段階を見出すべきだ。
というのが407の趣旨ですが、まるで話の内容についてゆけていません。
それに気付く事ができれば、先に進めます。
もう知っていると思ったらそれまでです。

私の書き込みはここの対話に瞑想して自分で始めて気付いた事であり、知っている事を書いているわけではありません。
失敗や、的を得た指摘には感謝し、謝罪しております。
間違いを認める以外に成長の形はありえないでしょう。

425:神も仏も名無しさん
12/07/08 02:36:02.94 akBpgxYt
473は言いたいことをもっと端的に言えないのだろうか?

426:無しよ
12/07/08 02:51:41.51 JYDoWdLe
473さんの文章は読みづらいが、我慢して読むと納得できる事もしばしば書いてあります
正しさの塊みたいな文章ですよね
正しく描写し、論旨を正しく伝えるために、長くなる、というような書き方(ただの想像ですが)を感じ、そこに共感はあります

でも、正しさのために書いている、自分の正しさのアピール感も多々感じるので、
そうするといつも読む気が失せてしまいます。もう、一人勝ち、的な…
でも読む気がなくなるのもしゃくにさわるので、がんばって読んでいくと、意味はわかるんですよね
しばしば書かれる感謝や謝罪の気持ちは行間から少しもにじみ出ていないとしか感じないし、そこも共感します
みんなに「お前にだけは負けたくねえ」という競争心を抱かせる逸材ではなかろうかと
みんなあなたに愛されたいだけ。失礼しました。

427:473
12/07/08 02:55:31.61 O8E0iCQ1
精神が信念の働きを脱し、そしていかに精神の働きから自由になるかという試みですので、いいたいことがあるのか不明だと言う事があります。
端的に表さず、あらゆる観点を同時に肯定し、かつ否定し、煙に巻くというスタイルですので助長さは宿命かもしれません。

でもそれにしても無駄が目立ちます。
書き込んでちょっと経つと不備に気がついてしまうものですから、あとで付け足してしまいます。
一呼吸おいて、付け足して、それをまとめてから書いたほうがいいですね。


428:473
12/07/08 03:36:35.21 O8E0iCQ1
>もう、一人勝ち、的な… >みんなあなたに愛されたいだけ。

私は他者に影響されてしまうので、その影響を脱しようとします。
そこに戦いがあります。よってそこに愛はない。苦しみ、信念にすがらざるおえない人々への優しさはない。
自分自身の内戦で手一杯なのですね。
そんなことをしていれば、返ってくる反応も推してしるべしですね。

独り探求しており、他者は鏡に過ぎない。
相手の見識は考慮しておらず、一人勝ち、的とは的を得た描写に思います。
相談相手としてではなく鏡として見ています。
自分の話についてくる人がいればよし、むしろ誤解によって面白い鏡の役をしてくれる事を必要としているのかもしれません。

このあたり①独り探求して他者は自己を知るための触媒として利用するか、
②みんなと一緒に自分自身の葛藤から逃避すべく観念に逃げるか
どっちかしか思い当たりません。
ブッダも同等以上のものがいなければ独りできっぱり行けと言います。
そして③他者を気遣い、愛にあふれて共に歩む
ことができるのは悟りなんでしょうね。

私は人を傷つけています。今はそれが必要なのかもしれません。
必要でないならやめろというのはあります。
(利用できる人は利用できる内容の書き込みでもあるんですが)

>にじみ出ていないとしか感じないし、そこも共感します
あなたが馬鹿やってくれたおかげで自分自身もいかに馬鹿かわかったよといってもねw
ありがとうというより、同様の部分が私から消え私にとってあなたはいなくなったよということで、それが大部分のスタイルです。
共感するんですか。それは面白いです。

しかし、普通に言われる愛情や感謝のやり取りも起きることはあります。
相手が見解を発して私に影響を与えようとようとしていない場合、相手に受容的な態度がある場合に限ってなので、このスレッドでは珍しいです。
それに愛情の交感があってもいつしか相手は観念を表明するので、いつものパターンに。
、、、、一応、影響を受けなくなったことには反応しなくなってるんですけどね。

429:473
12/07/08 03:44:55.47 O8E0iCQ1
このままでは寿命で死ぬ。
迷いを早く終わらせて労働に専心しないと貯金が増えず死ぬ可能性が増える。
というか、働いてお金があってもも何らかの要因で寿命を全うできず死ぬ可能性は十分ある。

