12/06/23 18:18:26.75 U5Vfu2jY
>>105
無我を思惟している主体は「我」だから、「無我」は論理的にも、実際的にも
成立し得ない。
煩悩は「我」から発し、それを滅しようとするのも「我」である。
煩悩は、「生きている」、即ち「我(生命)がある」ことの証。我の維持に
不可欠な心的作用。死と共に消滅する。
107:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/06/23 18:19:48.61 sncTBiW+
>105
貴方は世界の構造を構築する某という規範が存在するとか考えてますか?
その仮定に対して仏教のロジックが沿わないと考えてません?
(^。^)その仮説が間違いってのが「諸法無我」かも。
108:神も仏も名無しさん
12/06/23 18:24:17.07 XVoPu8V6
>>106
反仏教の立場ですか。
>>107
そのような話はしてないかと。
あくまで仏教の教義内での質問です。
109:神も仏も名無しさん
12/06/23 18:34:07.23 U5Vfu2jY
>>108
仏教であっても、論理性、合理性、現実性は必要です。それが無ければ、単なる
妄想・狂気に過ぎなくなってしまいます。
110:神も仏も名無しさん
12/06/23 18:43:09.92 XVoPu8V6
>>109
世俗的価値体系に拘泥し過ぎる事による誤りの可能性にも考慮の余地があっていいがその通りです。
四法印の一つを全否定しているので反仏教とお見受けしたのですが。
111:神も仏も名無しさん
12/06/23 18:47:40.92 U5Vfu2jY
>>110
四法印のいずれについても、同様に、「論理性・合理性・現実性」は必要です。
112:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/06/23 18:48:34.78 sncTBiW+
>108
仏教の教義でなら、諸法無我も諸行無常もそのままの意味であり、
煩悩に関する問題に限定して自己同一性など持ち出す必要は無いかと思いますがね?
(^。^)君自身の判断基準にそぐわないなら仏教を学ぶ必要は無い。
113:神も仏も名無しさん
12/06/23 18:50:03.47 XVoPu8V6
キリスト教徒です。宗教は総じて嫌いですが哲学的思索の一助として見ている者です。
等の返答を期待してるのですが。
114:神も仏も名無しさん
12/06/23 18:52:55.14 XVoPu8V6
>>112
そう発狂なさらず。
理解を努めている初学者の助力をなさってください。
115:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/06/23 18:56:54.33 sncTBiW+
>114
(^。^;)お前は何を言っているんだ?
つーか、議論したいなら議論スレ行きなさい。
116:神も仏も名無しさん
12/06/23 19:09:40.27 XVoPu8V6
単なる初学者の質問なんですが、
そこはこう考えられてるのですとすぐには答えの出ない議論の範疇でしたか?
117:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/06/23 19:14:37.46 sncTBiW+
>116
つ112
118:神も仏も名無しさん
12/06/23 19:18:30.53 XVoPu8V6
>>117
あなた八正道に反してますよ。
後人の指導に当たる者は仏教徒らしく振舞いなさい。
119:神も仏も名無しさん
12/06/23 20:55:43.55 6kH0zbgW
>>105
ああ、なるほど発想が西洋論理なんじゃないでしょうか?
とりあえず、それを捨てないと理解できないと思います。
これ以上やりたければ議論スレに移行してください。
120:神も仏も名無しさん
12/06/24 01:32:47.31 BKVR1vQa
>>109 仏教とは、悩み苦しみの原因を消したり制御したりして、
悩み苦しみを消したり制御する教えです。
あくまで日常生活に即した実践的な教えです。
怒ってる人が、無常や無我を思って怒りがスーッと冷めるとか、
あれこれ悩んでるときに「これは私の煩悩が原因だな」と冷静になって心が晴れるとか。
無我がわかってる人は、例えば、昨日ケンカした相手に今日あったときに、
まるで初対面の人とあったかのように敵意も失礼もなく、くったくなく話ができる、みたいな。
昨日の自分と今日の自分の感情に同一性をもたせる必要はないんだから。
121:神も仏も名無しさん
12/06/24 01:40:24.59 BKVR1vQa
無我が本当にわかってる人は、たぶん家族を殺した犯人とでも心から和やかに談笑できる。
まぁ、そんな人がいたら、世俗的な価値観から「人でなし」だろうけど。
よく事件の被害者家族の恨みとかも「それは煩悩ですよ。すんだことは忘れましょう。」となるし。
122:神も仏も名無しさん
12/06/24 05:34:50.95 KUCsgatG
「煩悩を滅する」という不自然な欲望こそ、最大の煩悩。
123:神も仏も名無しさん
12/06/24 05:36:19.24 ErEG/R0b
>>122
これは生命教というアラシです。
124:神も仏も名無しさん
12/06/24 05:58:35.02 KUCsgatG
>>119
本当に「真理」であれば、西洋・東洋を問わず、「すべての人間」に理解し得る
はず。
多くの西洋人が、仏教を信じ、また研究している。「キリスト教の究極の目的は、
仏教の空である」という神学者もいる。
中論は、西洋人にも感銘を与えている。
125:神も仏も名無しさん
12/06/24 20:04:22.62 BKVR1vQa
>>122 煩悩を動機にして修行をはじめ、やがて煩悩を滅するというのも「アリ」では。
126:神も仏も名無しさん
12/06/24 23:20:29.68 jPnI5mIO
>>125
「煩悩を滅する」という目的のために修行するのでは、その煩悩は修行中
続く。修行を一切止めるよりほかには、方法はない。修行を止めて煩悩を
受け入れれば、煩悩は去る。
127:神も仏も名無しさん
12/06/25 17:02:09.53 LVZ2WKqq
高空に浮かぶ天上巨大構造物、多宝如来の多宝塔。
地割れと共に地面から無数の金色に輝く菩薩の出現まで
様々な奇跡が予言されている。
そして、それらは今年中に起こる。
全ては法華経に予言されている。
128:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/06/25 18:25:09.43 T/k2AWmt
>127
ここは質問スレだよ。
129:神も仏も名無しさん
12/06/29 15:12:07.90 D1qlsY/B
昔のお坊さんは法事などでお経をあげるときに、
説法もしてたと思うのですが、
最近のお坊さんは説法する人が少ないように思います。
お坊さんは説法をするべきだと思いませんか?
130:神も仏も名無しさん
12/06/29 21:44:53.00 GcGBVsmB
宗教をどう捉えるかによって人それぞれ違う
131:神も仏も名無しさん
12/06/29 22:21:37.06 v0u6Bf/F
>>129
うちの近所(首都圏ギリギリのベッドタウン在住)で親戚とかの法事に行った範囲では、どの坊さんも説教してたけど?
どの辺のお寺(都会、田舎etc)に、何度ぐらい行って、説法が無かったのは何人ぐらいだったの?
132:brown
12/06/30 01:40:35.06 HdgSIfOo
>>106
正しくは↓ですね。
無我を思惟している主体は「無我」だから、「無我」は論理的にも、
実際的にも成立している。
煩悩は「無我」から発し、それを滅しようとするのも「無我」である。
煩悩は、「生きている」、即ち「我(生命)が無い」ことの証。
煩悩は,我の維持とは無関係な心作用。死と共に消滅することもあり得ない。
133:brown
12/06/30 02:09:37.74 HdgSIfOo
>>100
ご推察の通り,無我と無常は同じ意味です。自己同一性の欠如も。
ところで,疑問は,無我なる私に煩悩が生じてくるのだから,「無我」は煩悩の
退治にならないのではないか? ということでしょう。
煩悩は無我なる私に生じてくるのですが,煩悩が指向する対象は,単に無我
の現象ではなく,無我の現象の上に,我を増益したところなんですね。
だから,増益された我を「無我」として滅することで,煩悩を滅することが
できるというわけです。
本来は無我なのに,それを我と見たところに煩悩は生じる。そこで,
その誤った見解を正すと,誤って我ありと見ていた心がなくなるので,
煩悩はその取り付く島を失い,消えてしまうというわけです。
134:神も仏も名無しさん
12/06/30 09:34:07.14 RW1HdiJq
>>133
> ところで,疑問は,無我なる私に煩悩が生じてくるのだから,「無我」は煩悩の
> 退治にならないのではないか? ということでしょう。
お察しの通りです。
> 煩悩は無我なる私に生じてくるのですが,煩悩が指向する対象は,単に無我
> の現象ではなく,無我の現象の上に,我を増益したところなんですね。
上で書いた論旨で増益されたと指摘されている煩悩を無我が内包する事は可能かと。
135:神も仏も名無しさん
12/06/30 09:37:14.23 RW1HdiJq
可能に留まらず、やはり無我概念によって煩悩は変化はしないとまで言って差し支えないのではないでしょうか。
136:神も仏も名無しさん
12/06/30 10:09:30.72 3NbBti7c
>>132
>正しくは↓ですね。
論理的に滅茶苦茶。誰にも理解できんよw。
137:brown
12/06/30 13:09:05.21 HdgSIfOo
>>135, 136
なるほど。そのとおりですよ。
もちろん増益された我を対象とした煩悩も,無我が内包しています。
元々無我なのだから,煩悩も無我です。
だから,無我によって煩悩は変化しません。真実には。
ところが,人の認識は真実とはずれていて,無我を我と認識しているので,
それを「無我」と正しい認識に改めることによって,煩悩は消えます。
人の認識の中で。
真実に無我だというのと,現実の認識として無我だというのとは違う
ということですね。真実には変化はないんですね。その辺を注意して,
諸「法」無我と諸「行」無常と,無我と無常ではちょっと範囲が違っています。
138:神も仏も名無しさん
12/06/30 13:11:11.15 4wNEMAjb
質問させてください!
無分別智ってソシュール的な言語による分別から解放されることですか?
たとえば、(健常者/障害者)の分別をやめると(人間)
(人間/非人間)の分別をやめると…このように、延々と分別をやめていって、
この世を一つの宇宙として見るような感覚なのでしょうか?
また、これは竜樹の指し示す空や縁起と関係ありますか?
139:神も仏も名無しさん
12/06/30 13:20:16.65 U0H27XZx
>>137
>人の認識は真実とはずれていて,無我を我と認識しているので
その「真実」とやらを、誰がどうやって認識したのかね?w
「無我」を思考・認識する主体は何?「我」に決まっているだろw。
いずれにせよ、釈迦の「無我」は、「己の我を以って我を否定した」という点で、
完全に論理矛盾で誤り。
140:brown
12/06/30 13:36:42.05 HdgSIfOo
>>139
「我」という漢字が誤解を生みやすいという問題もあるのですが,
「無我」といっても主体がないということではありません。
主体や存在を直接・全面否定すると,「完全に論理矛盾で誤り」です。
道徳も破壊されますね。結構そういう論調も見受けられるのも事実です。
「主体が無い」ということではなくて,無我といっているのは,
主体が無常だとか,主体の我がないとか,時間を貫いて不変の自己同一性は
ないという意味です。
だから,真実をその主体は認識するし,無我をその主体が思考します。
ただし,その主体は,無常であり,時間を貫いて不変の自己同一性はない
というだけです。
141:神も仏も名無しさん
12/06/30 13:47:44.69 U0H27XZx
>>140
ちゃんと「主体」があるのなら、「『無』我」というのはおかしいね。
「無我」という言葉自体が、既に「有我」を前提としている。「無」は「有」を
前提とする。「無常」も「常」の状態があることを前提とする。
いずれにせよ、「無我」という言葉は誤り。
142:神も仏も名無しさん
12/06/30 14:02:48.84 4wNEMAjb
138ですが、横槍、失礼しますします
>「無我」を思考・認識する主体は何?「我」に決まっているだろ
「我が思考する・認識する・見る・聞く・味わう」と聞くと、
「思考・認識しない・見ない・聞かない・味わわない我」というものが存在することになります。
しかし、人間からあらゆる五感を取り除いたら、そもそも我を含めて何も残らないと思いませんか?
逆に言えば、そのように五感による認識があり、その後から「我」が追認されたのであり、
先に我があったわけじゃないと思うんですよ。
釈尊が五蘊仮和合を説明して、五蘊がどれもアートマンではないと言ったこと、
そして「誰々が食べる」ではなく「食べるという"作用がある"」というまどろっこしい言い方をした背景には
こういうことがあったのではないでしょうか?
