11/11/25 14:46:14.46 x+u1Xzzj
>>141
西田批判
例えばカントの「道徳証明」を、西田哲学では、これを批判しています。
我々がこの世で倫理と正義を認めるならば、霊の不死と神の存在は、我々の倫理から必然的に要請される。
あの世を認めないと言われるならば、死=無の等式しか成り立たない。
死して無になる存在が人間であるならば、我々は全て自己の利益と快楽を目的に人生を歩んでいくことになる。
エゴイストと非難されても、非難しているその者も死して無になるのであるからその非難は無効である。
死がイコール無であるならば、人間は全て自己の利益と快楽を目的に全人生を送ることになる。
エゴイズムと倫理、エゴイズムと正義はこの世で両立しない。
カントはこれゆえに、正義と善の存在を我々の目的としてこの世で認めるのであるならば、
霊の不死と神の存在は我々の倫理観から必然的に要請されるという「道徳的証明」を説きました。
これは方便です。
西田哲学の探求と批判は厳しいわけですが、西田博士は次のように言っています。
「全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、
我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、
我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、
かかる者(神)がなければならぬという証明にはならぬ。
この如き考は単に方便と見ることもできる」『善の研究』
我々人間の世界に倫理が必要であるからといって神の存在がなければならぬということにはならない。
神は我々の倫理を維持するために存在しているのではなく、
我々が神のために存在しているのだという立場からの批判です。
人生の意義、人間の存在意義、人生の普遍的目的からの批判と言ってもいい。
我々にとって不完全な倫理が社会生活を営む上において必要であるからといって神の存在を要請するのは、
倫理を媒体として間接的に外から神の存在を要請し、証明せんとしているので
自己自身の生命から直接的に神を証明したる説ではないというのが、西田哲学の批判です。