という切迫感が瞑想にないんだ。

将来に悟るために生き残らないといけないから今お金を稼ぐというものの。
そんなんより今日明日のパンも命も知れないほうがいろいろ身が入るだろう。

430:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/08 08:47:20.69 4PxIkWaO
>>350
> 悟りといわれているものという伝統的な定義があるのです。

ウィキペディアによると、
「悟り(さとり)は知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくこと」だそうですが・・・。

原田雪渓氏によると、
「動物のように生きるようなもの」だそうです。
伝統的といえば、この方こそ、「The伝統」とされているのでは?
(違っていたらすみません。)

こっちが本当、いやあっちが本当だ、とやりだすときりがありませんので、
まあ、ほどほどにしておきたいと思います。

> その伝統的な定義を無視して悟りという言葉を使うのは何故ですか?

「一般にはこういわれているけど、本当はこうじゃない?」
みたいな話を共有できると面白いなあとは思います。

431:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/08 09:11:19.30 4PxIkWaO
>>350
> 翻って、彼らはあらゆる区別がなく、認識はなく、認識者は無いといいます。それゆえに無上の完全なる悟りだといいます。

認識者がいないことはしょっちゅうではないのですか?
認識者を起こせば認識者はいますし、
起こさなければいないのでは?
認識者について調べようとすると、認識者が現れますよね。
たとえば、認識者はいるのだろうか?という姿勢が私にあると、
その時点で、認識者が創られます。

では、五感が認識者なのでしょうか?

・・・

・・・

・・・

とすると、また、認識者が現れます。(笑)
つまり、認識者がいることを前提に出発してしまっているのですね。

432:ろん
12/07/08 10:01:13.66 16qf4yfb
>>418
いやいや、寝ました。。w

一次会だけでけっこう飲んでたからね。。

433:ama ◆BmUbLWewsM
12/07/08 10:01:20.70 4PxIkWaO
>>353
> >あるがままであるとか、あるがままでないとか、という二元的なことではなく、
> そっくりそのままの現実のことです。
>
> それは理論上のことで実態を示していない。

いえ、そうではなく・・・、
「あるがまま」が駄目なら「実態」でもいいです。

「あるがまま」という概念を持ち出した時点で、
現実から遠ざかりますよね。
これは、「実態」という概念であっても同じことで、
きりがないです。

> 実際にはあるがままの態度でないから、執着があるから、区別があり快楽と苦しみがあるのではないでしょうか。

「あるがまま」には、態度もなにもないのです。

快楽と苦しみがあるのは、まさにあるがままであるからなのです。
つまり、実際にこのような私の実態あるから、快楽と苦しみがあるのですね。

抵抗があるとか、超えようとしているとか、そのままでいようとか、とかとか・・・、
どうであれ、473さんの今のご様子があります。
その有様そっくりそのままに落ち着いてしまうこと(自分になること)を悟りと申し上げています。

「自分になる」は、二元に見えるかもしれませんが、
もともと自分ですから、なるもならないもなく一元ですよね。
(もちろん、そこに実態があるわけでも、理解できるものがあるわけでもありませんが・・・。)


434:ろん
12/07/08 10:06:00.45 16qf4yfb
>>414
何言ってんの。。
そんなこと言ってない。。

あなたはこっちの言うことがわかってないんだって。。

先入観の投影、知識の投影しかできんのだろうねー。。

ガラクタ知識の穴倉に閉じ籠って、未知の世界がないと思い込みたい。。
対話にならんから、ずっと閉じ籠ってろって言ってんの。。

435:ろん
12/07/08 10:09:15.38 16qf4yfb
>>423
言ってること全部間違い・・思い込み、勘違い。。

436:ろん
12/07/08 10:12:50.29 16qf4yfb
アンカー間違えた。。

>>434>>419に対して。

437:§
12/07/08 10:28:22.80 no73ebAC
悟りとか覚醒も人によって定義がそれぞれなんですね・・・

438:ろん
12/07/08 10:33:21.83 16qf4yfb
473はまずはこれに参じろ。。
基本中の基本だ。。
勘違いはまず、ないものをあるとお妄ことの中にあるんだよ。。

觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩?。依般若波羅蜜多故。心無?礙。無?礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不?故。
?般若波羅蜜多咒即?咒曰
?帝?帝 般羅?帝 般羅僧?帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經