143:神も仏も名無しさん
12/06/30 14:26:57.87 U0H27XZx
>>142
生命がなければ、五感も一切生じない。五感の前に生命がある。死者には、
知覚も煩悩もない。
食べるという生活作用も、我(生命)から生じる。
釈迦も「無我」はさすがに言いすぎだと思ったのではないかね。「非我」など
とも言っているが、これではモロに「我」を前提としている。
144:神も仏も名無しさん
12/06/30 14:40:18.72 4wNEMAjb
>>143
我(=生命)とする部分がちょっとよく分かりません・・・
たとえば、腕には生きた細胞(生命)がうごめいていますが、腕も細胞も我ならざるものです。
もちろん、「我」のような根源的な"何か"が無いと認識作用自体が生まれないんじゃないのか?
というお気持ちは分かりますが、少なくともその"何か"はどこにも見つかりません。
「少なくとも、その細胞は我ならざるものである」といって、我が見つからないことを1つ1つ挙げるしかできないという…
「非我」は「それ(五蘊)は我ならざるものである」という意味で使っていたと思います
「我は無い」とは一言も言っていなかったような…
もちろん、「すべての諸法は我ならざるものである」という命題から論理的に
「我は無い」を導くこともできますが、それは現代的な論理的な考えであり、
釈尊の言うところではない気もします。
「我はある/我はない」という命題は、「私が説いた法ならざるものである」と彼なら言う気がします。
145:神も仏も名無しさん
12/06/30 15:14:18.89 MJSIuYab
>>144
U0H27XZx は生命教という独自の説を唱える変わった方ですよ。
146:神も仏も名無しさん
12/06/30 15:22:55.44 RW1HdiJq
>>137
やはり無理があるでしょう。
真実として存在するものを
実我から仮我に視点を移したところで事実としても認識としても何ら変わらない。
また別の疑問に踏み込むなら
諸行無常でありながら真実というものを想定している事に矛盾がある。
すべてのものが生滅流転して永久不変なものは無いと述べながら
私のいう事は永久不変な真理であると言ってしまえば利己的に破綻している。
147:神も仏も名無しさん
12/06/30 15:46:19.41 RW1HdiJq
>>141
永久不変な我は無いという解釈での語法なら可能だね。
そこで使われている語は専門語としての我で
常一主宰である実我をさしており、無実我を無我と呼んでいる。
148:神も仏も名無しさん
12/06/30 15:51:23.54 oMTnIBR/
>>144
>我(=生命)とする部分がちょっとよく分かりません。
要するに、生命現象を現す肉体(生命)と死体との区別ですよw。この区別が
出来なければ、死者の火葬も埋葬も出来ません。「殺人罪」になりますから。
死ねば、腕も細胞も脳もその他身体のすべての器官は壊死し、分解し、機能を
失います。来世の認識もできませんから、来世は無いのと同じです。
生命現象を現す原動力(生命そのもの)は何かは、己の生命を以っては把握で
きません。何故なら、把握主体と把握客体が同一ですから、把握は不可能でナ
ンセンスだからです。
生命そのものは、人間が対象化不可能な唯一の存在です。
生命現象を現す肉体(生命)は、宗教を含む人間のすべての営みの根源であり、
それらに先立つ最上位概念です。
釈迦もイエスもその他如何なる人間も生物も、生命から見れば、生まれながらに
その奴隷に過ぎません。生命そのものは、また、生存本能と言い換えることが
できます。「生きようとする欲求」が、すべての生物に共通な「唯一の普遍の
事実」だからです。
149:神も仏も名無しさん
12/06/30 16:39:38.46 4wNEMAjb
>>148
なるほど、大体は理解できたと思います。
釈迦もイエスも根源的な生命そのものがあったからこそ生まれた、
そしてその根源は把握できない、ということですよね
しかし、それが「我がある」、「認識の主体がある」という見解にどのように結びつくのでしょうか。
もう1つ、「来世の認識もできませんから、来世は無いのと同じ」を応用すると、
「生命現象を現す原動力(生命そのもの)は把握できないから、無いのと同じ」とは言えないのでしょうか。
150:神も仏も名無しさん
12/06/30 17:25:46.51 vKLE+TKZ
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」by親鸞
浄土真宗西本願寺派なんだけど、これ以上の名言って他の宗派であるのかな?
あったら教えてください。
151:神も仏も名無しさん
12/06/30 18:03:05.88 zLLWFZM/
>>149
認識・思考にはその主体が必要です。死者には不可能です。
釈迦が「無我」を思考したのは、釈迦の我、即ち生命です。
生命そのものは対象化できないが、「生命現象を現す肉体」は万人が
対象化(知覚)できます。生命現象は、肉体の隅々にまで現れています。
従って「生命=生命現象を現す肉体」としても、何ら問題はないと思います。
152:神も仏も名無しさん
12/06/30 18:44:18.04 4wNEMAjb
>>151
>認識・思考にはその主体が必要です
>>142は読んでくれましたか?「認識する主体」があるなら「認識しない主体」もあるはずですが、
五感などを用いた認識・思考をそぎ落としていくと、
そこには主体と呼ばれるような「我」は残らないとは思いませんか?
認識がまず先に起こるから、
その次に「我ってあるよね!君もそう思うでしょ?」
と間主観的に「我」なるものを追認・仮構することができる、という順番です。
我を欲望と言い換えても同じ結果になると思います。
認識作用が無いならば、食べ物も目の前に現れない、現れていないものに対する欲望はありません。
悟ることが諸々の認識作用を滅却することだとすれば、悟ることは生きることを辞めること、
原始仏教は極端に言えば、それほど厭世観に満ちたものだったいう印象です。
(あなたがいうところの「死者」になる、という意味では当然ありません。)
>「生命=生命現象を現す肉体」としても、何ら問題はない
左辺は対象化できないもの、右辺は対象化できるもの、とのことですか、
「対象化できないもの=対象化できるもの」とすると、矛盾命題にしか見えないのですが。
153:神も仏も名無しさん
12/06/30 19:27:43.11 zLLWFZM/
>>152
人間を含むすべての動物は、出生と同時に知覚・思考が生じる。それが無ければ、
外界での生存が不可能だからだ。いや、胎児のうちにも生じている。胎児は複雑な
産道を巧みに通過して出生する。宗教者の場合は、認識・思考をすべてそぎ落としても、
悟り、解脱、釈迦などという宗教観念は残るw。欲望も、欲望主体がまず存在しなければ、
生じようがない。
対象化できないものを対象化する方法として「象徴」がある。例えば、「天皇は
日本国民の統合の象徴」、「赤は、情熱の象徴」、等等。生命の場合は、生命現象
は肉体の隅々まで現れているから、肉体は象徴以上のものであり、「肉体=生命」
としても何ら問題はない。
154:神も仏も名無しさん
12/06/30 19:38:37.97 zLLWFZM/
>>152
>「認識する主体」があるなら「認識しない主体」もあるはずですが
宗教者が、開祖・教義をすべてそぎ落とせてから、それを言ってくれw。
155:神も仏も名無しさん
12/06/30 20:17:07.18 4wNEMAjb
>>153
>出生と同時に知覚・思考が生じる
すみません、仮にそうだとして、この件からどんな結論を導けるのでしょうか。
>欲望主体がまず存在しなければ、生じようがない
厳密には認識作用が存在しなければ欲望は生じない、ですね。
「欲望がある」ための必要条件は「欲望の対象がある」ことです。
「欲望の対象がある」ための必要条件は「認識作用がある」ことです。
従って、「欲望があるならば、認識作用がある」、その対偶「認識作用が無いならば、欲望はない」が導かれます。
>宗教者の場合は、認識・思考をすべてそぎ落としても、悟り、解脱、釈迦などという宗教観念は残る
これは(悟りをまだ開いていない)宗教者というより、ブッダの場合のことですよね。
これは自分も気になるところではあります。認識作用を寂滅して無分別智を体得した後、
改めて世界を分別、再構成した上で、それらの諸概念を用いて説法した、と自分は解釈していますが…。
前に友達に「悟ったのに何で食べるの?生きたいという欲望がなければ食べないでいいじゃん」と言われて困りましたw
これについては、誰か詳しい方、教えていただけませんか。
あと、>>138の質問についてもお願いします…
156:神も仏も名無しさん
12/06/30 20:37:22.81 pvQfepc3
>>131
田舎のお坊さん4名と都会のお坊さん2名に会ったことがありますが、
説法した人は田舎のお坊さん2名です。
157:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/06/30 22:13:38.78 ZQ9px0dm
>>462>>463
肉体が存続している状態という意味での最低限の業でしょう。
(悪というような意味合いではない)。
もしも望むならば、
完成者というのは不食で死なないでいることも可能です。
食を得ないでも肉体を維持存続するエネルギーの摂取法がありますからね。
よって態々、不食の状態へと切り替えるのか?
そうではなく、普通にこれまで同様の食事を継続するだけか?ということ。
これも本人が選択することです。
また、肉体の放棄も当然、いつでもできますから。
完成者はすべてを自分で決めているのです。
割り込み失礼。
158:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/06/30 22:14:44.51 ZQ9px0dm
>>157
誤爆です。失礼
159:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/06/30 23:45:44.53 ZQ9px0dm
>>155
>前に友達に「悟ったのに何で食べるの?
>生きたいという欲望がなければ食べないでいいじゃん」と言われて困りましたw
>これについては、誰か詳しい方、教えていただけませんか。
スレリンク(psy板:467-494番)
160:神も仏も名無しさん
12/07/01 12:26:21.05 tk/iznsb
托鉢ってどうなんだろう?
世間と縁を切っておいて食事だけ貰うって都合いいよね
自給自足の生活じゃだめなのか?
161:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/01 13:25:47.91 SsnGJH/B
>>160
托鉢の目的は自分の食を得るということだけではなくて、
施しを行うことによる功徳が得られるようとの衆生済度が目的です(真意)。
修行者への施しの功徳は非常に大きいものと謂われています。
従って、多くの施しが期待される金持ちの部落よりも、
現在、貧困に喘いでいる貧民部落へと赴いて、
そこからホンの僅かな施しをさせることがより重要です。
この貧困地獄から救い出すためです。
至福を肥やすことを考えている僧侶など論外です。
多額の布施金で豪遊するなど持っての外。
162:神も仏も名無しさん
12/07/01 13:58:02.54 tk/iznsb
>>161
なるほど 与える方にもメリットがあると
都合いいですね
最低限生きられるように自力で食料を確保し、
あとはひたすら修行に励むような僧侶が素晴らしいと個人的に思います
163:神も仏も名無しさん
12/07/01 14:16:31.12 D5UB7FeI
>>162
じゃあ自分はそうすれば?
と、大抵の宗派で言われて終わっちゃうが。
164:神も仏も名無しさん
12/07/01 15:06:44.04 tk/iznsb
自分は仏教徒でも何でもないです
仏教の考えは素晴らしいのに残念に思うとこがいくつかあったので
聞いてみただけです
165:神も仏も名無しさん
12/07/01 15:54:09.89 dKXvUWpP
>>164
仏教の基本ラインである「欲(欲望)の滅」からすれば、
「托鉢で食を乞う」というのが、許容されるギリギリのところなわけです。
*(また、インドに於いては修行者の身体維持の手段としては、定番のものでもあります。
仏教だから、ではなく、道を求めて修行する者は誰でも、托鉢によるというのがデフォルトなのです。)
なぜならば、
「生産活動をし、収穫・収益を望む」ということは、そのまま、
「(本来滅すべき)欲(欲望)の肯定」に他ならないからです。
だから、実務上の利便性や、時代・関係性の環境・しがらみ等による状況上の要請があるからとは言いながらも、
世襲が批判対象であり続けるのは、ここに由来します。
166:神も仏も名無しさん
12/07/01 16:31:05.83 tk/iznsb
なるほど。
ではもっと馬鹿な質問をしますが、
もし托鉢ができない環境であれば仕方がなく生産活動をするのでしょうか?
167:神も仏も名無しさん
12/07/01 16:52:23.26 dKXvUWpP
>>166
まさにその経緯を辿ったのが(中国)禅宗です。
168:神も仏も名無しさん
12/07/01 19:50:36.27 JLbfH21s
>>166
ちょっと答えにならないかもしれないけど、
インドでシャモン達が托鉢とか思索に耽ったりできるようになった背景に、
商業・農業の発達によって修行者以外の人が生産活動に従事できるようになったということがあるみたい。
逆に言えば、商業・農業があまりに未熟だと、托鉢など修行するには不便な環境だったということ。
修行者たちも生産活動に従事することを余儀なくされたかもしれない。
169:神も仏も名無しさん
12/07/02 08:12:08.84 dDsp6ZbL
>>164 冷蔵庫のない時代に食べ残しをおいといても腐らすだけだし、
スプーン一杯分ずつを分けあたえる信者が50人くらいいれば充分1食分をまかなえるし、
信者にとっては思ってるほど負担は重くないのでは。
それに、信者は修行僧から専門的な知識を得られるのであり、
修行僧としては、在家にはできないような修行と学問にあけくれることこそが義務なんじゃないかな。
役割分担。
170:神も仏も名無しさん
12/07/02 10:41:22.41 4EaU1urU
>>167
>>168
>>169
回答ありがとうございました。
勉強になりました。
托鉢に対する偏見が幾分か和らいだ気がします。
171:神も仏も名無しさん
12/07/02 12:57:46.91 dDsp6ZbL
>>170 日本のような世襲寺院は特殊で、基本は一般信者の家庭から出家するわけで、
托鉢僧に布施するのは、間接的な「仕送り」や応援でもあるでしょう。
親戚が出家してお世話になってる教団や寺院に差し入れする感じ。
172:神も仏も名無しさん
12/07/03 15:13:30.05 zRVcnYQi
華厳とか無上正等正覚のような境涯と呼ばれるランク付けのようなものがあるみたいなのですが、何種類位あるのでしょう?
173:神も仏も名無しさん
12/07/03 21:26:01.40 RuUqLuff
御詠歌の練習したいのですが、CDなんて売っていますか?
本山では販売してませんでした。因みに真言宗。
174:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/04 08:39:49.07 2qDY8F86
>>173
「御詠歌 CD」で普通に“ショッピング検索”でググレば幾つでもでてきます。
175:神も仏も名無しさん
12/07/04 10:02:05.16 n9lmaHz3
御詠歌 ミク
176:神も仏も名無しさん
12/07/04 22:56:42.00 OJgAB2bX
有難う御座いました。
検索します。
177:記憶喪失した男
12/07/05 13:56:47.12 ZyopomTf BE:1231838036-2BP(3)
質問です。
あるがままにあれ、というのは仏教の教えですか?
どこに書いてありますか?
178:神も仏も名無しさん
12/07/05 14:44:24.93 p2LBODOy
こんにちは
最近うちが浄土宗って知ったんだけどどんな宗派ですか?
西山派って言われた。
ばあちゃんちが農家だったのと関係ありますか?
浄土宗ってマイナー?
179:神も仏も名無しさん
12/07/05 16:36:35.50 rXGJFwKE
具体例の形でお伺いします。
末期癌で日々身体の強い痛みを耐えて苦しむ人がいるとします。
仏教で彼が涅槃寂静に至るにはどのような考え方で対処すればいいですか。
180:神も仏も名無しさん
12/07/05 17:06:41.90 9C47IkAe
>>179
自分がいかに輪廻という恐ろしい不自由な場所に暮らしているか、そういう風に危機感を最初植え付けます。
そして危機感だけで終わってはまずいので、次第次第に慣れていきます。
慣れていって、輪廻から解放される、つまり解脱することですが、解脱への希望というものを持つということ、
こういう仕方で考えると非常に良いんじゃないかと思われます。
181:神も仏も名無しさん
12/07/05 17:23:05.37 HOfqQm0o
>>180
馬鹿だろ?w
一代も同意見か?wwwww
182:神も仏も名無しさん
12/07/05 18:21:49.47 o7om05F2
末期ならそのまま何もせんでもじきに涅槃寂静やろ。ほっとけば?
183:神も仏も名無しさん
12/07/05 18:39:12.19 qD6gwDkP
>>179
残念ながら手遅れ
184:神も仏も名無しさん
12/07/05 19:33:38.60 9C47IkAe
>>179
いま苦しみを感じているのは自分だけではないと思い(震災の被災者やチベット、シリアとか)
その苦しみを自分が引き受けている、と考えてみてはどうですか
>>180
なにが馬鹿かよくわからんが文句があるなら代案だせよ
185:神も仏も名無しさん
12/07/05 19:45:01.58 HOfqQm0o
>>184
つキリスト教に改宗
(末期癌ではないが)実例を一件知ってる。
186:神も仏も名無しさん
12/07/05 20:28:02.22 9C47IkAe
などと意味不明な供述をしており、
>>184 は近く韓国へ強制送還を執行
187:神も仏も名無しさん
12/07/05 20:32:35.65 srrckUjz
暖衣飽食の中ですら涅槃に辿り着けないヒヨッコ共に
病苦の渦中でどう涅槃入りするかと聞かれても困るすな
>>186
そう、さようなら。お達者で。
188:神も仏も名無しさん
12/07/05 20:45:14.93 HOfqQm0o
>>186
冗談だと思ってんの?
病名は失念したが、意識は明晰だけど体が動かせず、ほぼ寝たきり状態になった人がいて、
病室で色々な本を読んだり話を聞くうちに、実妹がカソリックの修道女で、
聖書の読み聞かせ等もしていたんだろうと思う。
で、病室で洗礼を受けて、洗礼名貰って、そして、キリスト教式で葬儀だった。
ただ、家族(遺族)は菩提寺があるし、自分達はそこへ入っていくのだからということで、
和尚に仏式の戒名をつけて貰って、納骨は先祖代々の墓地へ入れたとのこと。
病室で身体も動かせず、天井しか見えないほどの状況に於いて、
神の(聖書の)言葉が、彼の胸に響いたのだろうと思う。
このことを誰が批難できるだろう。
189:神も仏も名無しさん
12/07/05 20:46:58.00 HOfqQm0o
>>188は、≪『安心』(あんじん)とは何か?≫という究極の問いだと思うよ。
190:神も仏も名無しさん
12/07/06 00:43:10.89 8HlqnYBJ
意外に良い回答が出て来ないね。
真っ先に登場する生老病死という苦諦の基本要素だというのに。
妄想三昧のキリスト教のほうがまだ救いを与える力があるのだとすると
これは情けない事だ。
191:神も仏も名無しさん
12/07/06 03:55:01.24 0qhy6E44
>>188
具体的に、聖書のどのような文句が感動した?
いうてみい 言うてみい
192:神も仏も名無しさん
12/07/06 04:36:04.12 OO+jHsjn
>>178 浄土宗を開いたのは法然さんで、現在「浄土宗」という宗派名で呼ばれてるのは法然の弟子聖光さんの系列。
西山派は、同じく法然の弟子の証空さんの系列。
教義は、基本的にはたいして変わらない。
私達の世界で悟りを開いたのはお釈迦様(2500年前の仏教開祖)。
一方、西方極楽浄土という別の世界(宇宙)には、阿弥陀仏という仏がいて、
「南無阿弥陀仏」とその仏の名前をとなえる者がいたら
必ず死後に極楽浄土に往生させてくれる。
お釈迦様が亡くなって長年たち、難しい修行や善い行いができない堕落した仏教徒でも、
地獄におちたりせずに、称名念仏(仏の名前をとなえる)するだけで
極楽浄土という最高の環境にいけて、
そこで阿弥陀仏の指導をうけて悟りをひらくことができる。
193:神も仏も名無しさん
12/07/06 04:48:47.02 OO+jHsjn
>>178 法然の弟子には親鸞さんという人もいて、この系列が「浄土真宗」。
浄土真宗が檀信徒数では最大宗派だと思います。
「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という念仏は有名なので、
マイナー宗派というわけではないと思います。
浄土宗が登場したときは、天皇家から武士や農民まで、幅広く人気がでたそうです。
身分や老若男女にかかわらず、また、善人でも悪人でも、
ただ念仏をとなえるだけで、阿弥陀仏が必ず極楽浄土に往生させてくれ、
極楽にいけばみんな平等の光輝く菩薩(仏の見習い)になれて、
いずれ仏(最強の聖者)に成る(成仏)が確定するという、
シンプルな教えで人気がでた。
194:神も仏も名無しさん
12/07/06 04:56:53.28 OO+jHsjn
>>177 あるがままの人間は煩悩だらけで、煩悩が悩み苦しみの原因なので、
あるがままでは悩み苦しみだらけのままだよというのが仏教。
だから、あるがままではだめだよ、改善しなきゃというのが仏教。
ただし、あるがままの人間を慈しむ(憎まない)のもまた仏教。
たとえば浄土宗では、善人は善人のまま、悪人は悪人のままで、
生まれつきのままの姿で念仏すれば極楽に往生できる、と説かれます。
195:神も仏も名無しさん
12/07/06 07:59:00.06 OO+jHsjn
>>177 仏教では、あるがままを観察するのは最も大切なことです。
私達は、概念・観念のフィルターごしに物事を認識してしまうので、
なかなか「あるがまま」に見ることができません。
「あるがまま」に見て受け入れることができれば、悩み苦しみはなくなる。
仏教の修行は、物事をあるがままに見られるようになるための訓練、とも言えます。
196:神も仏も名無しさん
12/07/06 08:10:36.29 OO+jHsjn
>>179 涅槃とは煩悩が完全になくなること(仏様と同レベル)なので、
現実的には、今生でそこまで修行を完成させるのはかなり難しいので、
来世に望みをかけるしかありませんよね。
仏教徒全般にいえることは、仏・法・僧を信じて悟りを求める気持ちがあるなら、
来世はまぁまぁ悪くないだろうということ。
来世の心配がなくなったら、あとはこの世でどう安楽に過ごすか。
それは、過去や未来を妄想せずに、今・ここに集中すること。
今の1秒を生きられるなら、次の1秒もまた耐えられるでしょう。
1秒1秒に人生を区切って生きる場合は、まぁなんとか1秒くらいならガマンできる。
なのに、過去や未来とつなげてしまうと悩みは増大する。
197:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/07/06 11:05:03.30 s32k3Zs8
死に臨んで人が何を求めるかなど千差万別であり、甲という状況下では必ず乙となるなんて事は無い訳だが、
その有り得ない事を断定してしまうのがヤソであり、ヤソ病罹患者である。
ヤソになれば救われるとヤソは言うが、これが救いなどでは無く現実逃避して妄想に浸っただけである事はご存知の通りだ。
また、>179の様な設問をするメンタリティについては、なかなか興味深い点だが、スレチなのでここまでとする。
198:神も仏も名無しさん
12/07/06 11:08:47.12 8HlqnYBJ
>>197
完全に負けて中傷かよ。
仏教大したことないな。
199:神も仏も名無しさん
12/07/06 11:16:43.99 w6IowHtJ
>>198
もう一つのポイントは、
改宗の彼が、もし“神智学”や“ニューエイジ”の教えに触れていたら、
それぞれの信徒になっていたかどうか、だろうなw
「神智学やニューエイジ思想は、彼に“安心(あんじん)”を与え得たか?」
これも興味深い問いだと思うよ。 が、これもスレチだなw
200:神も仏も名無しさん
12/07/06 11:17:16.62 8HlqnYBJ
あなたは他の誰かの苦しみを救うために替わって受けている神に選ばれた人なのです
という受難の思想を語り、
キリストの挿話を話し、あの世での希望を語る。
救いの無い病者にはなるほど仏教より力がありそうじゃないか。
対抗しなよ。負けてるよ。
現実世界の苦痛からの救済を志向しているとしながら
明らかな妄想に勝てないのか。
201:神も仏も名無しさん
12/07/06 11:45:30.39 Lat+EyPm
>>198
彼は真っ当な仏教徒じゃなくて、単に縁あって仏教をちょろっと知った人だから
彼を仏教の代表にしてほしくないっす
>>199
スレチで引っ張ってすまんが、なんでもよかったと思うよ。
自分の縁を正当化してるだけにしか見えないんで、しかも極めて浅薄、無自覚、無責任。
202:神も仏も名無しさん
12/07/06 11:49:03.80 8HlqnYBJ
>>201
仏教的救済の在り方をどうぞ。
その投稿では君も中傷してるだけの愚者だ。
203:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:24:04.33 OO+jHsjn
>>202 余計な妄想雑念があるから悩みが増えるわけで、
妄想をしなくてすむ状況にするのが「救い」と言える。
死語の心配(妄想)が原因で悩んでる場合、死語の心配をしなくていい状況になれば「救い」。
方法はたとえば以下の3つ。
(1)煩悩がなくなり雑念もなくなり、死への恐怖もこの世への未練もなくする。
(2)何か、思考を集中できる対象をつくり、それに没頭してる間は雑念がなくなるので、
没頭できる時間を長くすれば悩む時間は短くなる。集中対象は冥想でも念仏でも何でも可。
(3)死後・来世の幸せ(浄土や天国)を信じることで、答えが決まってしまうので、
決まったことをそれ以上考える必要がないことから結果的に死後を妄想しなくなる。
204:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:25:37.07 w6IowHtJ
>>201
それは、改宗した彼への中傷じゃないのか?(怒
205:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/06 12:31:33.63 vAmnqRiD
>>179
もちろん、病気の治療に最善を尽くすことは当然ながらも、
場合により、病気の進行状態と当人のカルマ的限界性からは“適切なアキラメ”は必要です。
過度で無理な延命処置を強いる医療は本人にとっても、そして周囲の家族にとっても良いものとは言い難い。
寿命の尽きた肉体は諦めて放棄し、次の新しい人生に目を向けた方が前向きです。
治療はもっぱら、無理な延命よりは苦痛の軽減へ向けられるべきで、
モルヒネ等々の薬物の利用はこれも一つの助けでしょう。
私個人の趣味としては、
トラコテウォーター(奇蹟の泉)の治癒力や不動尊護摩の祈祷札でも頂けば、
不可思議な加持力が適切に作用してくれるものと確信します。
あとは、当人が心の支えとなるような信仰対象に祈ることです。
何でもいいです。宗教の違いも関係なし。
ご家族も患者の苦痛軽減と安楽な死を祈るだけです。
それしかできません。
「涅槃寂静」というのは、仏教の説く修行の果てに到達できる究極の境地のことですから、
この場合には適切な祈りとはいえません。
シンプルに死後、“善処に生ずること”ができるよう祈るだけです。
それを極楽と呼ぼうが、浄土と呼ぼうが、または天国や霊界と言うがどれでも構いません。
206:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:42:50.72 8HlqnYBJ
キリスト教に勝てそうもないな。
あの妄想だらけなのは現実を離れた心地良い妄想に浸る事でしか救えない苦しむ者を前提に
ピエロになりきっている高邁な姿とも見えてくる。
仏教のほうが実は何も分かってないのじゃないか。
207:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:43:41.12 OO+jHsjn
本来なら、入院中の病院に僧侶が出向いて話し相手になるべきなんだろうが、
坊主が病院に来ると「縁起が悪い」と周りの患者から嫌われるという話もある。
制服ぬいでいけばいいだけの話かもしれないが。
208:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:48:45.59 OO+jHsjn
>>206 昔は臨終行儀って言って、坊主が患者の寝床の横で説法や念仏をする作法もあったそうですが、
今は、亡くなってからしか坊主を呼ばないし、
はなからそういう宗教者としての役割を坊主に期待してない人が多い。
仏教の師であることは忘れられ、ただの拝み屋と思われている。
209:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:50:13.13 8HlqnYBJ
この程度の内容しか与えられないのではお呼びでないよね。