439:ろん
12/07/08 10:46:59.81 16qf4yfb
ないと言うのは、存在しないとか現象がないと言うことではなく、何の実体もない、水の泡みたいなもんだと言うこと。。

バブリーな夢の世界と言うだけ。。

その夢を真実在と思い込んでの七転八倒を仮に輪廻とか迷いと言っとるだけ。。

その迷いもまた実体のない夢なんだけどね。。

440:神も仏も名無しさん
12/07/08 11:32:23.91 7wtBOnMc
>>421
>既に行い、預流果を得ました
預流果は強烈な内省によりもたらされます
あくまで非我の体験、感覚ですから
語ることはできませんよね

あとは、心が定まった者勝ちです
いつ何時も心が定まっていなければなりません
2chに書き殴って満足するのとは、訳が違います
それに、言葉遊びは混迷を深めます
心が定まらない限りは偽であり苦しみは続きます

それが妄想でも、偽でもかまわないんです
真や偽を超えたところに、それはあります
だって、心が定まっているんだから、そんなもの
どうだっていいじゃありませんか

441:安道
12/07/08 11:44:07.22 tlYm89vB

露と落ち  露と消えにし  我が身かな  浪速のことは  夢のまた夢
                               豊臣秀吉 御辞世

442:473
12/07/08 11:47:40.18 O8E0iCQ1
何の実体もない、水の泡みたいなもんだ

と、言い聞かせてそれに捕われている自分から逃避することができるるが本音は全く違うと言う事がよくある。ということを419では述べていたかと思います。
だからそういう言明は自他への影響を鑑み慎重になってしかるべきなのでは。

僧燦曰く、
物事の実在を主張しても、物事の空虚を主張しても、共にその誤りに落ちると。

わたしのいうないも実体がない、水の泡のようとろんさんが言う意味とそうは違わない感覚で述べています。
論点はそこではないのでは。
実体がないと言う表現ではなく、ない、と言う表現を私が好むのは、実体がないと言う表現は実体があると思う普通の心を抑圧する働きがあるように思うからです。
このあたり好みなのですが、ろんさんへレスするときろんさんの語法に合わせなかったのは私のミスです。
ともかく論点はここではない。

443:ろん
12/07/08 11:55:19.31 16qf4yfb
>>442
取り繕ったって、嘘バレバレよ。。

おまえは迷っている人がいるとか、みんな迷ってると言ってる。。
これは、実体がないと言うことがわかったら、あり得ない言明だなよ。。

混乱があるというのそうだ。。
迷っている人には混乱があるとか・・いや、迷いもないし、混乱もない。。
おまえの誤った認識があるように錯覚しているだけだとこっちは言ってるの。。

そもそも~の人がいる、という認識があり得ない・・空と言うことがわかっていればね。。

444:473
12/07/08 11:56:15.19 O8E0iCQ1
>>433

それについて、何と申し上げるべき事でしょうか。
それが何々であると意識したとたん、その働きは止まってしまわないでしょうか。
またその悟りを希求したとたんそれは、その働きではなくその働きのような精神の作り出す夢になってしまわないでしょうか。

362さんの
amaさん
「本当にあるがままなら、執着は減っていくでしょう
執着を保存するのが、あるがままと思っているのなら、勘違いですね 」

というのは非常に良いところをついているように思います。

私はそのamaさんが悟りと言う働きがおきるような書き込みをしています。
その働きが死なないような書き込みをしています。
amaさんは悟りと言いゴールのような錯覚を与えていませんか?
>落ち着く事、というのは精神がその精神の既存の働きに安穏とするように仕向けていませんか。

起きた事を言葉としてあらわしてしまうと、今度はその言葉は自分にも他人にも夢を与えてしまうのです。
そうなるように、そうなった状態から落ちないようにかたることと、それについて描写しそれを解説したり求めてしまう事は違います。

445:神も仏も名無しさん
12/07/08 12:00:07.38 7wtBOnMc
>>441
残念ながら、その句は非我を表していません
だからといって秀吉が非我を体験したかどうかは
わかりません

446:473
12/07/08 12:00:40.67 O8E0iCQ1
>>433


そしてそこで語られている事は普通、瞑想や、くつろぎという言葉が当てられているかと思います。
それに悟りと言うゴールを暗示するような言葉を当てるのは違和感があります。
その違和感を362はいってるかもしれません。

私にとっての違和感は、何故瞑想に該当する内容を、究極の表現である悟りにするのかということです。

その中身そのものに反論はないのです。

精神にあるがままである瞑想の状態から、精神が見るあるがままの夢

に落ちてしまうような言葉を使っている事に疑問を感じるのです。

447:安道
12/07/08 12:03:04.30 tlYm89vB
>>445

非我ってなんですか?