葬式でたかって不当に高額な金を巻き上げるだけの存在だ。
210:神も仏も名無しさん
12/07/06 12:58:59.28 Lat+EyPm
>>202
何が聞きたいのか分からないが、
もし、聞きたければ、簡潔に質問内容を議論スレに挙げてくれ。
ここは単純な質問スレなんで。
211:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/06 13:00:22.36 vAmnqRiD
>>199
>これも興味深い問いだと思うよ。 が、これもスレチだなw
信仰というのはキッカケがすべてだと思います。
(これもご縁としかいいようがない・・・)
幾つもの宗教につい知り、
或いは自らの遍歴によって自己にとっての最善の宗教を選択した、などという人はたぶん稀の方でしょう。
殆どの宗教信仰というのは出逢いのキッカケがすべてであって、
その時、たまたま出遭ったのがキリスト教だった、創価学会だった・・・というだけでしかない。
その中にきっと当人の心を捉えた感動の言葉なりがあったのでしょうね。
それがまた別の宗教だったら、たぶんそこの信仰に打ち込んでいたのかもしれませんね。
そんなモンです。
ただ言えることは、
どの宗教でもそこの信仰者の想い(信仰心)は殆ど等しいということ。
これは尊重してあげるようにしたい(と思う)。
それは神智学だからとも限らず・・・、
この場合はその人の心を捉えないかもしれないし、或いは心を開くものになるかもしれない。
神智学系でもクレーム派で活動に参加しているような人の大半というのも、
実際、その他の諸宗教には全然無知で、
たまたまそこの言葉に惹かれただけに過ぎないという人が多いです。
212:神も仏も名無しさん
12/07/06 13:19:03.09 8HlqnYBJ
>>210
>>179からの流れです。今のところ仏教の完敗。
213:神も仏も名無しさん
12/07/06 13:37:51.35 Lat+EyPm
>>179
いろいろ方法はあるけど。その人次第でしょ。
その人にその気があれば、浄土へ祈願するなり、高僧から教えを聞くなり、
いろいろ道はあるけど、その気がなければ、最後に高僧に引導してもらうか、
死後に浄土往生などの供養をしてもらうぐらいしかないと思います。
214:神も仏も名無しさん
12/07/06 13:59:25.41 8HlqnYBJ
キリスト教について特別知識の無い我々でも
一定程度効果のありそうな回答が用意できているのに、
仏教では高僧ならきっと何か持ってるはずという淡い期待しか提示できないのですか。
215:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:02:24.46 sXsAytUh
>>209
>この程度の内容しか与えられないのではお呼びでないよね。
そらあんたw
例えば医者に、重病であと十秒で死ぬ患者を連れてきて「さあ直せ!」と言ってもしょうがないでしょ?w
涅槃寂静とは、健全な身体と精神を持った人が懸命に修行して、ようやくたどり着けるかどうかという境地だ。
そんなもんを、病気に侵されて衰弱して混乱しきった人が出来ると思うか?
単純に苦痛を緩和するだけなら、いくらでも「あの世の話」でもして誤魔化せばいいだろうがな。
その程度でいいなら、キリスト教も得意だろうが、浄土系仏教だって得意だぜw
しかし、「涅槃寂静」と限定した時点で、質問が間違ってるとしか言いようがないな。
216:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:02:26.11 Lat+EyPm
>>214
いや、そうではないよ。どんな場合でも同じ。
仏教は道なんで、基本本人次第。
高僧の場合は、特別な能力があるので可能性があるという話。
キリスト教の場合、効果ありそうな回答というのは何?
217:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:09:18.96 8HlqnYBJ
>>215
浄土系でもいいじゃない。精神的平安をもたらすならそれが求められてる回答だよ。
ブラフであるぞあるぞともったいぶらず提示なさいな。
>>216
>200等のキリストの受難と絡めた精神的平安を与える回答さ。
218:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:15:51.74 Lat+EyPm
>>217
あ~、そういうことなら、別に仏教とかキリスト教とか関係ないんじゃない。
適当に慰められる話があればいいだけでしょう。
そりゃ、なんというかマニュアルが整備されてるかどうかなんじゃないかな。
本質とは関係ない。
私はそういうことには興味ありません。
219:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:17:31.84 8HlqnYBJ
何という事だね。苦諦の最も基本的要素である病者を癒す術に関心が無い。
地獄生きだぞその暴言は。
220:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:19:02.05 sXsAytUh
>>217
>浄土系でもいいじゃない。精神的平安をもたらすならそれが求められてる回答だよ。
>ブラフであるぞあるぞともったいぶらず提示なさいな。
だから、質問が間違ってるんだよw
「精神的平安」程度でいいなら、いくらでもできるだろうよw
涅槃寂静なんて言い出すから、話がややこしくなってるんだよ。
そして、「精神的平安」なら、専門外だがググれば出てくる程度の回答でよければいくらでもするぞw
例えば、浄土宗なら、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後に阿弥陀仏の世界に生まれる事が出来て、
安穏な生活が保障されてるだけでなく、阿弥陀如来の直接指導で成仏間違いなし!
浄土真宗ならさらに凄くて、念仏を唱えなくても阿弥陀如来の大慈悲で既に救われているらしいぞ!
おまけに、どんな極悪人だって必ず救われる。
今は末期癌で苦しかろうとも、来世は極楽浄土で間違いなしだ。
221:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:23:31.19 8HlqnYBJ
>>220
> 例えば、浄土宗なら、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後に阿弥陀仏の世界に生まれる事が出来て、
> 安穏な生活が保障されてるだけでなく、阿弥陀如来の直接指導で成仏間違いなし!
> 浄土真宗ならさらに凄くて、念仏を唱えなくても阿弥陀如来の大慈悲で既に救われているらしいぞ!
> おまけに、どんな極悪人だって必ず救われる。
> 今は末期癌で苦しかろうとも、来世は極楽浄土で間違いなしだ。
まったく訴えるものが無い。
そんなてきとうにこしらえたようだと
看護人に張り倒されて追い出されるんじゃないか。
病室にお呼びでないよ。
222:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:23:52.90 sXsAytUh
>>219
「他人を癒す」って発想自体が仏教的じゃないと思うが。
仏教は基本的に「自業自得」だからな。
もちろん、病苦から逃げる手段については幾らでも教えるが、それをやるかどうかは本人次第、
病苦から逃れたければ、自分で努力しろってのが仏教のスタンスだろ。
223:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:25:17.74 8HlqnYBJ
>>222
中核的概念に慈悲がある。
ここを外しては何も残らない。
君も地獄で反省しないといけないな。
224:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:25:31.44 Lat+EyPm
>>219
いや、上に書いたように方法はある。
ただ、本人次第なんだよ。
そこで、慰めみたいな話も本人が求めるならする。
しかし、慰めみたいな話は、本質的じゃないから、興味が無い。
恐らく根本的にキリスト教とは向き合う態度が違う。
仏教では求められないければ、基本的に動かない。無理強いしない。
あくまで本人の動機が重要なんで。
まあ、理解できないじゃないかな。
225:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:25:36.33 sXsAytUh
>>221
ほー、キリスト教の「お話」は素直に受け止めるのに、仏教はダメなのかww
キリスト教と、どこが違うのか是非聞いてみたいな。
226:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:28:02.97 Lat+EyPm
>>223
慈悲はあるよ。
だけど、アナタは恐らく仏教の言葉をキリスト教で解釈してでしょ。
その地獄行きってのも、そういう匂いがする。
オイラはもういいが、これ以上話したいなら、議論スレとかでしてね。
227:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:28:51.26 sXsAytUh
>>223
個人的意見だが、慈悲は仏教の中核概念じゃないと思うがね。
梵天勧請に示されるように、悟った釈尊は、他者を救おうともせず、自分だけが涅槃の境地を味わったまま死のうとしている。
梵天に懇願され、そこで初めて、他者を救おうという慈悲の心を起こしている訳だ。
もちろん、修行法の一つとして、「慈悲」は存在するが、中核概念とまでは言えないだろうよ。
228:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:30:25.30 8HlqnYBJ
>>225
美しく飾ってあるだろ。
自らを高貴な存在と同化して受け入れ感動し帰依する事で救いが得られるだけの腐心がしてある。
ただ救われますとだけ言っても効果は無い。
仏教は一見内容がありそうに装ってはいるがやはり駄目だな。
何だ君らの態度といい。
はっきりと負けを露見されて我慢がならないか。
229:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:35:05.61 sXsAytUh
>>228
>美しく飾ってあるだろ。
>自らを高貴な存在と同化して受け入れ感動し帰依する事で救いが得られるだけの腐心がしてある。
>ただ救われますとだけ言っても効果は無い。
そりゃあんたww
俺の説明が簡潔に書いてあるだけだろw
「自らを高貴な存在と同化して受け入れ感動し帰依する事で救いが得られるだけの腐心」なんて、いくらでもあるぜw
例えば、十円玉の絵で有名な平等院鳳凰堂なんて、極楽浄土の可視化だぞ。
>仏教は一見内容がありそうに装ってはいるがやはり駄目だな。
>何だ君らの態度といい。
>はっきりと負けを露見されて我慢がならないか。
ああ、結局、キリスト教の自慢をしたかっただけかw
結論が決まってるんだから、そりゃ何を言っても無駄なわけだw
ここは質問スレだから、自慢がしたいだけなら余所でやってくれ。
230:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:35:15.30 8HlqnYBJ
>>227
俺も勉強して行く中での個人的意見だが、
仏教で言う慈悲はキリスト教で言う愛とほぼ同じ内容であり、
それは教義としてまさしく中核となる概念だと感じたよ。
231:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:36:54.35 8HlqnYBJ
>>229
キリスト教贔屓で妄想だと決めつけないだろ。あっちについてはごくさっと見た程度だ。
落ち着けよ。煩悩の塊だ。
232:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:49:55.01 sXsAytUh
>>230
根拠のない「個人的感想」だなw
せめて、なんでそういう結論に至ったかの概略でも書けよw
>>231
仏教も「さっと見て」こいよw
ろくに調べもせずに「負けだ」とか決めつけてりゃ、キリスト教贔屓(あるいは単に仏教を批判したいだけ)言われても仕方がないだろう?w
そして、議論がしたいなら議論スレに移動しな
仏教 議論スレッド 42
スレリンク(psy板)
233:神も仏も名無しさん
12/07/06 14:55:22.20 8HlqnYBJ
ここ読んでれば病者に対する在り方でどう見ても負けてるよ。
有効そうな回答がほとんど一つとして出ていない。
234:神も仏も名無しさん
12/07/06 15:43:26.82 w6IowHtJ
>>233
個別のケースで、180度言葉が変わる可能性があるのに何言ってんだw
そういう個別性を除いた答えなら、貴方の嫌う、型通りの、教科書的回答しか仏教にはないよ。
それ以上は、リアルな官営の上での(一対一の)対話の中から紡がれる言葉によるしかないし、
それこそが、因により縁により生じてくる言葉であり、
当事者に直接関わり響くものとなるんだよ。
モニターばかり見てても答えは無いぞ。
235:神も仏も名無しさん
12/07/06 15:44:24.53 w6IowHtJ
>それ以上は、リアルな官営の
リアルな関係 なw
236:神も仏も名無しさん
12/07/07 06:57:17.46 iDMSKUld
>>221 仏教には、今・ここに集中するための行があります。
念仏をとなえるとかでもいいんです。
冥想でもいいし。
実際にやってみればわかると思います。
雑念を制御する具体的な方法があるのです。
237:神も仏も名無しさん
12/07/07 07:05:02.52 iDMSKUld
>>221 思考が堂々巡りになるようなら、それはもう雑念・妄想です。
いくら考えても新しいアイデアがでない、ただ気分が滅入るだけの妄想なら、
そんなことは考えても苦しみが増大するだけなので、考えないようにすべし。
「末期ガンだ、どうしよう、怖いよ、」とかを何万回自分の頭の中でくりかえしても、
新たなアイデアはでてこなくて、ただ気分が滅入っていくだけ。
だったら、ガンのガの字も考えずに、
新にガンのことがよぎるたびに「これは雑念だ」と気づいて、
冥想や念仏に思考をもどすようにする。
念仏の場合だと、念仏が心という家の主人のようにする。
雑念はお客さん。お客さんはいずれ過ぎ去る。
迷惑なお客さんにはさっさと出ていってもらい、思考をすみやかに念仏に戻すようにする。
238:神も仏も名無しさん
12/07/07 11:00:32.41 7mCbaNuo
すみません
>>172
を御存じの方、ご回答をお願いします。
239:神も仏も名無しさん
12/07/07 11:08:53.92 cv1xHSmN
>>238
菩薩の十地かな?