私も坐禅が足りないので、
まだまだ夢の中なのです・・・・。

448:ろん
12/07/08 12:04:32.47 16qf4yfb
賢明な人ならこう考えることができる。。

「すべての人が迷っている」のではなくて、私がそう思い込んでいるだけではないのかと。。

「すべての人に混乱がある」のではなくて、そういう認識が私に生じているだけなのではないかと。。

さらにいえば、473の場合は、グル願望、スピリチャルリーダー願望みたいな、幼稚なヒロイズムがあるから、
「すべての人が迷っている」でなければマズイんだよww

すべての人が迷っているから、今まで詰め込んだ知識が活きるのだし、スピリチュアルな知識を身に着けた私に価値が生じることになる。。
自分だけが迷える衆生を助けることができると。。ww

ウルトラマンか戦隊ヒーローか・・そういうマンガの世界に生きている、妄想人間だってことだよ、要は。。

449:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/08 12:04:57.90 LJZnq/aG
【お題】
「友情」とはなんでしょうか?

450:神も仏も名無しさん
12/07/08 12:06:23.87 7wtBOnMc
>>447
そこに坐禅は不要です
自分って何?を問い続けていけば必ず辿りつけると思います

451:473
12/07/08 12:10:26.29 O8E0iCQ1
賢明な人ならこう考えることができる。

473の場合は、グル願望、スピリチャルリーダー願望みたいな、幼稚なヒロイズムがある

私がそう思い込んでいるだけではないのかと。
そういう認識が私に生じているだけなのではないかと。

452:ろん
12/07/08 12:10:48.81 16qf4yfb
あとはまー思考、分析に価値があると思い込んでるーつーことだな。。

そもそも思考の対象が生じた時点で、錯覚なのだから、その錯覚について、あれこれ分析判断したって何の意味もない。。

自分が悟っていなければ、妄想ウンコの垂れ流しにかならない。。

長文を書くのは、オショーかクリシュナムルティのなりきりさんなのだろう。。

バカほど文が長くて、内容がない、と言う見本のようなものなのにな。。w

453:ろん
12/07/08 12:12:03.38 16qf4yfb
>>451
そうだけど、当たってるだろーが。。ww

認識でも当たってりゃー、その通りなのよ。。w

454:473
12/07/08 12:12:14.32 O8E0iCQ1
実体はない。

これって実体をたくさんの物事に感じておびえている人が好みそうなフレーズですね。

本当に実体を感じていない人は、わざわざありもしない 実体 がなんていわないと思うのです。
ないものはただないでしょう。

と言っても私はあると感じているのが実情なのでその辺は正直に行きます。

455:安道
12/07/08 12:13:10.11 tlYm89vB
>>450

坐禅をしろとか、必要無いとか・・・
自分って何?と問えとか・・・
面白いですね

456:ろん
12/07/08 12:14:02.20 16qf4yfb
>>454
ぜんぜん正直になれてない。。ww

正直になるなら、黙って修行でもしてろと言うこと。。

457:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/08 12:15:04.46 LJZnq/aG
>>448
>賢明な人ならこう考えることができる。。
「すべての人が迷っている」のではなくて、私がそう思い込んでいるだけではないのかと。。

なるほど、勉強になりました
ありがとうございます
m(_ _)m

458:473
12/07/08 12:17:54.81 O8E0iCQ1
>>453

本当にそうだと思うなら。

認識でも当たってりゃー、その通りなのよ。
とか言えませんって。

あなた悟った人への基準を443で出していますが、こういう基準は物事を限界なくゆがめて見る事ができます。

そもそも、悟りの言明ではなく、悟ってない人のための方便として古くからあるあまりにありふれたものなのですけどね。

459:ニカサ・アア ◆UNegKIvARw
12/07/08 12:20:20.65 FP1hrA/6
>>422
>>既に行い、預流果を得ました。
> 本当に得た人間はそのように語らないでしょう。

語る語らないはその人の選択です。あなたの選択ではありません。
必要と感じれば、「語るときもある」ぐらいです。

また、果を得たときは「果を得た」との知見が生じます(解脱知見)。

ただ、ここでいう得るだの生じるだのは仮の我の上の話であって、
本当のところは何も得ず、何も生まれていません(無生法忍)。


ちょうどいいことに、認識者と認識されるものの関係については、
amaさんが>>431でやりとりされているので、是非そちらも参照して
ください。

特に、以下はとても鋭いと思います。

> 認識者がいることを前提に出発してしまっているのですね。

自らの果がまだまだ駆け出しなのを思い知るよい機会でした。

460:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/08 12:22:51.87 LJZnq/aG
>>448
>賢明な人ならこう考えることができる。。
「すべての人が迷っている」のではなくて、私がそう思い込んでいるだけではないのかと。。

♪私が思っていることは私が思っていることなのですね

461:ろん
12/07/08 12:23:20.67 16qf4yfb
>>458
だから、なんでお前は勘違いしまくるのか。。ww

>>443のどこが悟った人の基準なんじゃ、ボケ。。
空と言うことがわかったら、こうなると言ってるだけに過ぎんのに。。

462:473
12/07/08 12:24:05.01 O8E0iCQ1
偏った事を書いたらいつか私の書き込みを読んで誰かが偏った影響を受けてしまう。
それゆえにプラスマイナスゼロにとりあえずしておこうと後で補足し、伸びてしまいますね。

>>457

やっぱりそれが問題の原因そのものへのアプローチなのかもしれません。
知的賛同は良くない。しかし。

463:ろん
12/07/08 12:24:45.64 16qf4yfb
>>460
うん、そう。。
物わかりがいいねー。。

464:ろん
12/07/08 12:28:23.45 16qf4yfb
>>462
いや、おまえの書き込みなんざまともに読んでるやつはそんなにおらんと思うぞ。。

僕だって僕に対するレスしか読んでないし。。

読んだって、意味ないんだから、影響受ける人なんていないだろうよ。。w

長文書いて自己満足しているアホがいるなーと言うくらいなもん。。

あっはっは、そんなに自分の影響力があると思ってんのか。。ww

バカも休み休み言え。。w

465:473
12/07/08 12:30:01.83 O8E0iCQ1
>>431

無意識な状態では認識者に気付く事ができず認識だけがあるでしょう。

瞑想において認識者が自覚されるでしょう。前者の状態で認識者を探しにゆくと言う事ではありません。

そして認識者と認識があるという関係に覚めているところから、その関係性が創作であり、苦の元であったと気付く。らしいです。

認識者が認識を作っていると言う自覚が瞑想であり、悟りの一瞥と言われるでしょう。
それを探しにいくということは、まだ認識者がいると言う事を知らない。
認識者が作り出した認識と言う像に踊らされていると言う事を意味している。(のではないかな)

466:473
12/07/08 12:31:27.71 O8E0iCQ1
空と言うことがわかったらこうだという基準

基準があると物事はゆがめて見る事ができる。

論点が見えないのは相変わらずだねえ。基準の話ですよw

467:473
12/07/08 12:32:59.39 O8E0iCQ1
>>459

本当にそれを見てきた人にしか語れない、その人ならではのユニークな表現。
本当にそれを見てきた人なら語れるはずだけどね。

受け売りばかり。
話にはまるでついていけてない。

468:神も仏も名無しさん
12/07/08 12:34:02.56 7wtBOnMc
>>450
座禅は心を定めるのに非常に役にたちます。必要なのはここです
>>449
友情とは依存です。愛情も依存、2chへの書き込みも依存
自己も依存です。強弱ありますが他にも依存対象はいっぱいあるでしょうね

469:473
12/07/08 12:36:48.97 O8E0iCQ1
amaさん >>433

無意識な状態では認識者に気付く事ができず認識だけがあるでしょう。

瞑想において認識者が自覚されるでしょう。前者の状態で認識者を探しにゆくと言う事ではありません。

そして認識者と認識があるという関係に覚めているところから、その関係性が創作であり、苦の元であったと気付く。らしいです。

認識者が認識を作っていると言う自覚が瞑想であり、悟りの一瞥と言われるでしょう。
それを探しにいくということは、まだ認識者がいると言う事を知らない。
認識者が作り出した認識と言う像に踊らされているという事を意味している。(のではないかな)



470:神も仏も名無しさん
12/07/08 12:53:41.25 7wtBOnMc
わかっているとは思いますが
依存とは執着です
自分にとって意味のある執着とは何か?
考えてもいいかもしれません

471:473
12/07/08 12:58:53.80 O8E0iCQ1
「友情」とはなんでしょうか?