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(homepage3.nifty.com)
菩薩、十地、位 でぐぐって出てきた上から三つ↑
240:神も仏も名無しさん
12/07/07 12:30:54.50 7mCbaNuo
>>239
ありがとうございます
でも、違うように思えます。
241:神も仏も名無しさん
12/07/07 13:08:30.76 cv1xHSmN
>>240
なら、
仏[仏] > 菩薩[52位]] > 声聞・縁覚(独覚)[四向四果]
無上等正覚
妙覚 等覚 阿羅漢果
で、3種~60種じゃね?
242:神も仏も名無しさん
12/07/07 20:31:16.89 BhjjYZ7a
八正道の正語では、明らかに悪である物への評価はどのように行えばいいですか。
243:神も仏も名無しさん
12/07/07 21:41:01.73 iDMSKUld
>>242 仏教でいう悪とは煩悩(悩み苦しみの原因)を増大させる方向のことでしょう。
つまり、自分と他人の悩み苦しみの原因を増やすのが悪。
悪は悪だとはっきり言う。
少なくともお釈迦様だったらはっきり言ったと思います。
それでも不思議なことに、お釈迦様はさまざまな人々から応援され、
当時としてはかなりの長寿であった80歳まで、円満な人生を全うされた。
あれだけはっきりものを言っていたのに、
誰かに張り付けにされて処刑されるほどの恨みは買わなかった。
244:神も仏も名無しさん
12/07/08 00:51:08.18 XBSPKzBh
>>243
回答ありがとうございます。
私の言ったのは窃盗・殺人や愚劣な作品など世間的な悪のほうでした。
こちらについてもやはり明示すべきでしょうね。
言葉には気を付けつつはっきりと指摘するほうが正しい真実な態度と言えましょう。
だがその場合波風は立ちやすく和を保つ事に腐心が求められ
煩悩を絶って寂静へとは少し逆行するようでもある事に疑問が残ります。
245:神も仏も名無しさん
12/07/08 01:04:38.04 XBSPKzBh
あるいはまた単純悪よりもひとにより見方の別れる事物への価値判断などについての話題となると
正語の正しい在り方というのはさらに難しいものと感じられる。
いかがお考えでしょう。
246:神も仏も名無しさん
12/07/08 10:31:16.45 cI6IVynP
>>244 教団内では、他人の罪を言いふらしてはいけないという戒めもあります。
一般論として「盗みは悪です」などとははっきり言うべきです。
しかし、「さんが盗みをはたらいた」とかいう噂話は大々的にやるべきではない。
その罪人本人に「盗みは悪ですよ」と教えてあげればいいのです。
また、仏教は普段から戒も説いており、悪とは何かを指摘しつづけています。
247:神も仏も名無しさん
12/07/08 10:37:15.75 cI6IVynP
>>244 在家信者でも五戒(殺し・盗み・嘘・飲酒売酒・不倫はダメ)
がありますので、やってはいけないことはかなり具体的です。
また、固定観念・欲・怒り・怠け・プライドなどが悩み苦しみの原因であることを理解しておけば、
それらを助長するような言動は慎むべきだという方向性も見えてくるでしょう。
248:神も仏も名無しさん
12/07/08 16:28:03.72 eQo8x0UZ
坐禅のやり方っていろいろ言われているけれど、どれが正しい(もしくは独習でも可能)なんです?
意識を置く所は腹の下のいわゆる丹田? 道元系では、ただ座れといってるけど意識はどこにもおかない?
249:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/07/09 03:06:25.46 WswirOp5
仏教の禅とは、単なる瞑想の意味。
心の在り方については別に般若というものが説かれている。
但し禅宗に限っては、他の波羅蜜なども含有す。
仏教では、基本的には独習は勧めない。
また、丹田は道教。
先ず瞑想の目的を規定し、次に見合う術法を模索すべきかと。
250:神も仏も名無しさん
12/07/09 08:08:22.50 ACP3pr2J
質問のしかたがわからないから丹田とか言ってるだけで、
要は、坐禅の道場で指導している冥想のやりかたをここに書いてくれ
(道場に行くのはめんどうだが冥想はやってみたい)って意味でしょう。
まずは、ネットに書ける内容なのか、
生身の指導者から直接聞かなきゃならないものなのか、その回答から入っては?
251:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
12/07/09 18:19:51.50 WswirOp5
>250
俺は元真言なんで禅宗の具体的な修養法は知らないんよ。
252:神も仏も名無しさん
12/07/09 19:37:33.24 rfYMJKky
坐禅のやり方は何冊も本が出ている。やり方は自分にあった物が一番。
白隠の「臘八示衆」にあるように、発心したまま数日ひとりで坐禅して悟った在家もいる。
要は勇猛心。
253:だいおう
12/07/10 10:46:04.86 UO3RGFxx
ショコタン居た♪、
オゲンキー♪
ワイ、曹洞宗もマスターしたぞ、
ショコタンは成長したの?
254:神も仏も名無しさん
12/07/11 10:17:38.12 tiP7CQAX
慧能 禅の極意
外相(そとそう)を離るるを禅と為し
内乱れざるを定と為す
外もし相に着せば
内心は即ち乱る
快適なアーロンチェアでやるのもOK.
いつでも、どこでもOK.
255:神も仏も名無しさん
12/07/11 14:20:45.29 tiP7CQAX
ラブ・ホテルで
全裸のセクシー美女とベッドにいても、
坐禅はできる。
もちろん、
外相(そとそう)を離るるを禅と為し
内乱れざるを定と為す
でなければならない。
256:神も仏も名無しさん
12/07/11 14:30:38.71 KmzD2liq
セクシー美女と相撲を取っていても座禅はできるな
座るのは必須じゃないしな
257:神も仏も名無しさん
12/07/11 15:29:20.59 wYQqlL4U
>>255
そういう人は座禅する必要ないっしょ。
そういう人はいると思うが、こういうことを書くのはよくないでしょ。
258:神も仏も名無しさん
12/07/12 15:21:17.75 xKj+qtiP
>>252
悟ったって誰が解るもの?
259:神も仏も名無しさん
12/07/12 19:00:14.79 nNVQsnrp
>>258 本人が自分でチェックできる。
覚りとは煩悩がなくなっていくこと。
煩悩はリストアップされており、煩悩が消えていく順番も説かれている。
煩悩がすべてなくなったら阿羅漢(仏と同レベルの覚り)。
260:神も仏も名無しさん
12/07/13 11:29:40.75 yhSSfBGh
>煩悩がすべてなくなったら阿羅漢(仏と同レベルの覚り)。
生きてて煩悩が全てなくなることってあるの?
261:神も仏も名無しさん
12/07/13 17:45:15.71 DMAKtZ5l
>>260 生きてて煩悩がすべてなくなることがある、
と信じるのが仏教という宗教なのでしょう。
煩悩がなくなった場合、その生物は「もっと生きたい」という執着もないので、
寿命がつきたら輪廻せずに平安なる滅びに入ることができる。
煩悩が残ってるままで死んだら、生に執着があるために、また輪廻をくりかえしてしまう。
262:神も仏も名無しさん
12/07/14 09:02:25.76 ENr5+bdS
>>261
生きていると言う事は、食べて働いて寝て休憩して・・
の反復だから、それを続けている限り煩悩は無くならない
食べなければ空腹に感じるし、寝なければ眠くなるし・・
又、病気などの痛みで苦しんでいれば当然治りたいし・・
生きてる限り煩悩は無くならないと思うけどw
>生きてて煩悩がすべてなくなることがある、と信じるのが仏教という宗教なのでしょう。
現実生活に当てはめてみてもどうも納得できない
263:神も仏も名無しさん
12/07/14 09:12:27.04 yllv9mTP
>>262 お釈迦さまの場合だと、他人から教えを説いてくれと頼まれて、
依頼に応じるために生き長らえていただけであり、
お釈迦さま自らは「生きていたい」という執着はなかった。
でも、「死にたい」という欲もなかったから、
「お願いです、生きて教えを説いてください」と請われて
「オッケーぃ。」って受け入れた。
また、亡くなるときもは、悪魔から「そろそろ死んでください」と頼まれて、
「オッケー。ただし、教え子達の成長を見届けてからね。」と答え、
その後にまた悪魔から「もう死ねますかー?もう教え子たちも
ご立派になられたし、死んでください。」と頼まれて、
「そうだね。もう充分成長したし、じゃあ3か月後に死ぬわ。」と快諾した。
264:神も仏も名無しさん
12/07/14 09:20:10.16 yllv9mTP
>>262 煩悩(苦しみの原因となる執着)と苦しみとは別です。
お釈迦さまは一切が苦であると説かれているので、
生きているかぎり空腹などの苦しみや苦しみからくる衝動がなくならないことを説いている。
煩悩(執着)がなくても、生きているかぎり苦しみや苦しみからくる衝動はなくならない。
お釈迦さまは「生きていたい」という煩悩はなくしたが、
他人から頼まれて生きているうちは、肉体的苦痛とつきあいつづけていた。
でも頼まれたときに「いやだ!私はいますぐ死にたいんだ!」というほどの死への執着もなかった。
265:神も仏も名無しさん
12/07/14 14:40:58.32 HuxvOCiv
>>263
それって本当の話?・・・物語みたいだけど
266:神も仏も名無しさん
12/07/14 19:06:55.54 OuaGbtH/
欲を煩悩として否定し滅した所では気力はどのような形で得る事を想定しますか。
気力も否定し無気力に死んだように生きるのが仏教の理想なのでしょうか。
267:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/15 02:07:28.28 FJss6X9V
>>266
生存に関る肉体次元の煩悩と自己意識とは別物として悟るということでしょう。
つまり、自己意識と肉体生存本能による諸活動sを切り離すということ。
水も飲みメシも頂くけれども、
自己の行為であるという意識状態は消えている。
けれども、未完成者の行為は肉体生存の部分も含めて
すべて自己意識(自己の行為)としてなされているのだと。
そこが違うのでしょうね。
268:神も仏も名無しさん
12/07/15 02:15:04.82 Y9vbXe17
回答になってません。気力をどう得るのかが主たる問いです。
269:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/15 02:57:57.26 FJss6X9V
追記:
肉体維持については、
適度なものとして、或いは必要最小限のものとしてでも、
自己意識からは切り離した状態で適切に注意を向けられるでしょう。
仏典には記載がないかもしれませんが、
完成者というのは太陽からのプラーナを効果的に摂取して肉体に活力を漲らせます。
どうや?