その問いは多くの忘れている事を思い起こさせます。

不純なものを意識の炎で燃やし尽くす道と
純粋なものに身をゆだねる道があると聞きます。

後者の道は純粋性。愛の道でしょう。どのような状況においても愛を与え、愛を受け取ります。
愛でない不純なもにおいて受け渡しする事はないでしょう。


友情。これは深い言葉です。
これは非常に遠いものに思います。
深みに達した人間同士の全面的なコミット。
自らを知らず信念に振り回される私がうかがい知れるものですら無いように思います。

472:神も仏も名無しさん
12/07/08 13:17:44.87 7wtBOnMc
その通り、友情は概念的構築から外れている存在です

473:ニカサ・アア ◆UNegKIvARw
12/07/08 13:20:37.37 FP1hrA/6
>>440
> 預流果は強烈な内省によりもたらされます

私のときはまさしくそれでしたが、あなたのときも強烈な
内省でしたか?中には歩いていて突然開けたと言う人も
いるもので。

> あくまで非我の体験、感覚ですから
> 語ることはできませんよね

心情的な体験談としては語れますが、そういうことでは
ないですね。それは語り得ない(語り尽くせない)です。

ただ、それは林檎の味を語り得ないのと、同じ分野なの
かもしれません。

> 心が定まらない限りは偽であり苦しみは続きます

心という語の指すものは人によって印象・範囲が違うので
難しいですが、言わんとすることが十二因縁のようなもの
だとするならば、その通りですね。

> だって、心が定まっているんだから、そんなもの
> どうだっていいじゃありませんか

あなたは平安を見出されましたか?
もう経験すべきことは全て経験し、何も思い残すことはない
境地ですか?

474:ニカサ・アア ◆UNegKIvARw
12/07/08 13:26:37.18 FP1hrA/6
>>467
体験すればわかることですが、解脱知見も無生法忍もありますよ。

あなたは、ろんさんの指摘をまず真摯に受け止めることから始め
られると良いでしょう。
彼は言い方はあるかもしれませんが、的を得た指摘をしています。

的を得ていることがわかるのは、あなたが「我」を一度でもいいから
離れたときになるでしょうが。。。


これも受け売りではない話ですが、ついてこれますか?

475:473
12/07/08 13:28:30.16 O8E0iCQ1
どうしても他者の言葉と言うのは

「自分がもしこういうならこういう意味で言うだろう」

という解釈のフィルターがまず入るのですね。
相手は良くも悪くも多かれ少なかれ別の意味をこめて言っているのですが。
私たちは自分と異なる言葉を使う相手には、悪い意味を与えがちです。

彼の言っている意味をとろうとする事そのものがまれです。
そしてとろうとしても、取れない事に気づきます。
自分自身の意味の構築のパターンから自由でないのに相手の意味構築はわからない。
大きな誤解はしないように気をつけることぐらいはできるのでうまくやるより大きく間違わない事が大切でしょうか。

込めた意味の解釈をずらされた私も相手もいらだちます。
こうして今日も平和じゃない世の中です。
うん。
しかたないね。

大体本音、意味づけのほうがずれていたら、そもそも実情として違っているわけだから
言葉は相互理解の道具たりえず、論争に火をくべる事しかできないかもしれない。
異なる実存の両者において言葉とは和解の方策ではなく、争いを表面化させずやり過ごすために使われるべきかもしれない。

476:473
12/07/08 13:42:18.18 O8E0iCQ1
>>474

目覚めのほうは対象として存在するわけではないので、目覚めた人であってこそ
自らのまた一般的な、眠り、欲望について自らの言葉で
現代語で語る事ができるようになるでしょう。

目覚めの一瞥にも体験は副産物としてありますが、想像上の瞑想、解放の夢の体験のほうが
体験としては強烈だったりするので、体験そのものはこれと特定できるものではないですね。

体験そのものではなく、物事の認識がそれまでと変わってしまうのです。
過ぎた体験ではなく永続性のある「小さな」変化の事です。
1500分の3だけは目覚めているので(小さな変化)それが中心となって広大な欲望の群れを認知し始めます。
それまでは自らは欲望そのものなのでけっして欲望を直接認知できません。