270:神も仏も名無しさん
12/07/15 04:27:52.94 uKks1R9+
>>265 タイムマシンがないので事実かはわからないが、お経にはそのように説かれている。
仏教的には理にかなっている物語だと思います。
大乗仏教になると、悟る前に、修行するときにあらかじめ誓願を立てておきますが、
これも、お釈迦様が悪魔と交わした取り決め(が実現するまでは死なない)に通じる気がします。
つまり、完全に悟ってしまうと、自分であれがしたいこれがしたいというのがなくなるけど、
他人から頼まれたことは戒律に反しないかぎり拒む理由がなくなるのと、
過去に自分で誓った約束ごとは実行する責任があることから、
をするという行動の原動力になる。
271:神も仏も名無しさん
12/07/15 04:35:45.93 uKks1R9+
>>266 最終的には輪廻から解脱して涅槃に入る、
つまり平安なる滅びに入って二度と姿形をもたなくなるので、
死ぬよりももっと死ぬのが理想。
悟ったあとの行動の原動力としては、
まず戒律は引き続き守るし、出家集団の日課は引き続き守るでしょう。
世俗社会の法律にも基本的には従うでしょう。
その上で、他人から頼まれたことはやるし、
教団内で先輩・師匠格の立場ならば弟子への指導や信者への説法は日課としてやるでしょう。
また、過去に自分で誓いを立てていたり、誰かと約束や契約を結んでいたら、
それは仏教的に間違った内容でないなら約束を破らず実行するでしょう。
上記のことをやるだけで、充分忙しく活発な毎日になると思います。
272:神も仏も名無しさん
12/07/15 05:04:15.81 Y9vbXe17
>>271
> >>266 最終的には輪廻から解脱して涅槃に入る、
> つまり平安なる滅びに入って二度と姿形をもたなくなるので、
> 死ぬよりももっと死ぬのが理想。
これは理解が違うんじゃないですか。
苦痛に満たされた生の循環を離れた平安に入る事を目指しているのであって、
完全に消滅した無に帰する死を述べた物ではないでしょう。
> 悟ったあとの行動の原動力としては、
> まず戒律は引き続き守るし、出家集団の日課は引き続き守るでしょう。
> 世俗社会の法律にも基本的には従うでしょう。
> その上で、他人から頼まれたことはやるし、
> 教団内で先輩・師匠格の立場ならば弟子への指導や信者への説法は日課としてやるでしょう。
> また、過去に自分で誓いを立てていたり、誰かと約束や契約を結んでいたら、
> それは仏教的に間違った内容でないなら約束を破らず実行するでしょう。
> 上記のことをやるだけで、充分忙しく活発な毎日になると思います。
全て義務的に強制される物ですね。それだけでは気力とは通常ならない。
273:神も仏も名無しさん
12/07/15 07:18:33.98 Mgx0vCg+
>>267
>水も飲みメシも頂くけれども、自己の行為であるという意識状態は消えている。
それでは夢遊病者みたい(笑)
274:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/15 07:34:59.55 FJss6X9V
>>273
これは、自分のしているさえ分らなくなる精神障害とは異なり、
行為していながら無行為でいられる特殊な意識状態を意識的に保つものです。
これにより、悪業(カルマ)を積むことはもう二度とありません。
275:神も仏も名無しさん
12/07/15 09:02:00.41 uKks1R9+
>>272 有余涅槃と無余涅槃という言葉があります。
有余涅槃は、煩悩がなくなってから入滅するまでの間の余生。
無余涅槃は、そこから寿命が尽きて、入滅すること。
煩悩がなくなれば輪廻(再生)しませんから、無余涅槃で三界から消え去り、
たとえ神々が探し求めたとしてもみつけることはできないようになります。
大乗仏教ではそれを受け入れたくなかったのでしょうか、
たとえば阿弥陀仏などは、誓願(本願)によって無量の寿命になることを前もって誓っておいて、
無余涅槃に入らず有余涅槃で活動し続ける仏となっていますし、
法華経信者は、お釈迦様の入滅は衆生に無常を教えるための方便で、
本当は久遠の仏として存在し続けてるんだ、みたいな話にしています。
276:神も仏も名無しさん
12/07/15 09:14:24.45 uKks1R9+
>>272 煩悩の親玉である無明の根深さは、簡単にいうと、
「生きるってすばらしい、私が私のままでいたい、仏様には仏様のままで生き続けてほしい」という
「尊ぶ必要のない命を尊ぶ」という勘違いなのです。
仏教では、命には執着しません。「もっと生きていたい」という渇愛を否定します。
仏教で重要なのは悩み苦しみからの解放です。
生きているうちは、たとえ悟った人でも肉体的苦痛はあります。
完全に悩み苦しみから解放されるのは無余涅槃だけなのです。
もちろん、他人の悩み苦しみを軽減するために、
お釈迦様や阿弥陀仏のようにあえて有余涅槃に留まり、
弟子を育成したり、念仏者を極楽へ導いたりするというのも、
自分と他人の悩み苦しみの軽減をめざす仏教の方向に矛盾はしません。
仏教では、命(生きること)は目的でも宝物でもなく、
命は自分と他人の悩み苦しみをなくすのに役立つなら使いましょう、
という程度の道具・手段にすぎないのです。
手段に執着して悩み苦しみが増すなら本末転倒ですから要注意です。
277:神も仏も名無しさん
12/07/15 09:27:21.68 uKks1R9+
>>272 煩悩の親玉である無明がなくなれば、渇愛がなくなるので、
貪欲に生きようとするような気力はなくなるのでは。
しかし、他人から求められたり、義務的な約束や誓いを果たすための仕事であれば、
怠けの煩悩も消失しているため、嫌がらず、
集中力も切らさず注意深く適切にこなすことでしょう。
普通の人は怠けの煩悩が強いので、欲(悦び)や怒り(苦痛)を原動力にしないと
活発に仕事するモチベーションが沸かない。
だから、欲や怒りがなくなった覚者にはモチベーションがないはずだから、
なぜ仕事できるのか理解しがたいのでしょう。
それは、前提が間違っているのです。
欲や怒りという「気力」がないと仕事できない状態というのが、
そもそも怠けの煩悩による弊害が生じているからなのです。
悟ったら、怠けという重りがなくなるため、そんな「気力」をふりしぼらなくても、
軽安(軽々とやすやすと)に活動ができるのだと思います。
278:神も仏も名無しさん
12/07/15 11:44:28.73 Y9vbXe17
自分から何をしようという気力を無くして
一方的にやらされてる修行についてだけ従順にいろと教えられるので活動的であれる。
有り得ない。
仏教はやはりいかに詭弁を弄そうともどうにも効力が希薄な面があるのは否めない所がある。
279:神も仏も名無しさん
12/07/15 13:50:55.75 aPhG1EuT
>>270
>タイムマシンがないので事実かはわからないが、お経にはそのように説かれている。
とても事実とは思えませんが、信者達は事実と思ってるのでしょう?
>お釈迦様が悪魔と交わした取り決め(が実現するまでは死なない)に通じる気がします。
「悪魔と交わした・・」とか言われても、物語か妄想なら考えられるけど・・
>仏教的には理にかなっている物語だと思います。
脇腹から生まれたとか、唯我独尊と言った・・とかいうのも理にかなってます?
280:神も仏も名無しさん
12/07/15 15:47:28.37 uKks1R9+
>>279 経典では悪魔と書かれてあるけど、実際は他宗教の人との会話なのかもしれません。
理にかなってるというのは、仏教教理との整合がとれている物語だ、ということ。
ちなみに、脇腹から生まれたという表現は、
クシャトリヤ階級に生まれたことを象徴しているそうです。
281:神も仏も名無しさん
12/07/15 15:53:52.51 uKks1R9+
>>278 煩悩を完全になくした修行完成者である阿羅漢の話ですから、
修行をやらされてるとかいうレベルの人ではないと思います。
悟りは、究極の大人になることでもあると思います。
一般的に、大人になるにつれ、子供のころは必死でやっていたことでも
「たいしたことないな」と思えるようになりますよね。
子供の頃に夢中だったシール集めとか、大人になるとクールダウンします。
悟って究極の大人になったら、世俗の人々が必死でやってることのたいていは
「たいしたことないな」と覚めた目で見られるのでは?
282:神も仏も名無しさん
12/07/15 16:03:28.75 Y9vbXe17
却下。より良い回答募集。>>266
283:宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
12/07/15 16:13:17.50 FJss6X9V
>>279
横レス失礼。
仏典でゴータマの前に出現する悪魔というのは、ただの宗教文学的な表現法に過ぎません。
菩提樹の瞑想中に出現して、再び苦行世界へと戻るよう惑わす悪魔は、自己の修行における
精神的葛藤を表現したもの。
そして、殆どの場合には、真実から眼を逸らして偽りの自己意識へと縛り付ける五蘊の作用が
悪魔と表現されているのです。>>17>>19
ここでのゴータマの死(涅槃)に関する悪魔との対話は、死なれては困る弟子達の立場と心を
象徴したものでしょう。
>脇腹から生まれたとか、唯我独尊と言った・・とかいうのも理にかなってます?
「脇腹から生まれた」は誤伝でしょう。正しくは、神の使いとしての白象の牙を脇腹に刺し込ま
れる夢を見て懐妊したです。こういう霊夢、お告げというのは実際にあるでしょうね。事実かと。
「唯我独尊と言った・・」については、大乗側では批判を交わすべく“世界にたった一つだけの
花”(オン・リー・ワン)的意味合いを出張したりしていますが、言い訳的で苦しいでしょう。
赤ちゃんがそんなポーズをとっても別に珍しくもない印象なのですが、いずれにせよ、これは
ゴータマの偉大さを示したいための神格化だと見なすほうがごく自然でしょうね。
284:神も仏も名無しさん
12/07/15 16:24:02.18 Y9vbXe17
私見だが形而上に創作を行うのは前にキリスト教について考察したように
現実的には救いの無い者への空想による救いの力というものを意図的に作ろうとしてるものと考えられる。
それもまた無駄ではない。
現実的解釈だけを是と考えるのは今健康な自分だけに拘泥した視野狭窄の態度であると知るべきであろう。
285:神も仏も名無しさん
12/07/15 16:36:49.83 Y9vbXe17
気力についてそれなりの論理構成が浮かんだ。
が、まずは識者の回答を待とう。
その方法とは別にここにも
神の愛の元にあり力を貸してくれている 力の限りを尽くそう(キ教的だが)
などと空想的作用を持って臨む方法も考えられる。
目に見える論理的構造だけが力を持つのではないという事がご理解いただけよう。
286:神も仏も名無しさん
12/07/15 17:51:24.42 uKks1R9+
>>282
怠けの煩悩がなくなれば、「気力」などふりしぼらくても軽々と行動できる。
怒りは、嫌だ、もうたくさんだという気持ち。すなわち自分にとっての罰。
欲は気持ちいい、もっと欲しいという気持ち。すなわち自分にとってのご褒美。
罰やご褒美がないとやる気がでないのは、怠けの煩悩があるから。
怠けの煩悩がなくなれば、「気力」(罰やご褒美)がなくても活動的になれる。
287:神も仏も名無しさん
12/07/15 17:58:59.17 uKks1R9+
>>285 怠けの煩悩がなくなれば、
神の愛とかのイメージをつかった喜悦を利用して気力をふりしぼったりしなくても、
「これやってください。」
「オッケーっ。」(ローラみたいな口調)
って即答で即実行できる、心の軽安さがでてくるのだと思います。
288:神も仏も名無しさん
12/07/15 20:30:37.77 Y9vbXe17
怠け心を封じられる保証などどこにも無いし、
かろうじて為し得ても大きな力は生まない。
本当にぬるい。
>>285等はスポーツのトップ選手が優れた成績をおさめた時に十字を切り天に祈りを捧げてるあれだよ。
人知を超えた気力、集中力を志向するだけの細工が出来ている。
289:神も仏も名無しさん
12/07/15 20:38:07.88 kDNJ95qc
そもそも、仏教ってのは
『「世俗的ベクトルで言えば」無気力推奨』なんだけどね・・w
もともと遠離されるべきものを持ち出して、
「それを引き出せない仏教は駄目だ」的な論調にどんな意味があるのかとwww
290:神も仏も名無しさん
12/07/15 20:40:44.02 kDNJ95qc
或いは、「(完全なる)凪」が目指されるわけで。
そこに於いて「気力」なんてのは、(波を起こす)障碍としての要素以外の何ものでもなかろう?w >>288
291:神も仏も名無しさん
12/07/15 20:45:39.29 Y9vbXe17
そういう返答を予想して>266の質問に仏教への懐疑の文が付け加えられている。
> 気力も否定し無気力に死んだように生きるのが仏教の理想なのでしょうか。
これが目指されるべき境地と言えますか。否だね。
ここへ至ってはならない問いなのだ。
292:神も仏も名無しさん
12/07/15 20:56:23.23 kDNJ95qc
>>291
だったら仏教を切り捨てればいいじゃんw
無い物を探しても詮無くないか?www
【君には】仏教は【不要】だし【向いてもいない】。それだけのことだろ?
293:神も仏も名無しさん
12/07/15 20:58:31.88 Y9vbXe17
いやまったく違う。君たちの理解が誤っているのだ。
救済への志向を死に等しい生に帰着させてしまっては誰の気持ちも掴み得ない。
294:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:00:54.42 kDNJ95qc
そうそう。ちゃんと答えておきましょうかw
>>291 >これが目指されるべき境地と
そうです。それこそが目指される境地です。
「【世俗的】気力」は「凪」を妨げるものでしかありません。
だから、そうした「凪」が嫌いなら(納得いかないなら)、別の宗教の戸を敲けばいいことです。
295:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:03:15.89 kDNJ95qc
>>293
だからwwwww
その方向は「仏教」じゃないのw
語弊を恐れず言えばw、「みんなが凪を望んだならば、みんなで滅びましょう」ってのが仏教なのw
なんでこんな単純な図式が解らんかな・・。
296:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:04:40.17 Y9vbXe17
つまり仏教が普及した国では皆が死んだ目で廃棄物のように路傍に転がっているのだな。
馬鹿も休み休みにしろ。
297:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:06:39.37 kDNJ95qc
>>296
貴方こそ、ちゃんと基礎知識くらい踏まえたらどうですか?
『「俺様仏教」は2chの華』とは言いながらも、さすがにウンザリですw
298:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:10:12.78 Y9vbXe17
お前の認められたいという煩悩も強すぎるようだぞ。wで落ち着かなさを露呈するな。
俺の思索のほうが遥かに道を掴んでいる。
分かってない奴ばかりだな。
299:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:40:01.39 uKks1R9+
悩み苦しみの原因は煩悩である。
煩悩をなくせば悩み苦しみを消せる。
煩悩を制御できれば悩み苦しみを制御できる。
それが仏教の基礎。
そこに同意できた人が仏教徒なんでしょう。
300:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:44:51.90 99ppGygN
>>299
煩悩は、生きている証(あかし)。「煩悩を去れ」とは「死ね」ということ。
「煩悩を去る」という欲望も、また煩悩である。
釈迦って馬鹿だったのですか。
301:神も仏も名無しさん
12/07/15 21:47:12.69 Y9vbXe17
根幹に関わる非常に重要な問いなのだと思うよ。
仏教徒は最悪の帰結に至らない良い回答に辿り着かなければならない。
302:神も仏も名無しさん
12/07/15 22:11:05.58 kDNJ95qc
>>301
だからw
それはもはや仏教じゃないの。
宝珠と一緒に神智学でもやったら?
303:神も仏も名無しさん
12/07/15 22:11:54.46 uKks1R9+
>>300 無余涅槃は、生き物であることから卒業することです。
煩悩のある生き物として生きているかぎり、他の生物を犠牲にして生きなければなりません。
涅槃に入れば、他者を苦しめる必要もありませんし。
なにも、すぐに自殺しろというわけではありません。
死後に「成仏する」、つまり二度とこの世にもどってこない、ただそれだけ。
304:神も仏も名無しさん
12/07/15 22:40:02.34 99ppGygN
>>303
そんな論理は、現代の誰にも、どこにも通用しない。
釈迦の馬鹿さ加減の恥を、いつまでも曝し続けるべきではない。
釈迦の名誉毀損に該当する。
305:神も仏も名無しさん
12/07/15 22:46:17.68 uKks1R9+
>>304 仏教はそういう宗教なんだから仕方ありません。
それとも、あなたは仏教について違う解釈をしている宗派をご存じで、
そのような宗派を好ましく思っているのでしょうか?
306:神も仏も名無しさん
12/07/15 22:50:30.16 kDNJ95qc
ID:99ppGygNは、通称「隠居」「御隠居」。スルー推奨。
307:神も仏も名無しさん
12/07/16 01:04:22.12 1Zn/wHb8
> つまり仏教が普及した国では皆が死んだ目で廃棄物のように路傍に転がっているのだな。
こういう退廃的事態に至らない解釈を俺が相当程度為し得ているというのに
君らは情けない限りだな。
そんな状態が涅槃なわけが無かろう。
まったく修行が足りない。
308:神も仏も名無しさん
12/07/16 06:58:03.07 99McDXFZ
>>300
>「煩悩を去る」という欲望も、また煩悩である。
↑
あははは・・・(笑
ホントそう。釈迦より賢い人が2chにはいますね!
>釈迦って馬鹿だったのですか。
論理矛盾が多そうだから、賢くはないようね!(笑
ヽ(^。^)ノ
309:神も仏も名無しさん
12/07/16 09:29:36.70 JVXOEbqf
>>307
少欲知足って言葉知ってる?w
あと、ワシが何度か“「世俗的」気力”という使い方をしていることにツッコまないのはなぜだい?
隠居なら
「気力に2種類あるのかね?w」
「世俗的でない気力とはいかなるものか?そんなものは存在しない。
気力とは世俗的気力のことであり、それ以外の気力など存在しない」
とでも言いそうだが・・w
いずれにしろ、続けたければ↓こっちな。
スレリンク(psy板)
「凪」が理想とされるというのは、「死んだ目になること」とは全く別物なんだがねぇ・・・。
どうしてこういう人たちは二極的にしか物事を考えられないのかね・・w
ノシ
310:神も仏も名無しさん
12/07/16 10:46:37.75 Y3prmiqS
>>300
煩悩を消したいという心は、
煩悩がすべてなくなったときに消える(必要なくなる)んだから矛盾はない。
そこに至る前にまず、怒りや欲の煩悩が減退していくので、
日常生活の悩み苦しみの大半はなくなっている。
ストレスまみれの毎日を送ることを思えば、
煩悩をなくしたいという心を使って
まずは怒りや欲を制御するほうが、苦悩を減らす効果は大きい。
また、煩悩をなくせていない自分への怒りも減退するんだから、
「チクショーまだこんなに煩悩がある!」という苦悩も減退していく。
焦らず(怒りのストレスなく)、
しかし一歩一歩煩悩をなくす方へ進んでいけばいい。
311:神も仏も名無しさん
12/07/16 13:43:10.29 pMmsdN+y
>>309
>「凪」が理想とされるというのは、「死んだ目になること」とは全く別物なんだがねぇ・・・。
↑
と君が、そう想像・妄想してるだけでしょ?
それを証明・検証した人がいる?
312:神も仏も名無しさん
12/07/16 14:45:39.88 1Zn/wHb8
>>309
そういう明らかに落ち着きをなくした惨めな態度を取らないで済むようにまずなれ。
何も説明が出来てない癖に他者を中傷だけしてるお前は最下等で、
仏教に対する侮辱的存在だ。
>>311
愚かしい奴だよな。
313:神も仏も名無しさん
12/07/17 01:18:35.59 p4a+HcKR
>>309
>どうしてこういう人たちは二極的にしか物事を考えられないのかね・・w
キリスト教的価値観が至上で、仏教を貶すのが目的なだけだからだろw
こいつ、このあいだの>>206じゃね?w
314:神も仏も名無しさん
12/07/17 03:41:43.48 D+/W8jW7
>>312
>愚かしい奴だよな。
バカとか ↑ しか 返ってこないのはそこで
盲信していて思考停止になってる証拠だろ
315:神も仏も名無しさん
12/08/01 23:59:59.82 Bkk4eVCs
後期中観派は結局のところ外界を実在と捉えるのか非実在と捉えるのかどっちなの?
決着ついてないにしてもどっちが有利だったの?
もし後期において非実在であったなら後期だと有部だけが実在としてたの?
316:神も仏も名無しさん
12/08/02 02:12:01.04 hiIlR85v
觀如來品第二十二
五陰和合の故に有るならば即ち自性は無い
空は則ち説けない
空でなくても説けない
空、非空は共であろうと共でなかろうと説けない
但だ仮名を以って説くのみだ
如来の滅後について
有るか?無いか?有であり無であるのか?
と思惟してはならない
如来は戯論を過ぎるが
而し人は戯論を生ずる
317:神も仏も名無しさん
12/08/02 02:15:40.71 hiIlR85v
中論觀四諦品第二十四
一切の法は性空だが
世俗諦とは
世間は顛倒の故に虚妄の法を生じ
世間には是れが実である
諸の賢聖は真に顛倒の性を知るが故に
一切の法は皆、空で無生だ、と知り
聖人には是れが第一義諦で実と名づける
318:神も仏も名無しさん
12/08/02 02:21:09.05 hiIlR85v
中論觀顛倒品第二十三
無常の中に常に著する、是れを則ち顛倒と名づける
著を憶想して此彼、有無等を分別する、と名づける
無漏法に至るまで尚お不生の相と名づけない
顛倒に因り顛倒の者が有る
319:神も仏も名無しさん
12/08/02 02:32:09.45 hiIlR85v
無漏法に至ってない顛倒の中に住している世俗の人々は
後期において非実在であったなら後期だと
有部だけが実在として、有るか?無いか?と思惟してはならない
無漏法に至って、やっと第一義諦を体感会得できる
と言う事なんじゃなイカ? おじゃる?
320:神も仏も名無しさん
12/08/02 05:52:27.93 dCmgKwcB
>>315
そんなのどっちとも捉えないに決まってるでしょ。
中観はxである、xでないという四句分別から逃れた戯論寂滅を目指すので、
なんらかの見解を提示したり、思想を批判して何らかの思想構築するものじゃないから。
少なくとも月称菩薩はそうだ。
321:神も仏も名無しさん
12/08/02 08:56:15.82 oz/j3UjI
>>320
べつに中観の真理について聞いてるわけではないんだ。
認識の対象として認められる対象は有るのか、それとも心でしかないのか。
という点について中期(月称を含む)までは中観系は唯識の
外界は存在せず認識の対象は存在しない
って考えを否定して、外界の実在を唱えていて、
それが後期のシャータンラクシタやカマラシーラやハリバドラになっちゃうと唯識色が強くなっちゃって
実在とも非実在とも主張されるようになっちゃって、じゃあ、そこで結局どっちなの?ってことが聞きたかったんだ。
蛇足だけど、
>なんらかの見解を提示したり、思想を批判して何らかの思想構築するものじゃないから。
>少なくとも月称菩薩はそうだ。
っていってるけど、プラサンナパダーだってバーヴィヴェーカを批判して組み上げたモノでしょ?
っていうか帰謬論証という立場というか方法は他の思想の批判の上に成り立つものだよね。
322:神も仏も名無しさん
12/08/02 09:16:11.17 dCmgKwcB
>>321
いや、そういう見方が間違ってると確信する。
例えば、『明句論』だけど清弁菩薩を批判したものではないっしょ。
確かに清弁菩薩や陳那菩薩説を寂滅に導く説き方はある。
しかし、それを批判や論証と見ては中観ではないよ。
なぜか、清弁菩薩は中観に自立論証を持ち込んだ。
これはもちろん方便なんだけど、自立論証しては中観にならない。
なぜなら、自説、xであるという見解を論証してしまうから。
それでは見解、戯論が残ってしまって戯論寂滅にならない。
だから、月称菩薩は帰謬論証なんかしてない。
より限定するなら、論証なんかしてない。それでは戯論寂滅にならないから。
相手が掴んでいる見解としての戯論を帰謬によって戯論寂滅に導くだけ。
ここで言う戯論は、意識の根本的言語能力としての想像力、妄想する力、
抽象的な意味を「妄想展開すること」を意味してる。
君のような説は、19世紀にペテルスブルク学派がゲルクの影響を受けて創りだしたもので、いまだ学会の主流のようだけど本来の中観とは程遠いよ。
本来の中観は寧ろニンマ・サキャ、三論、華厳、真言などに接近する。
学者では山口益、生井智紹、石飛道子が接近し、それ以外のほとんどの文献学者の説は中観を理解してないと思うよ。
もっともニンマ・サキャについた最近の西洋人、チベット人学者は除くけど。
323:神も仏も名無しさん
12/08/02 09:39:24.12 oz/j3UjI
>>322
すまない。
月称菩薩の事に関しては確かに自分が一面的な見解に依りすぎていた。
たしかに貴方が言うように月称菩薩は帰謬論証すらしておらず、戯論寂滅のみを行なっていたにすぎないというのもあり得る話だ。
考えたこともなかった。貴重な考えを仕入れさせてもらった。ありがとう。
でも、自分が求めていたのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
なんだ。引き続き有識者の見解を待ちます。
324:神も仏も名無しさん
12/08/02 11:07:58.91 hiIlR85v
何故
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか?