できるのは自らでなく、対象としての欲ではない自らであるところの欲望でなく、
想像上の悟りや、想像通りできる体験について語ることだけです。
束縛された精神は解放の夢に憧れ、その通りの体験ができます。
あとはその体験に経典の概念をこじつけて当てはめれば精神は自らを偽り延命できます。
もう得たと思ったらそこまででしょう。

それが決定的な差でしょう。

それにそもそも悟りの段階と言ったものがあるわけではないのです。
それは過渡期としての夢です。
(と言っても私にとってたとえば4段目は幻ではなく、あるものとして映るのです。それは4番目じゃないからですねw
このへんの逆説)

477:473
12/07/08 14:29:52.45 O8E0iCQ1
その仮の段階の意味で悟った人、目覚めの一瞥を得た人は、

悟りに「ついて」あるパターンを持って語ることを好まないでしょう。

むしろ悟りに「よって」あらゆる物事を語ることを好むでしょう。

悟りについて語り精神が悟りを目指さすよう、夢見るよう仕向けるより、
信念の働きが弱まるように語り精神が静まりそれそのものを見出すように自他にはたらきかけるでしょう。

これが持ってないものを概念で求めている人と、持っているものによってそれを生きている人間の差ではないでしょうか。

未だ目覚めていない内は、目覚めていないと言う事を本当の意味で知る事はできない。
しかしそれでも観察と経典の力を借り、自らの実情を知的にでも理解し、修行の果てに利己的な努力を一瞬でも落としうる。
しかし、実情を知的にでも理解していたらであり、既に自由だと思っている捕われた精神は精神を超えたものを見出す事は決してない。

ここで目覚めたときその体験と目覚めにおぼれ探求をやめてしまう危険性なのか誘惑なのかがあります。
誘惑に乗らなければこの時点で初めて自分が牢獄の中にいることを実感できます。
目覚めがなければ牢獄の中にいることすら実感はできません。

その上で、その牢獄の中にいると言う実感の元でこそ、その牢獄が自らそれに執着しているが故のものであると
見抜く機会もあるでしょう。
最初は牢獄に執着している事そのものなのでそれに気付けない。
気付けないが知的にでも当たりをつけ修行すれば一瞬でも抜けうる。
そしてそれにおぼれなければ、、と。

要は宗教の本と言うのは膨大な落とし穴回避です。
OSHOやグルジェフや、クリシュナムルティーの講和があんなに長いのは悟りはシンプルでも
人が落ちうる落とし穴のほうは無限にあるのでそれを先回りしなければならないからでしょう。

478:ろん
12/07/08 14:46:34.96 16qf4yfb
>>477
>OSHOやグルジェフや、クリシュナムルティーの講和があんなに長いのは

473と同じで、見聞はあっても実際は見たことがないから、何にもわからなかったからです。。w

要はプロパガンダ演説と一緒。。ww

479:ニカサ・アア ◆UNegKIvARw
12/07/08 14:48:32.38 FP1hrA/6
>>476
あなたは「まだ」の人です。
あなたは、目覚めた人を語るどころか、amaさんや悟り子さんろんさんや何人かの
名無しさん達のいる境地(内的な理解)すら辿り着いていないです。

目覚めの一瞥などと書かれても、根本的な無理解に基づいた考察から成り立って
いるため、奇妙な、ピエロのような、チグハグの論になっています。

そして、その根本的な無理解は書物や表層的な考察にて正されるものではないです。
正すやり方を非常に簡単にいえば>>15になります。

あなたは、あなたが分析・理解しようとしていることに、本当に必要な内的な理解・
体験・経験・洞察・把握(言葉は人それぞれです)を、まだ経ていません。

480:悟り子 ◆AAyxyMDKw6
12/07/08 14:54:04.83 LJZnq/aG
私達はイチャイチャしてますね
私達は大まじめにイチャイチャしています
(悟り子も含めて)
ろんさんと473さんの関係も友情以外の何物でもなく
他も全てそうなのでしょうね
このイチャイチャに終わりは無いのかもしれません・

481:ろん
12/07/08 14:59:03.29 16qf4yfb
>>480
人妻とイチャイチャっていいな~。。w

今度僕んちに来てよ。。ww


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