と言う事に、こだわるのか?
その理由を教えてくれなイカ? おじゃる?
325:神も仏も名無しさん
12/08/02 11:39:09.67 hiIlR85v
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
とりあえず心(識)は仮に存在すると仮設して
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出している(唯識無境)と考えて
瑜伽(ヨーガ)の実践などによって
第六表面意識から → 深層意識の阿頼耶識に働き掛けて
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
境識倶泯に至っていないものは
有るか?無いか?有であり無であるのか?と思惟してはならない
境識倶泯に至って、やっと第一義諦を体感会得できる
と言う事なんじゃなイカ? おじゃる?
326:神も仏も名無しさん
12/08/02 11:52:44.76 hiIlR85v
中論觀顛倒品第二十三
無常の中に常に著する、是れを則ち顛倒と名づける
無漏法に至るまで尚お不生の相と名づけない
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して
我、我所を滅する因縁の故に
無我、無我所を得て
智慧を決定する
空等の解脱門を用いて
諸の禅定の中に
滅尽定を以って第一と為し
終に無余涅槃に帰する
327:神も仏も名無しさん
12/08/02 12:00:23.72 oz/j3UjI
>>326
純粋な知的好奇心からです。
貴方のレスの意図は読めません。
中論について聞いた覚えはありません。
先にも述べたように初期や中期の捉え方は今回は必要ではありません。
また、唯識の基礎概念について聞いた覚えもありません。
あくまで私が知りたいのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
についてです。
328:神も仏も名無しさん
12/08/02 12:14:56.87 hiIlR85v
> 文献学的な見解はどちらなのか?
色々な人の解説書を読んで見て下さい
そして最終的には、禅定(瞑想)によって
八聖道分を修習して
我、我所を滅する因縁の故に
無我、無我所を得て
智慧を決定する
滅尽定を以って第一と為し
終に無余涅槃に帰する
無漏法に至るまで尚お不生の相と名づけない
329:神も仏も名無しさん
12/08/02 12:16:15.29 dCmgKwcB
>>327
その人はトンチンカンなので、アナタが何を問題としてるかも分かってないと思うよん。
330:神も仏も名無しさん
12/08/02 12:38:31.91 hiIlR85v
根本仏典も、中論も、瑜伽行唯識なども
表面意識だけの哲学的な思惟によって作られたものではなくて
禅定(瞑想)とか、瑜伽(ヨーガ)の実践などの
体感会得によって、教理にまとめられたものなので
色々な人の解説書を読んで見て
そして最終的には、禅定(瞑想)によって
体感会得してみて下さい
と言う事を主張したかった訳でございます
331:神も仏も名無しさん
12/08/02 12:49:40.47 hiIlR85v
> その人はトンチンカンなので、アナタが何を問題としてるかも分かってないと思うよん
質問に対しての自分の意見を述べて下さい
(今まで頭ごなしにコテンパン叩かれて来ているので
これからも私の事を馬鹿にする事は大変に結構な事でございます)
332:神も仏も名無しさん
12/08/02 13:23:39.22 hiIlR85v
↓ 携帯だと見れないかもしれない
URLリンク(archives.bukkyo-u.ac.jp)
文学部議集第制月一(2004年3月)
後期中観派の自己認識に関する悶果関係の吟味
森山清徹
…ダルマキールティの自己認識の理論を活用し
外界の非実在を論じることによるものである…
333:神も仏も名無しさん
12/08/02 18:46:55.40 oz/j3UjI
>>332
ありがとうございます。
しかし読んでみても、
ダルマキールティは論証できるとしたけど、カマラシーラは感覚智の因果関係を論証することはできないとした
ってことが一貫して論じられていて、
自分だとどこにカマラシーラの外界についての見解が論及がされている箇所を読み取れなかったんだけど、
もしよかったら何ページ目の何行目から論及されているか教えてもらえないだろうか?
334:神も仏も名無しさん
12/08/03 00:49:09.65 XApZ8fii
URLリンク(archives.bukkyo-u.ac.jp)
カマラシーラの因果論及びプラマーナ論の吟味とダルマキールティ
[2]カマラシーラによる因果論及びプラマーナ論の吟味とダルマキールティ
[3]実在論の論破と無自性論証
[4]実在論者による無自性論証への詰問とカマシーラの筈論
335:神も仏も名無しさん
12/08/03 01:07:32.94 XApZ8fii
URLリンク(archives.bukkyo-u.ac.jp)
このプラマーナと実在に関する問題の本質は対論者が
中観派にプラマーナにより一切法無自性は証明し得ない
なぜならプラマーナは実在を証明するものであるから
と詰問することと共通している
この実在論へのカマラシーラの対応は
直接知覚に関しては修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ
また実在が直観されることはないと論じ
推理に関しては反所証拒斥検証の不成立を指摘することにより
実在論を論破し無自性論証へと導く
336:神も仏も名無しさん
12/08/03 01:20:06.29 XApZ8fii
実在論へのカマラシーラの対応は
自分の意識も
外界にあると認識されるものも(唯識無境)
修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ
実在が直観されることはない
実在論を論破し無自性論証へと導く
337:神も仏も名無しさん
12/08/03 19:49:57.91 WUrQafom
>>336
色々資料を挙げてくれてありがとう。
しかしながら、ひとつも合致するものは無かったよ。
質問は「外界が実在と捉えるか非実在と捉えるか」であって「自性の実有」では無いんだ。
色々な資料挙げてくれたけどあなた自身は全部読んだ?質問の意図が理解できてなかったの?
また、色々な人の考えを聞きたいな。と思って質問しているのであって、自分が質問の意図すらも理解できないモノであったら回答は控えたほうがいいと思うよ。
それこそ先の人が指摘しているようなトンチンカンな回答になってしまう。
何故なら自身が見解を示せないから。
あなたの行為は喩えるならば
レシピ以上のおいしいショートケーキを作りたい人がケーキ屋においしいケーキの作り方の秘訣を聞きに
ケーキ屋に聞きに行ったら、ケーキ屋の前にいたおばあちゃんから「私が教えてあげる」と呼び止められて、
一緒に本屋に行って一日かけて本を一緒に探して「この本に乗ってそうだよねえ」、とか言われるようなモノです。
そして真に受けて本を買って帰ったらチョコレートケーキの一般的なレシピしか載っていない。そのような感じです。
しかも元々はレシピ以上の美味しいケーキの作り方が知りたいわけで、レシピが知りたいわけでも無い。
おばあちゃんは親切心から教えているのですが、知りたい人はたまったもんじゃありません。
まさにありがた迷惑。
おばあちゃんが呼び止めなかったら無事にケーキ屋に入ってそこでケーキ職人に質問ができたでしょう。
そこで専門家の意見が聞けたでしょう。
だから、質問に回答する事が悪いこととは言いません。
質問者に対して回答しようと思う事、それは素晴らしい善だと思います。
けれども、知らないこと、答えられないことにたいしては沈黙を保つことも美徳であると思います。
知らないことに対しての回答はトンチンカンな回答になることが多いです。
回答は知っていること、答えられることに限るのがいいと思います。
そうでなければトンチンカンな回答によって、質問を行った者も、質問を回答した者も残念な気持ちになる事が多いです。
なんだかグチャグチャになっちゃったので自分の質問は取り下げさせて頂きます。
338:神も仏も名無しさん
12/08/03 21:18:45.97 XApZ8fii
> 何故なら自身が見解を示せないから
私の意見は
自分の意識も
外界にあると認識されるものも(唯識無境)
実在が直観されることはない
と言う事でございます
339:神も仏も名無しさん
12/08/04 01:09:50.23 f2SBlPTE
>>337 素人の傍聴人ですが、
そもそも「実在」という概念にはめこむこと自体がおかしいのでは?
最初からケーキ屋においていないケーキのレシピを要求していて、
通りすがりのおばあちゃんは、「そんなケーキ自体がない」って言ってるのに、
あなたは「そんなこてはきいていない、あのケーキのレシピをさがしてるんだ」、
おばあちゃん「だぁかぁら、そんなケーキ自体がはじめからないのにレシピもくそもないんじゃ」と。
340:神も仏も名無しさん
12/08/04 01:47:12.06 jdehNPyr
>>339
俺は本人じゃねーし横レスになるけど337の一連の質問は、
初期と中期においては中観派や説一切有部は認識の対象としての境を想定するけど
唯識や経量部においては認識の対象である境を想定しない。
じゃあ後期中観派の文献においては境を想定するのか、しないのかって話じゃね
真理としてはどうあるのかって話ではなくて、あくまで文献学的にどう読めるかって事
そして多分だけど「実在」って概念は一般的に想定されるような「実在」じゃなくて
仏教論理学的な「実在」について聞いているんじゃない?
俺は論理学専攻じゃねえからわかんねえが恒常的な実有や存在を指し示しているのではないようなきがするわ
そんなものは悟りには必要ねえよ!ってなるけど、知的好奇心だって言ってるからなんともいえねえよな
>>337
ちなみにおれは後期はサッパリだからなんも回答は出せねえわ
もし、追求してーんだったら議論スレにもってってみたら?
あっちだと博識な人がおおいぞ
341:神も仏も名無しさん
12/08/04 02:01:01.98 f2SBlPTE
>>340 でも「無自性」って言われてるわけだから、
「境」と「境以外」に分別することが批判されてしまうので、
質問自体が成り立たなくなってしまう気がします。
342:神も仏も名無しさん
12/08/04 09:58:39.41 jdehNPyr
>>341
無自性論証によって境と境以外の分別は批判されてないぞ
ここでいうダルマキールティの無自性論証ってのは
有部の三無為やアートマンやイーシュバラみたいなものがもっている恒常な性質を批判するロジックであって
長いものや短いものといったそのものの持っている性質に区別がねーっていう無分別じゃねえんだわ
よーするに自分が認識してると思ってるもんは外に見ているって思っている俺の妄想にすぎず実際は心の中にあるのか
それとも俺の外にあるのかってやつじゃね?
343:神も仏も名無しさん
12/08/04 16:08:57.21 f2SBlPTE
>>342 「俺」っていう法境も意根と意識との縁起で成り立つことであり無自性なんだから、
外界も縁起・無自性であるので、外界を切り取って議論することに違和感を覚えたもので。
344:神も仏も名無しさん
12/08/04 17:18:16.48 oxgnr7ZI
若し人、三世一切の、仏を知らんと欲すれば、
法界の性は、まさに一切唯心の造なりと観ずべし・・・ か。
345:神も仏も名無しさん
12/08/04 17:51:54.14 f2SBlPTE
色の鏡で「俺」を見ると「俺」は心の姿をしているし、
心の鏡で「俺」を見ると「俺」は色の姿をしている。
「俺」の本体は色なのか心なのか。
色の鏡に映った心は幻か実体か、心の鏡に映った色は幻か実体か。
色が鏡で自分を見ると心に見えるし、心が鏡で自分を見ると色に見える。
346:神も仏も名無しさん
12/08/04 19:11:13.06 y2Ac1xFk
トンチンカンな、おばあちゃんが、と
御叱りを受けるかもしれましんが
私も
外界を切り取って話を進める事に対して違和感があったので
>>324
何故
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか?
と言う事に、こだわるのか?
と質問させて頂いたので御座います
皆様にも御迷惑をお掛けしまして大変失礼致しました
347:神も仏も名無しさん
12/08/04 19:52:50.74 jdehNPyr
>>343
だからその立場はすでに唯識だろ
後期の連中は外界に対する考え方が中観の立場なのか唯識の立場なのかって話だろ
348:神も仏も名無しさん
12/08/04 21:37:35.38 y2Ac1xFk
中観とか唯識などについて
そして
書き込み規制の時にも ↓ こちらへどうぞ
スレリンク(entrance2板)l50
輪廻転生と人格障害 (←机先生が立てたものです)
349:神も仏も名無しさん
12/08/05 10:19:38.13 vzVvTwkf
>>347
うーん、唯識とは言っていないです。
外界が認識されていないときにも外界があるのか(実在なのか)は、確かめようがない、
しかし、認識されていないときには外界が無い、とも言えない。
識がないと認識できないが、それだけをもって識が創造者だとは言えない。
ぜーんぶひっくるめて生滅し縁起してるので、一部を切り取って考えても答は「わからない」では。